xxxxxxx
朝鮮族通信 中国の朝鮮族に関するニュースポータルサイト Search by Google:
ホーム 朝鮮族概要 地域紹介 政治 経済 歴史 観光 ショッピング コミュニティー お問合せ


目次][BACK][NEXT

14.鳳梧洞戦闘

日本侵略軍と繰り広げた初の連合作戦、反日武装闘争で成し遂げた初勝利


▲1922年、ロシアのブラコベシチェンスクで過ごしていた頃の洪範図将軍と夫人

鳳梧洞戦闘の導火線

図們の日光山(海抜397.7m)は美しい山だ。切り立ったような奇岩絶壁で屏風のように なっている日光山は、秀麗で美しい一幅の山水画だ。その上に日光山を囲むように流 れる豆満江は、山と調和を成していて、神秘的な風情を醸し出してくれる。

日光山の麓にある村が有名な三屯子村(今の図們市 月晴郷 馬牌村)だ。間坪あるい は新火とも呼ばれるこの村は、1920年当時には和龍県月新社に帰属していた。日光山 から見下ろせば、間坪平野の小さな村がひと目で見渡せるが、朝鮮咸鏡道穏城郡 (元々は鐘城郡に所属)江陽洞の鉄道駅と村だ。後ろ向きになって眺めれば図們と北朝 鮮の南陽が目と鼻の先に見える。亀岩の下へと峠道が続いている。

1920年6月4日朝5時、新民党所属の朴昇吉部隊30人余りが三屯子を出発して川を渡っ た後、江陽洞の日本軍警戒所を襲撃、日本軍憲兵軍曹・福江三太郎以下4〜6人を殲 滅、川を渡って帰って来た。江陽洞襲撃戦前は、当時、延辺の各反日団体で進めてい た朝鮮国内進入作戦の一環だ。 “1920年<15万元奪取事件>を含め、日本軍警駐屯地 か警察署の襲撃が連続して起きたが、不完全な統計によっても襲撃事件は1650回余り になった”(徐ボンハク、李グァンス 大型ドキュメンタリー“延辺アリラン”)と言う。

その日、朴昇吉部隊は帰って傑満洞方面から他の反日部隊が 江陽洞襲撃を目標に三屯子に至ったが、ちょうど豆満江南岸鐘城守 備隊の巡邏兵たちが江陽洞方面に向かう途中、豆満江北岸の抗日軍を見付けて発砲、 これに反日部隊も応戦して激しい銃撃戦が起った。

江陽洞警戒所が襲撃され、三屯子村で日本軍鐘城守備隊と抗日軍が豆満江を 挟んで銃撃戦を行ったという急報に接した南陽守備隊の新美中尉は、6月6 日午前11時、自分の小隊と山本憲兵伍長が率いる憲兵を含む17人を従えて、三屯子から 7〜8里離れた下流から豆満江を渡って中国国境内でたどり着いた後、峠を越えて 三屯子の西側の小さな谷間に下って村の裏山を占領、反日部隊を一挙 に消滅させる目的で三屯子村を襲ったが、反日部隊の影も見られなかったので 村の罪なき民たちに腹いせしてから、峠を越えて反日部隊の 足跡を続けて追い討ちしている途中、日光山の裾に宿営しながら応援部隊を待っていた。 夜10時、数十人の武装した反日部隊は、三屯子西北の高地に至り、宿営 している一軍の歩哨線を襲って鞍山方面に退却、双方の交戦はさほどなかった。

6月5日、日本軍の安川少佐は、朝鮮駐在第19師団の命令を受けて歩兵第73連隊(羅南) 所属の機関銃1小隊と歩兵第75連隊(会寧)所属の歩兵1個中隊のいわゆる “越境追撃大隊”を編成しており、6月6日夕方9時から海蘭江と豆満江の合流地点で10 里離れた下流から河を渡り始めた。一方、日光山で宿営していた新美部隊は、鞍山方面 に進軍せよとの命令を受け、川を渡り、後安山の近所 で安川部隊と合流して鳳梧洞に進軍する準備をした。 “今度の戦闘に 参加した日本軍は歩兵約200人、憲兵8人、警察10人の合計220人余りだった。”(崔洪彬 “鳳梧洞戦闘に関するいくつかの問題”)

鳳梧洞に進軍するために日本軍追撃隊は道案内を捜すため、偵察兵を後安山の村に派遣した。

この時、朝鮮へ行って募金して帰って来た崔ミョングクら13人の募金隊が前安山の崔ミョングク 宅で夕飯を食べた後、後安山の崔ジングク宅へ来て燈を点けて今後の行動方法を相談していた。 日本軍の偵察兵たちが後安山に入ってよく見たら、1戸に火が点いているので、 誰の家かも分からずにやたらに門を開けて入った。 急に入って来た日本軍の偵察兵に向けて、崔ミョングクら反日戦士たちは一斉に射撃して 家を飛び出し、北の高麗嶺の麓へ後退しながら追い討ちして来る日本軍に 攻撃をかけた。日本軍は抗日軍の後を追ってずっと追い討ちして来た。戦闘は2時間 ほど続いたが、真っ暗な夜中に進行された準備のない衝突だったので、双方はあ まり大きな損失を受けなかった。日本軍1人が死んで、独立軍1人と崔ジンサムの妻が犠牲 になり、里人5人が逮捕された。


▲鳳梧洞反日戦跡地記念碑

日帝との初の戦い

水青き湖面に周辺の山裾がきれいに映えている鳳梧洞貯水池、 遠く草帽頂子山のまっすぐな額がよく見える。あまりにも美しくて静寂なところだ。 遊覧客の足が途切れないこの地が、対日戦の初戦闘が起った所 だと誰が考えるだろうか。その戦闘は中国全体で日帝と激突した初の戦闘だった。

貯水池の傍にある鳳梧洞反日戦跡地記念碑にはこんな文が刻まれている。

1920年6月7日、反日名将洪範図を司令とし、崔振東を部長にした朝鮮族独立運動 大韓北路軍府(反日独立軍)は、狭山壁谷の鳳梧洞の谷で 豆満江を渡って侵入した安川少佐が率いる日本軍19師団所属部隊、 新美中尉の南陽警備隊と戦い、世界を震撼させた反日武装闘争の初の烽火を上げた。

反日独立軍は隙間無く待ち伏せ陣を敷いていたが、午後1時頃、日本軍が通るや否や 三面高地から一斉に集中砲火を浴びせた。この猛撃戦で日本軍150人余りを 殺害し、10人余りを負傷させ、長銃60丁余りと機関銃3丁、及び拳銃と弾薬などの武器を奪い取った。

延辺反日武装闘争でおさめたこの勝利は、日本侵略軍の気炎を打ち砕き、 人民大衆の反日闘志を大きく掻き立てた。

我々はこの戦跡地の真意の道がつながることを祈ってこの玉書を刻む。

中共図們市委統戦部
図們市博物館
図們市水道公社
1993年6月7日

遺跡碑の底面はレンガが積まれているが、まだコンクリートを塗ってもいない未完成状態だった。 記念碑の左側に青々した松一本が伸びていて、抜けるような晴天を見ていると あの頃の英雄たちの精神が息づいているように見えた。 一人では抱えられない、見るからにガッチリした松だった。

1920年6月7日朝4時45分、日本軍“越江追撃大隊”は後安山で崔ミョングクの一団と交戦し つつ、ずっと追撃して来たが、前衛中隊がついに李化日部隊の待ち伏せ 圏に入ってしまった。李化日部隊は敵方に一斉射撃を加えた後、一目散 に高麗屯の裏山を越えて北鳳梧洞の方に退却してしまった。 突然襲撃を受けた日本軍はしばらく後退してからまた隊伍を建て直し、 李化日部隊が退却した方向に追撃、8時30分頃に下村に入ったが、 既に村中がガランとした状態。カラ振りに終わった日本軍は、 谷間に沿って中村に進撃した。中村で遅い朝食を済ませた日本軍は、 続いて上村に向かった。日本軍はまだ身を避けることができなかった民衆にでたらめに銃 弾を浴びせ、多くの殺傷者を出し、ある農民を道案内にして上村に向けて進撃 した。昼12時頃、日本軍斥候兵たちが反日部隊の待ち伏せ圏内に入り、午後1時頃 に日本軍追撃隊全部が完全に待ち伏せ圏内に入ってしまった。 上村で日本軍は北東と南東を捜索したが、村はガランと空いており、人影も捜すことができなかっ た。やっと独立軍の待ち伏せ戦術に嵌ったことが分かり、慌てて南東の尾根伝いに退却しようと試みた。

“ダン!”

谷を裂く高い銃声と共に日本軍指揮官の一人が馬の背から崩れ落ちた。 その銃声は洪範図将軍が総攻撃を知らせる信号だった。西山と東山から怒 りの銃弾が嵐のように飛んで来た。日本軍は2丁の機関銃の攻撃を受けながら西山に向かって突撃した。

この時、西山指揮所で小さな赤い手旗が振られ、谷間に待ち伏せた 許ヒョングン小隊が近距離で集中射撃を浴びせた。敵方は二つに分かれ、 片方は許ヒョングン小隊の待ち伏せ地点に突撃し、他の一方は西山 へ引き続き突撃して行った。そこで許ヒョングン小隊は近付く敵方に対応する一方、西山に 向けて突撃する敵方に射撃を加えた。遂に敵方は主力部隊を動員し、許ヒョングン小隊に襲い掛かった。

今度は東山に待ち伏せていた崔明禄の部隊が許ヒョングン小隊に襲い掛かる日本軍主力部隊 に向けて猛射撃を加えた。東西にわたる交差射撃圏に入った日本軍は、慌 てて退却しようとした。この時、南山に待ち伏せていた新民団部隊が敵に向かって 射撃を加え、日本軍は東西南三方からの交差射撃を受けるようになり、南側の退路ま で遮られた。日本軍は大混乱に陥ったが、兵力を集中して東向きに退却路を開こうと 試みた。時は午後4時20分頃だった。

空に真っ黒な雲が押し寄せ、稲妻が走り雷鳴が鳴った。大きなひょうが暴 風と共に降り出し、至近距離すら見分けられなくなった。 日本軍はこの千載一遇の機会に乗じ、散り散りになった部隊を引き連れて逃走した。

反日部隊も土砂降りのひょうと雨そして戦闘で疲れ果てたのか、それ以上は追撃せずに 戦場を収拾した後、汪清方面に退却した。鳳梧洞戦闘は反日連合軍の大勝利で終わった。

鳳梧洞戦闘は反日部隊が計画的に待ち伏せ戦を進め、日本の侵略者を撃破した 抗日軍初の戦闘であり、初の勝利として中国での反日武装闘争の発端を開いた。

鳳梧洞戦闘はまた、延辺の反日武装部隊の初の連合作戦だった。 1920年3月、洪範図は 朝鮮国内に対する進攻作戦を効果的に進めるために、大韓義軍団の本営を明月溝から 汪清県大坎子に移し、当時、延辺地方で一番勢力が大きかった反日団体で ある間島国民会と連携し、軍務委員・安武を指揮官とする国民会軍 と連合し、征日第1司令部を設立、後には崔振東と連合をはかった。鳳梧洞戦闘直 前の5月11日、洪範図、崔振東など北路督軍府、新民団、光復団、義軍団、し めて4つの武装団体のリーダーたちは、鳳梧洞で会議を開いて連合作戦に関する 合意をした。5月28日には大韓義軍団と国民会議国民軍及び軍務都督府が連合して一 つの独立軍団である北路督軍府を組織し、司令部本部を鳳梧洞上村に置き、 兵力を集結して力強い朝鮮国内進撃を計画して主要幹部と指揮官を任命した。

鳳梧洞戦闘は日本侵略者に深刻な打撃を与え、広範な大衆に勝てるという 信念と勇気を与えてくれた。この偉大な勝利は武装により固く団結さ えすれば、どんな侵略者でも撃破することができるという真理に目覚めさせてくれた。
Copyright(C) 朝鮮族ネット