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8.懇民会

“懇民教育会”と“懇民会”

雨後の竹の子のように決起する反日団体
朝鮮族社会の建設のために奔走


▲著名な反日志士・金躍淵先生と彼の記念碑

1910年代の反日団体

“間島協約”が締結されると延辺の朝鮮族は仕事を離れ、龍井に間島総領事館を設置、朝鮮族に対し て“治外法権”を実施することに反対し始めた。“間島協約”が結ばれると、日本は主要地域で“領事裁判権”を実施し、雑居区 の朝鮮族に対しては“知照権”、“聴審権”、“復審申請権”を実施しようと策動した。これに各地の進歩的な人々 は反日団体を結成し、抵抗し始めた。

1910年、琿春県城で李ジョンホらを主要幹部にした海島会が設立された。沿海州と間島から一字ずつ取って名付け たこの団体では、ロシアと沿海州、琿春、間島の反日志士たちの連携を強化するために、各地との通信連絡に力を尽く しながら、日本の動態を偵察した。

1911年、汪清県徳元里で大棕教首領・徐一が重光団を組織し、檀君崇拝を反日民族の路線上にて鼓吹し、反日人材の養成に力を 尽くしながら武装闘争を準備した。徐一は、後に自分が建立した大韓軍政署を北路軍政署に改編、総裁を引き受けて抗 日武装闘争のための武力強化事業を推進した。北路軍政署の傘下には総裁部と軍司令部があったが、金佐鎮将軍が軍司 令部の司令官として活躍した。

1912年、汪清県百草溝から趙尚甲を団長とする急当が設立され、中国辛亥革命に便乗して民衆を暴動へと決起させ、 民族独立を実現しようとした。

1912年、琿春県城では金ハクチョンを会長とする琿春商務会が設立、琿春市民と商人を反日民族運動に決起させた。 1912年、和龍県で金テイルを団長とする民権党が設立された。趣旨は急当と等しかった。

1912年、汪清県羅子溝で金チョンボを会長とする農商会が設立された。農商会は農業と商業を推進する団体を標榜したが 、実際には“反日興韓”を主張して民族独立のために産業を振興させようとした。

1913年、琿春県城で黄丙吉を会長とする基督教教友会が設立された。基督教教友会ではキリスト教信者たち を反日民族運動に決起させる上で力をつくした。

1913年、琿春県では朴サンギュを総理とする屯田営が設立された。この組職では中韓反日勢力を連合して、 反日共同戦線を結成することを主張した。

1914年、延吉県依蘭で黄ソンヒョンを会長とする親睦会が設立された。この団体では、日本の統監政治に決死的に 反対しながら朝鮮の国権を回復するために相互協力することを主張した。

その外にも延吉県東盛涌で設立された士友契、龍井で設立された青年親睦会、局子街で設立された大東協新会 など幾多の反日団体があったが、これらの反日団体では日本の中国侵略と朝鮮族を保護するという美名の下に 朝鮮族に対して植民統治を維持することに反対し始めた。

そのうちでも1913年5月に中華民国政府の認定を受けて設立された“懇民会”が影響力の大きな反日団体だ。懇 民会は後に反日保守団体である“農民会”と激しく対立する。


▲移住初期の朝鮮族墾民達の遊び、ノルティギ(資料写真)

朝鮮族社会の建立のために

1910年3月、朝鮮族宗教界の関係者40人余りが、朝鮮族子弟の教育のために局子街に“懇民教育会”を設立しようと、 延吉府尹の陶彬に認可申請をした。陶彬は朝鮮族教育で“中国語を主要科目”として教え、教授法とその他の教科書 なども“清の指導に依拠”することを前提条件として“懇民教育会”を認めて承諾した。

幼くして漢学を学び、帰化入籍した後には中国警察学堂まで卒業した中国語に堪能な反日親中国派で朝鮮族教育家で ある李東春(1873年生)が“懇民教育会”会長に任命された。政府では彼に労賃まで支払い、配下に書記幾人かを 置いて働かせた。延辺大学歴史学教授・朴昌c先生は、“懇民教育会”についてこのようにいう。

“<懇民教育会>では<朝鮮が亡びたから朝鮮に国籍を置く必要がない。朝鮮に国籍を置くということは日本の 植民統治を受けるのと同じだ。国籍を中国に移そう>と言う反日親中国思想を宣伝しながら<新学>を 提唱し、<旧学>を改良する上で力を尽くしました。清の朝廷は朝鮮族のこのような活動を歓迎しました。”

“延吉府尹の陶彬は<懇民教育会>内部に<懇民教育研究会>を秘密裏に設置させ、その会員に朝鮮族 を統治する際に出て来た問題を調査し、その問題を解決するための意見を提出する任務を与えた。 ”(チョン・シンジャ“<懇民教育会>と<懇民会>”)

1911年、中国で辛亥革命が起きた。孫文を代表とする“同盟会”は、満清封建統治を覆し、中華民国を建国した。 中華民国臨時政府では“連省自治制”を主張した。これは“懇民教育会”の大いなる活力素だった。 “懇民教育会”では李東春ら4人の代表を北京に派遣し、黎元洪副大統領に会い、延辺地区の朝鮮族社会の状況 を報告した後、“懇民自治会”の設立を承諾してくれるよう望んだ。黎元洪は賛成を表しながらも“自治”と 言う二文字を取り消すことを指示した。

1913年5月、“懇民教育会”は地方政府の許可を受けて局子街で総会を召集した。会議で“懇民会章程”を正式に 認証した後、幹部を選挙で任命して東南路観察使署の認可を受けた。著名な反日活動家である金躍淵が会長に当選した。

“懇民会”はその趣旨を次のように明らかにした。

“墾民たちが豆満江を渡って中国の土地に移住してから40余年になり、墾民の人口も数十万人に達するが、 識見が暗く、従来から散らばって居住するため、統一された規範もない。ここに懇民会を組織して民衆間の感情 を疏通し、中国の法律を研究して民衆を中華民国の法律に従わせ、共和政府の保護に基づいて自らの義務 を果たし、言語、風俗の統一を期して努力する。”

“<懇民会>では亡国奴隷を望まない朝鮮族を動員し、日帝の植民統治基盤から脱し、中国国籍に加入して中国 政府に基づいて中国法の保護下に自治を実施しながら、ひいては延辺を反日民族運動の基地として建設しようとした。 ”(チョン・シンジャ“<懇民教育会>と<懇民会>”)ちょうど民国政府でも1912年、ニ国籍法を制定、頒布、朝鮮族 に帰化入籍して日本の統治基盤から脱することを要求した。中華民国政府では延辺人口の絶対多数を占める朝鮮 族が、日本の統治基盤から脱して中国の統治を受けるだけで延辺に対する日本の侵略を阻止して領土主権を守るこ とができると認めたのだ。“懇民会”ではすかさず“入籍運動”を展開した。

“懇民会”ではまた、旧学に反対して新学を提唱し、民主と科学を提唱して封建家父長制と封建迷信活動に反対す る“私塾改良運動”を展開し、朝鮮族の開化を推進した。各地に夜間学校と信者班を作り、文盲退治事業も展開、 農民たちが生業を開発して収入を増加出来るようにするため、“殖産興業”運動も展開し、早婚に反対して 男女平等を主張したりした。 “懇民会”ではロシアの“勧業会”とも密接な連携を持ち、アメリカとロシア に建立された“国民会”とも連携を持ちながら秘密裏に反日民族活動を展開した。“懇民会”では“懇民教育会”を 受け継いで延辺での反日文化啓蒙運動を展開した。“懇民会”の活動を上海で発刊する“独立新聞”(1920年1月)では このように報道した。“<懇民会>の組職と活動は、間島朝鮮人社会の三つの起源を開いた。”

“懇民会”と“農務契”の対立

“懇民会”の活動は、延辺に暮す儒林らの力強い反発を招いた。“それは<懇民会>が主張する民主共和政治と 新文化教育運動は、孔孟の教えを<中華>思想で続けようとする儒学者たちの主張とは対立するものであり、 また彼らの社会基盤だった寺小屋教育を窮地へ追いこんだからだ。”(金チュンソン“<懇民会>と<農務契>の対立”)ここ に儒学者たちは社会団体としての“農務契”を組織し、“懇民会”と法的な闘いを展開して孔教会を建立し、信仰活動 で大衆的基盤を拡大しようとした。1913年6月29日、“懇民会”が設立されてから何ヶ月も経たないうちに延辺の儒 学者たちは延吉県に集まり、“農務契”を出帆させた。崔ナムギが総会長に当選した。その年11月に200人余りの儒学者 が集まり、“孔教会延吉支会”を正式に創立し、孔子廟まで立てた。

“‘農務契’と‘孔教会’では朝鮮族の入籍に反対し、入籍するということは民族と先祖を裏切ることと考え ました。また新学に反対したが、新学には人類教育の最高の道徳がないとのことでした。1912年、中華民国の初代大統 領になった袁世凱は、孔孟之道を国教にするという公布をしました。ですから<孔教会>を信じても中国政府ではどうす ることも出来なかったでしょう。儒学者たちは<懇民会>で会費を強制徴収した問題、農民たちにさまざまな負担をかけた 問題、一部の郷約や烈臣たちの不法行為に対する民衆たちの不満を利用して、<懇民会>に極力反対しました。 <懇民会> に対する儒学者たちの組織的な反発は<懇民会>の活動に相当な困難をもたらすことになりました。”

朴昌c先生は、その時の状況をこのように言いながら、矛盾の本質は新旧文化思想間の闘いであり、焦点は 入籍可否問題だったと指摘した。一方“懇民会”でも黙っていなかった。中華民国2年12月2日、金躍淵は東南路観 察使署に“報告”を出し、“孔教会”の不当性を指摘した。

“彼らは孔教の勢力を背景に、第一は維新教育を妨げ、第二は<懇民会>に反対します。凡そどんな宗教でも その性格を見れば道徳を養成するものであるのに、奸民旧学究たちの組織した孔教会は、絶対に善良な心を抱いて はおりません。彼らの行実を計算して見れば、形式は孔教会の名前を帯びているが、内容は<農務契>と同じ穴のむ じなです。それゆえ、この事件は未来の地方行政に実際に危険になる問題です。”

朝鮮族の二つの団体はいずれも反日親中国の見解ながらも、このように法廷でも民間でもずっと対立した。一方、 観察使署では“懇民会”と“農務会”の間の対立の尖鋭化が日本に中国内政への干渉の口実を与える可能性がある と見て、表では“懇民会”の活動を積極的に協力して支持するふりをしながらも、実際には監督、干渉し、取り締まった。

1914年3月、袁世凱は地方連成自治機関を撤廃することに関する命令を通達、これを根拠として吉林東南観察使署 でも報告11号を頒布し、“懇民会と農務契がいずれも自治の性格を帯びた組職であるため、直ちに解散”すること を宣布した。延辺朝鮮族の反日運動に積極的な役割を果たした“懇民会”は、こうして歴史の舞台から政治的な幕を下すことになった。

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