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15.“琿春事件”

出兵の口実を作るために操作したニセ事件、世間を驚かせた庚申年惨変の導火線


▲延辺にて反日関係者を虐殺する日帝侵略軍(資料写真)

陰険な画策

“日本は延辺反日武装隊が彼らの正規軍を惨敗させるだけの力があるとは思わなかったでしょう。 鳳梧洞戦闘で、日本は腰を抜かしました。反日武装隊伍を殲滅しようと、自分勝手に鳳梧洞谷へ進撃 したら手酷い惨敗を喫したのですから。ますます壮大になる反日武装隊伍を消滅させるため、日本は 大量の正規軍を延辺に派遣し、抗日武装隊伍を消滅するための画策をするようになります。 <琿春事件>もその一つです。”

延辺大学歴史学教授の朴昌c先生は、日本が操作した“琿春事件”を説明しながら、 “琿春事件”はずいぶん以前から進めて来た陰謀だったと言う。

“3.13”運動の後、朝鮮族地区に設立された幾多の反日武装団体と、彼らの進めた反日武装闘争は、 日帝の植民統治に大きな脅威を与えた。ここに日本は、1920年5月上旬に朝鮮総督府警務局長の赤池を奉天 に派遣、張作霖と日中共同“捜査班”を組織して奉天と間島一帯の朝鮮族反日部隊を討伐する事で協定を結ぶ。

1920年7月16日、奉天総領事館の赤塚総領事は、張作霖と交渉して“中国側軍隊の討伐に吉林督軍顧問の齊藤 が同行し、中国軍隊が討伐の時に援助を要求すれば日本軍も参加できるようにすること”を決めた。

当時、吉林省政府は日本軍の出兵は主権に係る重大な問題と認め、当然に断り、中国軍隊を出動させて反日 部隊を討伐しなければならないと主張した。これに対して日本は、根本的な討伐を加えようとする時は日本軍 を主体にしなければならないと申し立てる一方、直接出兵のきっかけを用意する陰謀を企んだ。

血に染まった琿春城

1920年9月12日朝5時頃、突然の銃声が静かな琿春城の静寂を破った。黒龍江省 東寧県 老黒山地帯に本拠地を 置いていた鎮東、万順を頭目とする馬賊が、琿春県城に攻め寄せた。馬賊の親分・万順は親日匪賊コサンの影響下 で活動していながらコサンと密接な連携を持っている者だった。万順は親日匪賊コサンの言うことなら何でも聞いた。 コサンは日本軍間諜である山本かく子を愛妾として連れて暮していた。

この日、東北の方へ攻め寄せた馬賊たちは、警察署を襲い、東門と南門に攻め寄せた馬賊たちは陸軍兵営と憲兵 兵営を襲撃、県の官庁を砲撃した。小規模の馬賊たちはいくつかに分かれて民間にも侵入し、殺人、放火、略奪しながら蛮行を働いた。

馬賊たちはが行く先々で火をつけ、琿春市街地は随所に火柱が上がり、体が縮むような銃声で阿鼻叫喚になってし まった。当時、琿春市内には官兵270人余りがいたが、何らの準備もしておらず、辛うじて寝床から起きて僅かに応 戦するだけだった。吉林陸軍公兵営営長チョン・キチャン領事官と外国人商店を保護し、陸軍第2旅第2団第2営営長 ・呉ウンソンは、隊伍を二つに分けて西の城門と北の城門に進撃した。しかし三回も進撃したが馬賊たちの猛烈な射 撃で後退してしまった。

戦闘が2時間余り続いた後、遂に馬賊たちは隊伍をおさめて退却し始めた。 “吉長日報”の報道によれば、この日、 日本警察署、領事館は何らの損失もなかった。拉致された者は中国人80人余り、韓国人6人で、200ほどの家屋が燃 えてしまった。これが正しく第1次“琿春事件”である。

“日本が要求したことは単純な琿春襲撃ではなかったのです。出兵の口実を作ろうとしたのです。ところが馬賊たちは 日本の人々に何の被害も及ぼさなかったため、日本の連中は逃げようにも逃げられなかったでしょう。そしてまた琿春 を襲うようにしました。第1次‘琿春事件’が起こってから20日しか経たない10月2日夜明け4時頃、万順を頭目とする 馬賊の無頼たちは鎮東一味と力を合わせて400人余りの大兵力を動員し、再び琿春に大挙侵攻しました。”

朴昌c教授は第2次“琿春事件”の経過を説明した。

機関銃1丁と山砲1門を持っている馬賊たちは、東西二つに別れ、城門に機関銃射撃を加えながら、城内をで たらめに砲撃した。西大門から入って来た土匪たちは、打ち合わせたとおりに直ちに日本領事館に飛びかかった 。中国警察が領事館を護衛していたが、馬賊たちの機関銃と洋銃の火力には適わなかった。垣根を爆破した馬賊たち は、潮が満ちるように集まって来て、領事館に火をつけた。

東大門に攻め寄せた馬賊たちは、官兵たちの防衛線を突破して上部地に突入し、人さえ見れば殺し、次から次へ奪っ て火をつけた。 4時間余り発狂している途中、100人余りの人を拉致して老黒山方面に退却した。この日、馬賊たち は日本領事館警察署長と朝鮮人巡査1人、在郷軍人1人を殺した他、日本人男女10人余りを殺害した。

“庚申年惨変”の導火線

“第1次‘琿春事件’があってから20日余り後に第2次‘琿春事件’が起きたというのは、常識的に考えても不可思議 な事で、また第2次‘琿春事件’で何らの‘経済的’意味もない日本領事館を入れたというのは、その何らかの‘政治 的’目的を果たすための陰謀だという事も、明白な事実に違いない。.”(沈ヨンスク“琿春事件”)

日本は今度の事件を起こした匪賊たちの中にロシア紅軍、中国軍隊、不逞鮮人たちがいた、と世論を造成しながら、多 くの面で出兵の口実を操作した。

“琿春事件”は口実に過ぎなかった。事件が発生したその日、朝鮮の羅南に駐屯していた日本軍第19師団の師団長、高 島中将が命令を下し、穏城近所に駐屯している阿部大隊を慶源郡訓戎に待機させた。翌日、阿部が従えた歩兵一中隊と 機関銃一小隊が最初に豆満江を渡って琿春へ出動した。続いて朝鮮駐屯軍第19師団第38旅団長の磯林が率いる磯林隊、 歩兵第76連隊長・嘉村が率いる嘉村隊、第37旅団長の東が率いる東支隊の兵力が豆満江を渡って琿春、汪清、龍井へ進撃した。

10月9日、日本の陸軍大臣はウラジオストク派遣軍司令官と朝鮮駐屯軍司令官に間島出兵作戦命令を出した。“琿春事件” はついに“庚申年惨変”の導火線になった。

日本軍は反日団体が北満州へ脱出するのを牽制するため、ハルピンに駐屯している関東軍第53連隊の安西少佐が従える安西 支隊を派遣し、海林を中心に韓中東鉄道沿線から北へ撤退する反日部隊を阻むようにした。日本軍はまたロシア・シベリア へ出兵した第11師団の一つの大隊、機関銃隊、騎兵1個小隊、工兵半個中隊の兵力で土門子支隊を構成し、琿春東部の中露国境 から反日武装部隊がロシア沿海州一帯へ移動するのを制止する任務を任せ、10月19日国境を超えて琿春・春化地区の草帽頂子、 土門子等に進撃するようにした。

日本軍第13師団は、羽入大佐の指揮下、歩兵の1個大隊、騎兵1個連隊、砲兵1個中隊により羽入支隊を構成した後、10月19日と 20日に国境を通過し、老黒山付近へ進撃した。これ以外に沿海州から撤退する第14師団第28旅団4000人余りの日本軍は、 ロシアのポセイトに上陸し、浜海省を経て琿春に侵入し、第15連隊を琿春と龍井に残して“討伐”隊を強化することとし、 残りは局子街、龍井、朝鮮会寧を経て羅南に帰った。10月13日、第19師団第73連隊の2個中隊が豆満江を渡って反日部隊を “討伐”するようにした。かくして国内外を震撼させた“庚申年惨変”が始まった。
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