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18.青山里戦闘(3)

古洞河の丘で日本軍再び総崩れ。反日部隊“反討伐”戦で大勝利おさめる


▲和龍市青山里の村り入口の丘に立つ青山里大捷記念碑(資料写真)

住民たちの一片丹誠

“青山里戦闘を含むすべての反日武装闘争は、延辺人民の生死存亡のためのものした。日本が延辺に侵入して<討伐> を敢行したことは、反日武装部隊のみを押えるためではなく、全朝鮮族に対して弾圧、朝鮮族を彼らの植民地奴隷 にするためのものでした。そのため広範にな朝鮮族人民は使命感を抱いて彼らの息子たちを反日武装部隊に送り、 兵站品を支援しました。このような献身は自分を守るための自覚的な行為でした。日本侵略者に反対することはまた、 朝鮮族だけの利益のためではなかったのです。そのため広範な漢族も青山里戦闘の時、生命の危険を冒して兵站品を支援しました。”

延辺大学歴史学教授の朴昌c先生は、青山里戦闘の際、漢族を含めた幾多の群衆たちが反日武装部隊のた めに軍資金と食糧供給を負担し、情報も提供して道案内もしてくれたと言いながら、“特に朝鮮族の女性達が漁郎 村戦闘の時に生命の危険を冒して、弾が飛び交う最前線陣地にまで食べ物を運んだことは凄く感動的です。彼女た ちは敵方と争うために食べ物を食べる時間の余裕がない闘士たちの口にご飯を運んで励ましたのです。実に涙なくし て聞くことの出来ない話です”と言い、激情を禁じえない様子だった。

このような状況をを当時の“独立新聞”は“女の一片丹誠”という文で次のように書いたと言う。

“...この地方にいる夫人たちは、愛国の一片の赤誠として食べ物を準備し、危険を冒して銃弾が紛紛と飛びかう戦線 に勇進し、戦闘に疲れた軍人たちを供償しつつ慰労した。

ある軍人たちは奔戦亡食し全く食べなかった時、夫人達が泣きながら、諸氏がもしこれを食べなければ私たちは死ん で帰ることもなくなる、と一般軍人にとって大きな慰安を受けるようにした。”

北路軍政署の研成隊長、李範も婦女たちのこんな献身的な支援に対して、自分の回想記“焚き火”でこのように書いている。

“交戦は朝から夕方までずっと続いた。飢え!しかしこれを意識する時間も食べる時間もなかった。村の夫人達が スカートにご飯包み、銃弾の飛び交う山に上って来て、ひとつひとつ同志らの口に入れてくれた。 ...子供を育て る母の慈しみ深い手助けで...その何と神聖な愛、貴い贈り物か!その愛に応えよう、この命が尽きようとも!私たち はこの山、あの山と全てを忘れたままひたすら走った。”

古洞河戦闘

漁浪村戦闘を終わらせた北路軍政署軍と洪範図連合部隊は、50人ずつ小部隊を作って黄口嶺方面に移動しな がらメンゲコル戦闘、万麒溝戦闘、西溝戦闘、天宝山戦闘などを展開、小規模ではあっても全て勝ち、幾多の日本 軍を壊滅させ、軍需品を略奪した。

天宝山付近の銀銅鉱を守備していた日本守備隊1個中隊は、北路軍政署軍から連続2回も攻撃され、洪範図連合部隊に1回 の攻撃を受けて満身創痍になった。そして日本軍は局子街がにある歩兵1個中隊と機関銃1個小隊の緊急増員を要請、1個 大隊の兵力も補わなければならないほどになった。

“何回の戦闘中でも古洞河戦闘が最も熾烈で規模の大きな戦闘でした。そして古洞河戦闘は青山里戦闘の最後の戦闘 です。 1920年10月25日夜中から26日夜明けまで続いたこの戦闘は、洪範図部隊が日本軍・飯野追撃隊の夜襲に再び反撃 した反夜襲戦でありながら、多くの日本軍を殲滅しました。今度の戦闘は討伐軍の総司令である日本軍19師団長・ 高島中将が起こした<洪範図、金佐鎮ら不逞鮮人団を根絶>するという放言が崩れ、討伐計画が破綻した最後の戦闘でした。”

古洞河戦闘は苦しんだ戦闘だったが、敵を痛快に打ち破った戦闘だったと朴昌c教授が言う。

洪範図、金佐鎮部隊を一気に殲滅しようとしたものの、行く先々で苦杯を喫した日本軍は、古洞河方面に退却した 反日部隊の後を狂ったように追って来た。しかし蜂密溝を50時間の間さまよいながら綿密に隅隅まで捜したが、 反日部隊の影も捜すことができなかった。そこで日本軍は血眼になって古洞河を捜索し始めた。

古洞河は和龍・臥龍を経て安図へ注いでいるが、松花江水系に属する。古洞河が和龍へ流れる長さは53.5km、 満州語で波が激しいという意味だと言う。洪範図部隊を捜して迷った日本軍・飯野少佐が率いる追撃隊は、10月25日 夜10時に古洞河谷 10km付近で焚き火をたいて宿営している洪範図部隊を発見した。

洪範図部隊(北路軍政署部隊の50人余りを含む) 350人余りは、古洞河で日本軍が囲んで来ていることも知らず、 うら寂しく宿営していた。炎々と燃える焚き火に集まって休息している反日戦士たちの姿が焚き火に照らされて暗闇 にはっきりと見えた。日本軍はすぐに部隊を戦闘体制に整理し、2個小隊を突撃隊として洪範図部隊を一挙に消滅しようと考えた。

10時30分、日本軍は総攻撃を開始した。明るい宿営の中で何らの準備もなかった洪範図部隊は敵方の猛攻に甚大な 打撃を受けることになった。洪範図将軍は戦場を収めるため、部隊員たちを素早く古洞河畔にそそり立つ絶壁の横 へ撤退するように命じた。戦士たちは飛虎の如く手早く絶壁によじ登った。反日部隊の押さえた絶壁は、両方に 古洞河が流れる抉り取ったような絶壁だった。木が茂っている絶壁から見下ろすと、先ほどまで使っていた宿営が明るく眺められた。

最後の決戦

日本軍は宿営を占領した後、大勝をおさめたかのように周りの山に向けて空砲を撃ちながらはしゃぎ回った。日本軍の 一挙一動がひと目で見える絶壁に身を隠した反日部隊の将兵たちは、洪範図将軍の命令が出ると素早く鉄砲を振り回 して宿営で騒いでいる日本軍に向けて銃弾を浴びせた。反撃にあった日本軍は宿営でバタバタと倒れた。

その時を洪範図将軍はこのように回顧した。

初めて日本軍は馬賊たちを道案内にして反日部隊を捜し、焚き火をしているところに向けて速射砲を発射した。 これにより火に当たっていた多くの兵士が犠牲になり、四方に散らばった。それで部隊は徹夜しても休息出来ない 岩に上がって夜明けを待ちながら、焚き火をしていた場所を見下ろしたところ、敵方の姿が見えた。絶好の機会だと 思った私たちが宿営を押さえた敵方に向けて八方したところ、呆気なく倒れた。やつらが我軍のいるところへ攻め返し て来るのを狙って銃弾を浴びせたら、倒れるやつらが数十人にもなった。騎兵が走って来るところをまた撃つと、敵は 一人も生き残ることができなかった。

主動を占めた日本軍は無鉄砲な行動に走り、無駄死にを繰り返した。当惑した敵方は攻撃を止めた後、付近の1143高地 に上がっている途中、日が明るくなり、これで助かったという安堵感で顔面に喜悦を現わした。しかし再度攻撃しようと 思ったところ、洪範図部隊は既にまんまと撤退した後だった。

古洞河戦闘を最後に、洪範図連合部隊と金佐鎮北路軍政署部隊は、26日昼から日本軍追撃隊の“包囲討伐”を完全に脱し、 討伐計画を徹底的に破綻させた。結局1992年10月21日朝から10月26日夜明けまで、6日間かけて進行した青山里戦闘は 10回余りの戦闘を繰り返しながら、反日部隊の“反討伐”側の大勝利で終わった。

“青山里戦闘の勝利は、朝鮮族だけではなく中国人民の反日意識を鼓舞しました。中国各地の新聞は連続して青山里戦闘 の消息を報道し、民衆たちの士気を鼓舞しました。そして広範な民衆の反日義憤を激発させ、特に各地の青年学生たちは 集会と示威運動を組織して日本の侵略を糾弾し、日本侵略軍が一日も早く中国から撤収することを力強く要求しました。 延吉、琿春、和龍、汪清、東寧など延辺の5県の代表たちは、外交関係を通じて日本を中国国内から追い出さなければな らないと強力に主張し、それでもダメならば武力を使っても日本を追い出さなければならないと3回も外交部に請願書を 提出しました。しかし無能な政府は、日本の蛮行を阻止することが出来ず、結局、反日部隊に対する<討伐>が朝鮮族民衆 に対する大惨事につながるのを見ているだけでした。”

朴昌c先生の慨嘆の声だった。
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