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17.青山里戦闘(2)

不思議な戦術に騙された侵略軍、味方同士争う。洪範図・金佐鎮連合作戦で強敵を退ける


▲青山里戦闘で負傷者を運び出す日本侵略軍(資料写真)

万鹿溝戦闘

漁浪村付近に集結していた洪範図連合部隊は、千里峰を中心に各所に配置され、軍事訓練、軍人募集、食糧、 服装準備などを急いだ。当時、洪範図部隊の戦士たちは黄色の軍服を着て赤い紐をつけた帽子を使ったが、万鹿溝 の谷間で日本軍の模型を作っておいて“撃て!”と号令しながら勢いよく射撃訓練をした。

洪範図部隊が漁浪村付近にいるという情報を収集した東支隊は、二道溝から垂直に漁浪村に追い討ちをかけた後、 漁郎村付近に本部を設置した。

“東は主力部隊を従えて21日、進攻を発動しました。ここに洪範図将軍は部隊を千里峰に隠しました。洪範図将軍の 日誌によれば、21日には戦闘がなかったそうです。22日、東は部隊を率いて南万鹿溝に入って行き、天宝山にあった 飯野部隊は迂回して洪範図部隊の退路を遮断しながら両方へ挟攻しようと試みました。しかし天宝山を発った後、 道に迷った飯野部隊はあちらこちらを迷っている途中、南陽村で宿営して、22日夜明けには北万鹿溝に到着しました。 ここに洪範図将軍は南北二股に分かれている日本軍<討伐隊>を主動的に攻撃しました。”

延辺大学歴史学教授の朴昌c先生は、万鹿溝戦闘に対して詳細に説明した。

洪範図将軍は前後から囲もうとする敵方の意図を予め見抜き、部隊を南万鹿溝と北万鹿溝間の両側に配置して待った。 そうとも知らず、日本軍の東支隊の予備隊は、南万鹿溝に沿って洪範図部隊の足跡を捜して谷間に上って来た。同じ時刻、 飯野部隊は南陽村宿営地を発って早朝に川を渡り、北万鹿溝に沿って入って来た。

敵方が近付くと洪範図将軍は射撃命令を出した。両側の山腹に待ち伏せていた連合部隊の将兵たちは、二股に分かれて 敵方に向けて一斉に射撃した。急な攻撃に敵方は慌て、やっと我に返って反撃した。こうして朝7時20分に始まった戦闘は、 11時まで4時間の間も続いた。戦闘が激しくなる時、洪範図将軍は部隊を指揮して巧みに陣地からこっそりすり抜け、 東支隊予備隊の側面を攻撃した。高地に先に上がった時、予備隊はいきなり北万鹿溝へ上って来る飯野部隊の射撃を受けた。 飯野部隊は予備隊を洪範図部隊と勘違いしたのだ。飯野部隊の攻撃を受けた予備隊は、飯野部隊を逆に洪範図部隊と思って 猛烈に反撃を加えた。かくして敵方は味方同士闘い、おびただしい被害を出したのである。

味方同士で争うのをを見物した洪範図部隊は、敵予備隊の後頭部に向けて猛撃を浴びせた。かくして敵の予備隊は洪範図部隊 と飯野部隊の“挟み撃ち”に遭い、殆ど殲滅されてしまった。洪範図部隊は敵方がまだわけがわからずにいる間に戦闘から 退いて蜂密溝方向に撤退した。

“万鹿溝戦闘で洪範図連合部隊は7名以上の損失を出し、敵方は400人以上の損失を出した。”(崔洪彬) 400人余りの的 を殲滅した洪範図部隊は、泉水村方向に退却する途中、金佐鎮部隊が戦っているところに至った。一方、万鹿溝で敵方どう し闘った日本軍は、遂に洪範図部隊を追撃している途中、12時30分に漁浪村戦闘に参加することとなる。

漁浪村戦闘

白雲坪戦闘で勝利した金佐鎮将軍は、北路軍政署を率いて夜通し強行軍にて元の計画どおり、10月22日夜明け2時30分に 臥龍溝甲山村に到着、早い朝食をとった。ここで金佐鎮将軍は、日本軍の一騎兵小隊の40人余り(李範の回顧によると 一個中隊116名だという)が泉水坪に駐屯しているという情報を当地の住民たちから聞いた後、続いて泉水坪戦闘にとりかかった。

北路軍政署軍の旅行団(第2梯隊) 80人余りは、甲山村を発って山裾を歩き、泉水洞南山に至った後、敵の動静を察した。 時は朝5時頃、敵方は反日部隊が包囲して入って来ることを少しも知らずに、深い眠りについていた。部隊が敵を囲んで 襲おうとした時、我軍の後方から誰かが不注意で暴発をした。銃声は敵方を深い眠りから覚ましてしまった。旅行団の戦 士たちは猛虎のように村を襲った。まだ我に返ることができなかった敵方は一人、二人と反日部隊の銃弾に倒れた。 この襲撃戦で、敵4人が本部のある漁浪村へ逃げた以外は、全員が壊滅した。

逃亡した敵4人が本部へ戻って報告すると、大部隊がすぐに攻撃して来ると予測した金佐鎮将軍は、有利な高地を 押さえなければならないと判断し、一部の部隊を西南の方3里余りのところに派遣、まず日本軍の進路を阻むように して、主力部隊は高地を押さえるために行動を開始した。

あにはからんや、やがて敵軍第27騎兵連隊の主力と一部の歩兵たちが山砲まで動員し、加納大佐の指揮下に泉水 洞谷間の上り口に現われた。反日部隊の狙撃隊は追撃して来る敵方に射撃を加え、大量に殲滅した。しかし敵方は 数に勝る兵力を信じて狂ったように反日部隊の高地に向けて進攻した。狙撃隊は追撃して来る敵方に射撃する一方、 本部がある渓谷に退却した。9時から始まった戦闘は、反日部隊と日本軍との高地争奪戦だった。先に874高地を押さ えた反日部隊は、有利な地形を利用して敵方の攻撃を何度も撃退した。

幾度もの進攻で失敗した敵方は、一部の騎兵隊で反日軍の陣地を迂回して反日部隊の右側を攻撃しようと試みたが、 それさえ旅行隊の集中射撃で失敗してしまった。戦闘は続き、徐々に苛烈な白兵戦にになって行った。東少将は騎兵 第27連隊と野砲兵第25連隊第1大隊の兵力まで出動させ、歩兵部隊と合わせて作戦を立てながら狂奔した。戦闘は徐々 に数量上、装備上、絶対的に敵方に有利になり始めた。反日部隊は非戦闘員まで動員され、最後の決戦を覚悟しなけれ ばならなかった。戦闘は午前11時を過ぎても続いた。

12時30分、洪範図部隊の足跡に付いて追撃した飯野部隊が、この戦闘に出くわし、戦闘に参加するようになった。 “かくしてこの戦闘に投入された日本軍は、騎兵隊約250人、予備隊約600人、飯野部隊約100人の合計で1000名前後だった。 ”(崔ホンビン)反日部隊の戦士たちは命を惜しまず決死的に反撃したが、次第に押され、犠牲者も増えた。

まさにこの時、右側の山の端から時ならぬ銃声が鳴った。狂ったように飛びかかって来ていた敵方が、急に枯れ草のようにで たらめに倒れた。あっという間に彼我の激戦構図が急変した。金佐鎮将軍の北路軍政署軍の将兵たちが見ると、洪範図将軍 が従えた連合部隊の将兵たちが敵方に向けて射撃していた。万鹿溝戦闘で勝利して主動的に撤退した連合部隊は、蜂密溝の方 向に移動する途中、北路軍政署軍が闘っている谷に入ったのだ。洪範図部隊は万鹿溝戦闘で大きな損失がなかったため、 元々の兵力をそのまま保存していた。洪範図部隊は谷に立ち入ると金佐鎮部隊が押さえた高地の横の、それよりもう空く し高い地点を占領し、金佐鎮将軍に向けて進攻する敵方に一斉射撃を加えたのだ。北路軍政署軍の将兵たちは涙を流して歓 声をあげながら敵方を打ち破った。

洪範図部隊の参戦は金佐鎮部隊に対する敵方の進攻に甚大な障害となった。敵方は仕方なく部隊を分散して洪範図と 金佐鎮部隊を進攻するしかなくなった。戦闘は夕方7時半まで続いた。戦闘場に闇が下りると、敵方の進攻が止まった。 この機会に他の金佐鎮の北路軍政署軍は、洪範図の連合軍が占領した高地に移った後、闇に紛れて部隊を分け、まんまと退却した。

“漁浪村戦闘は青山里全域で最も大きな戦闘です。白雲坪戦闘を西部戦線の手始めとするなら、漁浪村戦闘は大会戦です。 ご覧のように洪範図、金佐鎮ら反日部隊の主力と東支隊の主力部隊の間の大接戦でしたから。その後に続いて天宝山 戦闘、万麒溝戦闘、西溝戦闘、古洞河戦闘など何回も戦闘があったが、このすべての戦闘はすべて我軍が撤退中の戦闘でした。”

当時の戦闘状況を朴昌c教授はこのように打ち明けた。
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