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16.青山里戦闘(1)

罠に嵌った侵略軍、バタバタと倒れる。反日部隊、白雲坪で初勝利


▲安川少佐が率いる先発部隊が全滅した直沼

決戦前夜

和龍市 富興郷 青山里村で海抜 1677mの枕峰(一名、曽峰山)が大きな枕のように山の頭領のように横た わっているのが一望出来る。 村の入口の小さな丘に青山里抗日大勝記念碑が立っている。 記念碑は 500平米の敷地 に幅25m、高さ17.60mの大きな花崗岩で出来ている。見るだけで気持ちが壮快だった。石碑の前には “青山里抗日大捷記念碑”と朝漢文字で刻まれており、底面には日本と激戦を繰り広げている反日武装戦士たちの群像が刻まれている。

青山里村から海蘭江上流に向けて 4〜5里ほど上がると、有名な白雲坪の激戦地が現われる。 しげしげとよく見 れば、火に焼けた基礎石があちこちに散らばっているのを手軽に見つけることができる。今は荒廃した廃虚になっ てしまい、伐採労務者たちの住む丸太小屋があるだけだが、当年には何十軒かがごぢんまりと集まって住む朝鮮族村だった。

裂け目のように伸びた山道に従って山をずっと上って行くと、清々しいせせらぎの水音がさらに爽快になるようだ。 こうして 6〜7里さらに上がると、足もとに清い小川が流れる小さな沼を見つけることができる。 大きな岩を抱えこ んで流れる川の水が落差の大きい高い岩から落ちながら沼を成したといい、直沼沢と呼ばれる有名な沼だ。 もちろん 鳳梧洞戦闘で叩きのめされた日本陸軍少佐の安川が指揮する73連隊先鋒部隊が、金佐鎮の北路軍政署部隊によって全 滅したところとして、その名前を知られたところである。

“武装闘争を活発に展開した反日武装部隊は日本の <討伐>に備えて、1920年 8月下旬から根拠地の移動を始めるようになります。”

延辺大学歴史学教授の朴昌c先生は、当時の反日武装部隊の移動情況を説明してくれた。鳳梧洞戦闘の後、 明月溝に根拠地を置いていた洪範図が指揮する反日部隊は、安図県の白頭山麓に向けて移動し始め、9月21日頃に は安図県と和龍県の接境地帯である漁浪村付近に到着した。依蘭溝に根拠地を設置していた安武が率いる国民会軍 は、8月31日、安図県方面に向けて移動し始め、9月末頃に漁浪村付近に到着した。鳳梧洞に根拠地を置いていた 崔振東の軍務都督軍府は草帽頂子を経て、9月末頃、汪清県羅子溝に到着した。金佐鎮の指揮する北路軍政署軍は 根拠地である汪清県西大坡、十里坪を発し、10月12日、13日に和龍県 三道溝 青山里付近に到着した。 10月2日、 “琿春事件”を操作した日本は、10月14日、間島侵略を宣言、16日には延吉都尹に17日0時を期して間島で反日部隊 “討伐”の軍事行動を始めることを通告した。

龍井、局子街、頭道溝方面の“討伐”の責任を負った東支隊は、10月17日、洪範図部隊と金佐鎮部隊が漁浪村、 青山里付近に駐屯しているという報告を受け、10月18日に部隊を分けて三道溝青山裏付近にある金佐鎮部隊と臥龍 溝漁浪村付近にある洪範図部隊を“討伐”する目的で部隊を動かした。こうして日本侵略軍と反日部隊の青山里戦闘は不可避になった。

“戦闘を控えた10月19日、金佐鎮の北路軍政署軍と洪範図連合部隊首脳者たちは廟嶺で日本侵略軍の<討伐>にどの ように対応するかを巡り、会議を開きました。会議で、主戦派と非戦派間に論争が起きましたが、北路軍政署の 副総裁である玄天黙が力を保存するのであれば絶対に日本主力部隊と決戦してはならないと言って非戦策を取る ことに決めました。そして北路軍政署軍は軍隊を待ち伏せさせてから狙い撃ちしようとしていた計画を諦め、 青山里へ撤退するようになりました。部隊は翌日、白雲坪に到着しました。”

10月17日、東支隊長の作戦命令を受けた山田連隊は、左右縦隊に分かれ、左縦隊は山田大佐が直接率いて八家子 を経て20日に青山里に到着し、右縦隊は中村大隊長が率いて二道溝を経て迂回し、北路軍政署軍の北の退路を遮断、 左右縦隊が呼応して北路軍政署軍を囲もうと試みた。

白雲坪戦闘

北路軍政署軍の研成隊長・李範は、金佐鎮将軍の指令に従って直沼付近に部隊を配置、待ち伏せ戦を展開し、 追撃隊は敵を制御しながら本部隊の後退を擁護しようと考えた。そして教成隊200人余りを直沼沢に待ち伏せ させ、李範は正面で全般戦闘を指揮することとした。

北路軍政署軍が敷いた待ち伏せ隊は、左右両側によじ登るのも大変な山があって、その間の谷間は20〜30mほど、 広いところでも40〜50mにしかならない、待ち伏せ戦に理想的な場所だった。

折りしも霜の下り始める季節を控えた秋、北路軍政署軍の将兵たちは寒気が骨身にしみる寒さの中で夜を過ごさな ければならなかったが、翌日の激戦を思いながら緊張した心をほぐさなければならなかった。遂に東の空が明るく なり始め、日の光りが木の枝にちらつき出した。身体に落ち葉を被って鬱陶しい夜を過ごした戦士たちは、緊張した 心で敵軍が近付いて来ることだけを待った。

峡谷の両側の山すそに反日部隊の勇士たちが待ち伏せているとは思いもよらない侵略軍は、狭い山道に入って来始めた。 “越江追撃隊”を従えて入って来てから、鳳梧洞で惨敗を喫した安川少佐が今度も先遣部隊1個中隊90人余りを 従えて死の包囲網の中に入ったのであった。彼らは西方2kmの地点にある空地で北路軍政署軍が夜に宿営した所と 60個あまりの焚き火の跡を見付け、警戒を強化しながら一列にずらりと並んで北路軍政署軍を追跡して来ていた。

“ダン!”

研成隊長・李範の攻撃を知らせる初の銃声が山の谷間を裂きながら高く響いた。前後の 前後の山の端に待ち伏せていた200余丁の銃口で激しい銃撃が始まった。夢にも思わなかった突然の襲撃に当惑した敵方は、 四方から飛んで来る銃弾を避けようと、大混乱に陥った。敵方は対応射撃であがきもして見たが、反日部隊の待ち伏せ地点 を判断することができず、無駄撃ちばかりするだけだった。目と鼻の先に敵を置いた反日部隊は復讐の銃弾を容赦なく撃ち 続けた。戦闘は速決戦で終わったが、それでも約30分程続いた。

戦闘で敵軍90人余りが殆ど消滅したようだった。勝利した北路軍政署軍は、金佐鎮が第1梯隊を従え、先に移動しながら 第2梯隊に第1梯隊の撤収を援護することと、翌日夜明け2時前に蜂密溝甲山村に集結することを指示した。この指示に従 って第2梯隊は第1梯隊の撤収を援護しながら韓根源中隊を後衛として安図老寧へ撤退すると見せかけ、急転換し、密林 をかきわけて北上し、甲山村へ撤収した。

青山里大惨事の現場

白雲坪戦闘で惨敗を喫した日本侵略軍・山田連隊は、反日部隊が安図県の方へ後退したと思い追撃したが、反日部隊の影 も捜すことができず、午後2時に追撃を中止して戻り、その腹いせに罪のない白雲坪の住民達に“討伐”を敢行した。 敵方はすべての家を燃やし、目に見える人毎に殺し、さらに子供まで生き埋めにしたり鉄砲で殺した。伝えるところに よればその日、外地へ親戚訪問に行った二人が生き残った以外はすべて殺害されたという。

当時、白雲坪には人家50、60世帯が暮していたと言う。一世帯当たり5人としても白雲坪の惨事で殺害された人は300人余 りになる。こぢんまりした朝鮮族村は日本の野獣のような蛮行で一日でこの世から姿を消してしまった。日本軍は青山里 村だけでなくその一帯の村を全て燃やし、会う人毎に全て殺した。

“目撃した人の話によれば、その頃、白雲坪で三日の間、煙が上がっていたといいます。その後にも敵方は全て燃やし全 て殺す政策を実施し、幾多の朝鮮族村を灰燼にし、罪のない民を殺しました。”朴昌c教授の悲憤に満ちた話だ。
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