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10.明東と明東学校

中国朝鮮族近代文化のメッカ、反日民族教育の揺籃


▲私立明東学校の元の姿(資料写真)

明東の5大家族

立岩は壮麗な岩山だ。智新鎮新東付近に聳える立岩は、いつ見てもそうだ。大地主の 董閑がこの地を所有していた時まで、立岩を鳩岩と呼んだと言う。切り立った絶壁に 鳩が巣を作って住み着いたと言うことから付けられた名前だった。1899年2月18日、 金躍淵ら会寧や鐘城で儒者として噂の高かった4大家族142人が、一日の間にここへ 引っ越して来た。その時から鳩岩を立岩と改称したが、多分、民族の強い節操と固い 信念の表現だったのだろう。

立岩に上れば、満州族の土地から発する六道河、辺境の村々がひと目で見渡せる。 長財村、明東村、水南村...

“明東地方の民族共同体と反日基地の形成において指導的で核心的な役目をしたの は、金躍淵を主とした5大家族であるが、彼らは新しい民族共同体を作り反日 人材を養成する目的で朝鮮から計画的にここへ移住して来ました。”

一団となって集まっている村を眺めようと思い、村を去る時に聞かせてくれた延辺大学歴史教授 朴昌c先生の言葉が浮び上がる。朴教授は5大家族について一つ一つ紹介してくれた。

南宗九は鐘城5賢の一人である南溟学の孫であるが、移住の時には還暦を過ぎた 老人だった。彼は7人の家族を従え、弟子の金躍淵に付いて明東地区に引っ越し て来たのだ。

金躍淵は一族31人を従えて明東に移住、初めは経済状態があまりにも貧しく、土地も なかったが、弟のユヨンと共に七道溝の山里へ行き、荒地を開墾してそこで得た収穫 で家と林野を買い、1901年、圭巌斎を立てた。

金河奎は一家族63人と共に明東に移住、明東村の建設に大きな貢献をした。

文秉奎は一家族40人を従えて明東に移住して来た。労働力が多くて富もあり、 4大家族の中で最も裕福であり、明東村と中央村に至る広い土地を 持ち、大寺洞にも畑と家財があった。

尹夏鉉は1900年に明東に引っ越して来たから4大家族の集団移住には属さない。父親・尹在玉 の引率で1886年、鐘城から光開郷 子洞に移住して来て、荒地を開墾し、お金を蓄えた。 後に一家族18人を従えて明東に引っ越し、定着、土地と家財はかなりのものになった。

“明東に集団移住した5大家族は、北部朝鮮で貧しくて生活の道を求めて来たその他の流難民 とは違い、代々、関北地方(北朝鮮北東部)で辺境防術に携わった武班出身の子孫で した。彼らは皆、鐘城5賢の後裔や門下人であり、学識があって多少なりとも富もある儒 者たちだったのです。彼らが集団移住した目的は、不毛で油分のない、地価の高い朝鮮 の土地を売り、肥沃ながらも価格の安い延辺の土地をたくさん買って開墾し、良い暮し をしようというものであり、魅力のなくなった朝鮮よりも、中国の延辺に行って 朝鮮民族の‘明るい社会’を建設し、新しい暮しをしようというものでした。 そして新しい環境で救国救民のための後代の養成をしようというものでした。”

彼らの移住目的について朴昌c教授はこのように言った。

明東学校

立岩から下りて、六道河を遡り、舗道に沿って少し歩くと、長財村だ。 長財村の裏山の麓に、遠くながら由緒ありげに見える三つの墓がある。 金躍淵と夫人の安淵、長男・金驪ホの墓だ。

1901年、金躍淵は自分の弟と共に長財村にある80平米になる漢族の家を買い、 圭巌斎という書斎を立てた後、20人余りの学生を受け入れ、後を引き継いで大寺洞 では金河奎が小巌斎、中栄村では南葦彦が咸韓巌斎などを立てた。 彼らは皆、師匠と弟子が力を合わせて自力で学田を開墾し、学田からの 収穫で書斎を立てて行った。

1908年明東では近代志向の新型の学校を立てようと、圭巌斎、小巌斎、中栄村・ 咸韓巌斎を合わせて明東書塾を設立したが、龍井の瑞甸書塾の近代志向であ る反日民族教育方針を受け継いだ。三つの書塾が合わせて立てられたため、近所の10ヶ所余り の村が連合して、さらに大きな明東共同体を成すきっかけをつくり、今後の 徹底した民族理念、民族精神、民族意志により近代化した反日民族教育をすること を引き継ぐ土台を作った。この時から周りの村を網羅して明東と総称した が、“‘明るい朝鮮民族’の新しい民族共同体という意味”(朴昌c)で ある。

1909年、北間島教育団団長の鄭載冕が明東に来た。彼の影響の下、金躍淵などは 近代化した新型の学校を立てるため明東書塾を“明東学校”と改称し、金躍淵を 校長、鄭載冕を校監、文治政を財務員、崔ボンキを書記とする学校の指導部 を形成し、儒教思想を捨て、キリスト教を信仰しながら近代的な民主、民権、自由 、平等思想を受け入れるようになった。

1910年3月には延辺での初めて民族中学校を併設し、黄義敦、張志暎、朴泰煥、 金チョル、金ソンファン、金スングン、朴キョンチョル、金スンムン、金チグァンなど、 学識の豊かな反日志士たちを教員に招き、教育の質を高めた。

1911年にはまた、李ヒスン、チョン・シンテ、朝鮮での初の女性教師であるウ・ボンウ ンなどを招いて延辺で初めて女子民族学校を設立した。そして村には夜学部を設け、 大人たちの文盲を退治して行った。

長財村を通ってずっと歩けば、道の傍らに“尹東柱生家”と刻んだ自然石の碑石 が見えて来る。新たに復元された明東教会堂だ。教会鍾閣や十字架は見え ないが、その昔の宗教的雰囲気がよく伝わって来る教会堂だ。庭先の一方の瓦碑閣 の中に、金躍淵功徳碑が建てられており、功徳碑は長い歳月の間に深 い傷がついていた。上がひどく損傷しているのだ。教会堂のそばに村の 精米所があり、精米所の左に付いた道に入れば、すぐ尹東柱生家に到着する。 8間の瓦屋根の家である尹東柱生家の庭先は、いつ見てもきれいだ。何年か前に訪ねて 来た時も、水を汲んで飲んだのだが、井戸は去年の梅雨で消えてしまって おり、見る影もなくなっていた。

明東学校の場所は村の中心地に位置しているが、今はすべて崩れ、畑に使われていた。龍井市 文化遺物調査資料によると、明東学校は元々4軒の平屋であった。 学校本部が買い取った家は、長さ33m、幅6.5mだったが、西南向きに鎮座した平屋レンガの家 だった。この建物は、西北の方50mのところに、東南向に長さ24m、幅6mの平屋があり、それが男子中学部だった。 本部の東150mの所に、西南向に長さ26m、幅6mの平屋があり、それが女子中学部だった。 学校の運動場は本部の北東の方にあった。

白頭山がにょっきりと聳え、恩沢の偉大なる
檀君の剣が突き刺さるこの地に
その種子の大いなる意味
広げて育てる私の明東...

寂しい畑を向いて立っているどころか、“明東学校校歌”を歌いながら、歩みも勇ましく 軍事訓練をした熱血青年たちの勢い高い声が耳に聞こえるようだ。

明東学校では朝鮮語文と朝鮮歴史の教授を学生たちが民族意識を向上する上で最も 重要な科目に指定していた。朝鮮語文において民族文と言葉が分かるようにするこ とは、民族文化の向上と普及の基礎であり、文化の向上と普及は民族の生存と実力の養成 への早道だと考えられた。

歴史教育では、1915年朝鮮で編纂し、禁書になった“幼年必読”、“吾讐不忘”、 “大韓サラム”と延辺で桂奉が編纂した“最新東国史”、“越南亡国史” などを教材にして、学生たちに愛国愛民の価値観、侵略者に対する反抗 精神を吹き込んだ。歴史学教授の黄義敦、李キチャンは、歴史科の作文で 学生たちの作文がいくら良くても、“反日”と“民族独立”の内容がなければ点 数を与えなかったが、これは校長・金躍淵を頂点にした学校の伝統になった。

賛歌も明東では朝鮮語文科と同じく重視されたが、賛歌は民族の尊厳性と敵に対する 抵抗精神を向上させる上で効果が大きかった。

体操は兵式体操を指すが、これからの反日武装闘争のための準備になったし、学生たち を一定の軍事基礎知識を持つ反日武装闘争の決死隊、前衛隊として育成するためのものだった。

民族意識を高めることは、日本帝国主義に対する憎悪で深く表現された。校長は“日 本”を“曰本”または“ウェノム(日本の奴ら)”と呼び、学生たちも真似た。後に中国の飛行 士になった徐日甫は、自分の名前にある日の字を曰の字に直し、徐曰甫とした。 学校の節日に使う万国旗には、太極旗はあるが日の丸はなかったし、地理の参考地図でも 朝鮮を独立国家として日本本土と色を分けて塗った。ミョン・ヒソン教員は、 たまに服を逆さまに着ていたが、それは日本が朝鮮を侵略したから“世の 中が逆になってしまったのだ”と学生たちに認識させるためだった。

1910年から1925年に明東中学校が閉鎖されるまで15年間、明東学校では1200人余り の卒業生を輩出したが、彼らの中から著名な反日活動家と教育者、幾多の反日武装闘争の 戦士たちが現われた。国民会と間島青年会のリーダーたちである馬晋、南世極、崔基鶴、 馬リョンハ、朴贊翊、尹ヨンシク、金ソックァン、金ジョンキュ、3.13反日デモ運動で犠牲 になった尹俊熙、林国驕A韓相浩、鳳梧洞戦 闘と青山里戦闘で犠牲になった多くの決死隊員、庚申年大討伐にて虐殺された金スンム ンを主とする義士たち、そして民族主義者から共産主義者に転向した宋サンウ、延和 革命委員会軍事部長の馬チョンリョン、8.1吉敦暴動のリーダー馬天穆などはすべ てこの学校の卒業生だ。 20年代の後にも多くの人材が現われたが、朝鮮映画の 創始者・羅雲奎、飛行士・徐曰甫、詩人・尹東柱、宋夢奎、作家・金昌傑 などがそんな人物たちだ。

明東学校が反日民族教育人材養成の揺籃として名声を高めると、北満州とロシア の沿海州とシベリア、朝鮮国内からまで、多くの若者達が留学に来た。

“行動こそが私の遺書”

“金躍淵牧師はいつも静かな方でした。.雷が鳴ってもピクリともしない、そんな方でした。 いつも韓服の身なりをきちんと、そしてゆったりと決めておられました。 口弁・雄弁は達者で、見識が広くて人情の深い方だったそう です。私が幼い時、親に付いて教会に行ったんです。牧師様が私をおんぶしてくれました。 牧師様は人を罵ることはなかったそうです。その方が校長でいらっしゃる時、講 義の際に誰かが講義に集中しなければ、ムチを持って自分のふくらはぎを打ったと 言います。学生を咎めるのではなく、自分の講義がよくないからということで、自分を責めたのです。 ”明東学校校長として勤め、退職した金ジェヒョンさんの言葉だ。

儒家思想を崇拝した金躍淵は、信仰さえ曲げて近代的な民主、民権、自由、平等思 想を受け入れるようになる。彼らの影響にして儒教だけに固執した民衆たちは、新文化を受 け付けながらキリスト教を信奉するようになったが、1913年の統計によると教会 と学校が併設されたところが36ヶ所、その影響で立てられた私学が62ヶ所にもなった。金躍淵 が書いた“東満僚会30年歴史”という文には“三国伝道会の本部が明東にあったので、 各教会と学校の幹部の殆ど全員が明東学校の出身で占められた”と書いている。 こういったことを考えると、延辺でのキリスト教文化の伝播、 キリスト教を通じた私学と新文化の発展は、明東から始まったと言える。

金躍淵は西洋文化であるキリスト教を受け入れながらも民族の理念、思想と意志 だけは忘れず、民族精神をいつも主体に据えていた。

“明東が中国朝鮮族文化の中心地になったのは、金躍淵のような立派なリー ダーがいたからです。”朴昌c教授は金躍淵に対する賛辞を惜しまなかった。

気骨が壮大で力が無尽蔵だった金躍淵はどんな仕事でも先頭に立ったと言う。木を植える 時でも土工を担当したし、瓦や煙瓦を焼く時にも大変な仕事を率先してやりながら、 技術を弟子や里人たちに余すところ無く伝えた。後学たちの教育事業のた めに自分の土地で一番良い土地を学田に捧げ、共同所有にした。 1930年代は8万坪に増加した。彼は自分の財産を殆ど全部、共同体に捧げた。

反日義士・安重根、具春先などと親交を結びながら救国の行く末を討議したり、独立の夢 も抱いたりした・日本が明東を目に刺さったトゲのように思いながらも明東を“不逞鮮人の小 国”と見なし、監視と取締の手を延ばさなかった1919年3月21日、金躍淵が間島代表でロ シアのニコリースクに派遣され、帰って来て見たら日本警察たちは彼を逮捕しよう と血眼になっていた。しかし清に入籍した金躍淵は、清政府によって2年間軟禁され、 日本の捜索を避けることができた。

1922年、軟禁から脱した彼は、いつのまにか55歳になった。反日民族運動は日本による必死の 討伐で低調期に入って行ったし、社会主義の潮流がおこっていた。 1924 年には自然災害により経済が非常に苦しくなった。また龍井が新しい文 化都市になったので、彼は里人たちと協議して中学校を恩真中学校に合併させることにし、 小学校だけ明東に残しておいた。金躍淵は2年間、鄭載冕、具春先、馬晋らと連携して 間島国民会を再度立てようとしたが、失敗してしまった。

1929年、61歳の金躍淵は平壌神学校へ行って1年間就学して牧師になった後、明東洞に帰っ て来て明東責任牧師になり、キリスト教活動に専念した。そうするうちに諸般の事情が難し くなると、1937年、龍井に引っ越し、恩真中学校と明新女子学校の理事、 理事長になったが、1942年、光復の日を迎えることができずに“私の行動こそが私の遺言” という遺言を残して死んだ。

金躍淵の弟子・林ジェチュンは師匠をこのように称えた。

“圭巌先生の生涯は孟子が遂行したことに近いが、淡々としているが嫌味がなく、 簡単で気高くて穏やかながらも理知的だった。先生の生涯から、遠いことは近いこと から始まることを知ることが出来、その行動で潔白さを知ることが出来、 些少なことからも賢明さを知ることが出来る。”
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