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9.瑞甸書塾

龍井に根付いた反日教育の火種、日本の文化侵略に反対する炎に


▲瑞甸書塾跡地にて記者の取材を受ける金在権先生

瑞甸書塾旧跡

龍井市実験小学校の運動場の東の隅に二抱えもあるニレの木が立っている。 ニレには“瑞甸書塾記念木”という札がかかっているが、札にはこんな文が書かれている。

反日民族志士・李相卨 (イ・サンソル)は朝鮮族の後代教育のため、1906年に私財を投じてここ に瑞甸書塾を立てた。瑞甸書塾は朝鮮族の在来の旧学書堂教育から新式学校教育への第一歩を踏み出 し、反日民族教育の先鋒となった。朝鮮族神学校の開設と共に当地に根付いたこの木は、歴史の生き証人 として李相卨の業績を後世に永遠に伝えている。

記念木のすぐ後に東屋があり、正面の上部に“李相卨亭”という4文字が刻まれてい る。東屋の左に少しかたよって“ソ連紅軍東北解放記念塔”と“沈連洙詩碑”が立てられていて、その 中間に自然石で作られた“瑞甸書塾”旧跡遺跡地記念石碑が立てられている。石碑正面に“瑞甸書塾” という4文字が漢字で刻まれており、なだらかに置かれた他の石に碑文が刻まれていた。

1906年10月、愛国之士、李相卨は、ここに延辺最初の近代学校であり民族の揺籃であ る瑞甸書塾を開塾した。

1995年4月15日
龍井3.13記念事業会

4月4日、日曜日ながら清明の日だからなのか、校庭は特に静かだった。子供達何人か が運動場の向こうで何の悪戯に興じているのか、座ってぺちゃくちゃ喋っているだけだった。東屋のコ ンクリート底に座った前任龍井市文連主席の金在権先生は、うら寂しい校庭を眺めながら深い思 索に耽っていたが、自分が発行した龍井市観光地点案内書の第1冊“由緒深い海蘭江組”を広げ、当時 の瑞甸書塾を撮った写真を示した。

小綺麗な草家の前庭に白い服を着た人が慌しくかけ出ているが、ブドウ畑に見える柱 に“瑞甸書塾”と刻んだ看板が見やすくかかっている写真だった。

“瑞甸書塾は中国朝鮮族地域で一番初めに立てられた新学私立学校であり、碑文と看 板に刻まれたとおり、1906年<ハーグ密使事件>の時<帰らざる密使>として名前を馳せた著名な反日民族 志士・李相卨先生と切り離しては語れませんね。 李相卨先生は1870年12月7日、 朝鮮・忠清北道で生ま れ、朝鮮王朝の副承旨で吏曹参議を務めたことのある李リョンウの養子に入り、李ヒヨン、李シヨン、李 ジョヒョンなどと李ゼチョンの門下で学問を学び、後には柳麟錫にも学問を学びました。”

金在権先生は引き続き李相卨志士について語った。


▲1906年、龍井に設立された瑞甸書塾(資料写真)

反日志士・李相卨

李相卨は25歳で科挙に合格して役人になったが、1905年“乙巳保護条約”が強制的に 締結された時、李朝議政府の参賛だった。彼は高宗の顧問であるハルバート博士と付き合いながら言 語、フランス語を学び、欧米資本主義の政治、経済、文化などの知識も習熟し、カトリック、仏教、儒教 などの宗教哲学や天文学、地理、高等数学、法学なども習得して当時の学界の権威者になった。“20 才の時に既に非凡な才能を見せていて、<文行南下蔚官>という賞賛まで聞くようになった。その後彼は、 承政院秘書監、秘書郎、成均館教授、成均館館長、度支部財務官などの官職を歴任した。彼は高宗に日 本の侵略を排斥することを建議する上訴文を奉じた。それで当時<光武嘉之>という言葉まで世の中に伝 わるほどの反日義士だった。”(参照“朝鮮族地区で一番先に立てられた反日学校<瑞甸書塾>”)

1904年6月、李相卨は同志らと共に“大韓協同会”を組職、会長職務を引き受け た。“大韓協同会”の会長団はしっかりした独立義士たちで固められ、副会長は“ハーグ密使事件”の 時、オランダのハーグで日本の奸計により第2次万国平和会の参加を断られた後、これに激怒して自決(火 炎瓶で死亡したという一説もある)した李準だった。総部に鄭雲復、評議長に李サンジェ、庶務部長に 李東輝、編集部長に李スンマン、地方長に梁ギタク、財務部長に許ウィだった。

“日本が朝鮮を強迫して<乙巳保護条約>を締結した1905年11月に、李相卨先生は議政 府参賛に抜擢されたが、直ちに<乙巳条約>に反対する上訴文を奉じ、獄に閉じ込められたりしたので す。日本は伊藤博文を派遣して朝鮮で統監府政治を実施しました。日帝の植民地に占略された朝鮮が、亡 国の危機を避けることができないと思った李相卨先生は、消え入りそうな国運を取り戻そうと民族独立 義士をソウルに集め、対策を講じました。”

金在権先生は東屋の天井に描かれている李相卨先生のポートレートを眺めなが ら、話を続けた。

その時の集まりから、民族独立義士たちは海外に民族独立運動基地を作ることを決 定、具体的な地方を北間島龍井村とした。龍井は朝鮮族たちが集結している ところであるため、反日教育を進めやすいだけでなく、北はロシアと近く外交活動を展開しやすく、朝鮮とは 豆満江一つを隔てているだけなので、朝鮮と往来するのに便利だったからだ。李相卨な どを先鋒として海外に出る事にした。1906年4月18日(旧暦)、李相卨は日本の警察の 監視を避けるため、秘密裏に家財道具を処理して李東寧と共に仁川港から中国商船に乗り、 上海を経て青島に到着、その途中でロシアのウラジオストクに行った。

ウラジオストクで李相卨と李東寧は鄭淳万(すなわち王昌東)、黄達永 (すなわち田共達)、金禹(すなわち金東燦)、呂祖鉉(すなわち李準)、 朴禎瑞(すなわち朴茂林)、洪昌燮などに会って延辺に出て教育振興事業を推進する事 について協議した。

彼らはその年10月に、ウラジオストクを去り、龍井村に居所を構えた後、李相卨の 資金で龍井基督教会長・崔秉翼が新たに作った8間家を購入し、“瑞甸書塾”を創立した。

反日民族教育の揺籃

学校経費の大部分は李相卨先生が個人財産をはたいて解決したと言う。初代塾長は李 相卨が引き受け、教員では李相卨、呂祖鉉、金禹縺A黄達永が 引き受け、鄭淳万、李東寧などが具体的な運営を引き受けたが、最初の学生22人を受け入れ、反日を趣旨とした新 式教育を実施した。

書塾では学生を甲乙の二班に分けたが、甲班は高等班で、乙班は初級班だった。学生 たちに教えた科目は、歴史、地理、数学、政治学、国際工法、法律などだった。李 相卨は直接“算術新書”上・下巻を編集して甲班の学生たちに教授し、黄達永 は歴史と地理、金禹繧ヘ初級班の商術、李準は漢文、政治学、法学を教 えた。瑞甸書塾の教員たちはすべて熱烈な反日民族活動家だったから、すべての授業 で反日愛国思想を貫徹することを第一とする準則により、学生たちに反日意識と民族 意識を注入させた。

瑞甸書塾の教育が日本に対する比類なき憎悪に充満されたものであったことを、1907 年9月16日統監府間島派出所所長の斉藤季治カが日本外務大臣に送った報告書だけを 見てもよく分かる。報告書はこのように書いている。

“韓国皇帝が譲位したという知らせがこちら(延辺)に伝えられると、教職員たちと 上級生たちは皆悲しく泣いた。中でも王昌東(鄭淳万教諭)がよりひどかったが、彼は 服を裂いて帽子を地に投げつけて憤慨した。”

“間島瑞甸書塾実録”にもこのように記録されている。

“ハーグ万国会議に朝鮮の代表を参加させないことにしたという悲報が私たちの 学校(瑞甸書塾)に伝えられると、全校の教職員、学生たちは大声で泣き崩れた。”

玄圭煥先生は自分の著書“韓国流移民史”で瑞甸書塾の教育精神を叙述 しながら、間島韓人保護策を内定して、1907年春に陸軍中佐の斉藤季治郎と事務官・ 篠田治策などを密行するようにし、間島派出所の予定地及びその他の情況を調査させた。 このような目的で日帝は龍井村に到着して瑞甸書塾の主導者を訪問した 時、ちょうど李相卨は散歩をしに門を出ようと思っている途中だった。彼らがやって来た 目的を問うと、商業視察の途中に立ち寄ったと答えた。時間は昼休みだったの で、持って来た弁当を食べるためにお湯と器を貸してほしいと要求した。しかし同 校の委員たちは貸せないと言って冷たく拒絶、李相卨の部下達は一言もなく他へ行っ てしまったので、連中は仕方なく川の水に首を突っ込んで飲み、食事を済ませた。当 時、彼らの日本に対する態度がこんなに傲慢になれたのかはわからない。“

“間島問題の回顧”を書いた斉藤の遂行事務官・篠田治策もこのように書いている。

“庁舎を構える正当な場所を捜すために、ある学校に立ち寄ったが、校長と思われる朝鮮人紳士 が不遜な態度で我々一行が入って行くことを拒否した。後に分かってみれ ば不遜な態度を取った紳士こそ、我が国を騒がせ、また李太王の退 位に反対した李相卨であった。”

1907年4月、高宗の密書を持って李相卨の弟・李サンイクと李準が李相卨を 尋ねて来た。密書の内容は5月に開かれるオランダの首都ハーグで開催される 第2次万国平和会議に李準、李卨鍾(ロシア駐在公使・李範晋の息子)と一緒に 首席特使として参加しろとの事だったが、高宗の親筆密書だった。 李相卨は李準、李東寧、鄭淳万らと共にロシアに行ってロシア 駐在韓国公使・李範晋と相談したあげく、ロシアのニコライ皇帝と連繋して ロシア代表の斡旋で万国会に参加しようとした。ハーグに到着した人々は日本 の奸計により会議参加を断られた。これに激怒した李準は自決にて抗議した。

“李相卨はその帰り道にフランス、ドイツ、イギリス、アメリカなど各国を歴訪する。またウ ラジオストクに帰って亡命政府を設立しようとしました。1910年、勧業会を 設立し、事業振興に努力しながらハバロフスクに行き、軍政府と士官学校を建て、武力 抗争を試みたが皆失敗しました。やがて患っていた痛風で体が衰え、病んだ体をコデスクに 移して苦しんでいる途中、1917年旧暦2月9日、目を開いたまま死亡しました。”

金在権先生の悲痛に満ちた声

李相卨は瑞甸書塾を去りながら塾長を呂準に任せた。呂準は金禹縺A黄達永、 朴禎瑞らと一緒に引き続き書塾を運営して行った。

その年8月、統監府間島派出所が龍井に立てられた。派出所では瑞甸書塾を目 に刺さった棘のように考えていちいち干渉、妨害した。その一方、懐柔政策で補助金 を支払うから合作して運営しようなどと持ちかけたりした。瑞甸書塾では当然断った。し かし年々苦しくなる経済難と日本の絶え間ない干渉で、1907年9月頃、廃校せざるを得なくなった。 瑞甸書塾の教員たちと学生たちはロシアに行く目的で龍井を去り、 琿春県の塔道溝に至った。彼らはそこで1年間の授業を済ませ、 悲壮な卒業式をあげた後、3クラス74人を卒業させた。
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