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5.血と涙のチパンサリ

地主、地方官庁、日本帝国主義の収奪に疲弊する朝鮮族農民


▲冬の薪を運び込む移住初期の朝鮮族女性達(資料写真)

創山戸の悲哀

太古然とした原始林と雑木が生い茂った荒地に、白い影が迫って来る。厳冬の吹雪が我が 大地にぶつかる音は悲しい。朝鮮族墾民たちによって荒地は徐々に畑になり、遂に沃野に 変わり、じゃがいも栽培が結構よくできた。

農業を順調に行っている時、だしぬけに“ダブサリ”(満族の衣装を着た占山戸)らが現われて他人 の土地でなぜ農業をしているのかと怒鳴る。出来上がった穀食をやたらと踏み付け、今すぐ出てゆけ と叫ぶ。持ち主のない荒地と思って開墾したら、占山戸たちが四至証書の中に入れた土地だったのだ。 ある占山戸たちは朝鮮族墾民たちが自分の土地を開拓することを知りながらも知らぬふりをし、荒地が沃 土に変わった後、豹変したように現われて持ち主であると主張したりした。

彼らはずっと耕作したければ小作料を出せと強要した。そして朝鮮族墾民たちは自分が切り開いた土地 を離れたくなければ、小作農に転落しなければならなかった。朝鮮族墾民たちの開墾についてリュウ・ビョンホ 先生は“占山戸と創山戸”という論文でこのように記している。

“朝鮮族墾民たちの開墾方法を見れば、初年度の秋あるいは翌年の早春に雑草と潅木を切り出し た後、くわ・すきで耕し、苗を植えるが、初年度にはほとんど収穫が得られない。翌年から豆、とうも ろこし、麦を植えた。こうしてに2〜3年が経つと、荒地が徐々に沃土になるのだが、この間、冬には 斧で木の根を切り出さなければならない。それで朝鮮族墾民たちを当時の役場では墾民と呼び、漢族 と満族は地戸あるいは創山戸、すなわち山を創った人々と呼んだ。占山戸の小作農に転落した創山戸 たちの生活は、中世期の荘園主の農奴のようだった。”

谷に紅葉が広がり、畑の実りが熟して黄金色に熟した秋、脱穀場に高く積んだ収穫物を眺めながら、 春、夏と手が壊れるほどに働いた満足感にほほ笑んでいると、だしぬけなとばっちりが飛んで入る。武 装した子分たちを従えたダブサリが脱穀場に駆け込んで、朝鮮族墾民たちが作った穀食を牛馬車に積 んで行く。自分たちの要求が満たされなければ、その家の物を奪ったりする。それでも足らなければ子まで奪う。

創山戸たちはしばしば、4筆の土地を小作すれば占山戸の1筆の畑を無償で耕作してやらなければならな かった。また毎年10〜20日間、占山戸の仕事を無償でしてやらなければならない。それ以外にも占山戸の ために雑事をしてやらなければならなかった。例えば旧正月の前後には、占山戸の馬が1年間食べる飼料 を切り出してやらねばならないし、立秋前後には薪50巻を捧げなければならない。同じ論文で、リュウ・ビョ ンホ先生は創山戸の悲惨さをこのように記している。

“根菜区の占山戸・孫ボサンは、創山戸に毎年1筆のじゃがいもを植えさせたが、いつもよく実り、秋に なるとよくできたじゃがいもだけを選んで自分の料理部屋に持って来させた。占山戸たちは良質の沃 土を奪い、賄賂をたくさん捧げる他の墾民たちに小作させ、沃土を奪われた墾民には、他の荒地を開拓す ることを強要するのが普通だった。”


▲移住初期の延辺朝鮮族農民達の小市場(資料写真)

借金を返せず、妻子を奪われる

昔、延辺で土地のない農民たちが地主の土地の小作を引き受けて過ごすことをチパンサリと呼んだ。 チパンというのは、中国語をよく知らなかった農民たちが、地主が占めている“地方(ティファン)”をチパン と聞き間違えたところから出来た言葉で、一部では“地盆爾(ティパル)”から来たとも言う。 “移住民たち が口癖のように覚えたチパンとは、まさに土地を含めた生産資材がある一人の地主に集中している地方 を言う。例えば宋家地方、王家地方、趙家地方みたいなものだ。”(朴青山、金哲洙“実話 中国朝鮮族歴史”)

開墾初期の朝鮮族農民たちは米も農機具もないから、地主に米、農機具、生活費を借 りて土地を耕すしかなかった。こういったことを榜青と言ったが、初めには米、農機具、役牛 、生活用品を貸して3年間小作料を受けないと言っていたのが、移住民たちが絶えず流入し 商品経済が徐々に発展しはじめると、初年度から小作料を出せと言い出した。初年度に収穫 の20%、翌年に30%、その翌年に40%を捧げ、そこに月利息まで合わせれば収穫の70〜80%を 捧げることになる。4年目からは種子、農機具、役牛などを自己負担しながら、榜青を半作で行うよ うになる。半作とは、収穫の半分を地主に小作料として捧げることを言う。

体中を照り付ける恐ろしい太陽の下で、小骨も固くない子どもが荷車を曳く。額には脂汗が 玉のように噴き出し、滴り落ちる。荷車を押す父親の首にも汗の臭いがする。これは当時の朝鮮族農民の姿だ。

口を漱ぐにも困る朝鮮族農民たちにとって、役牛一頭を揃えるということは空の星を取るも同じだった。 それゆえ牛が耕すはずの畑を、しばしば人が耕さなければならなかった。骨が砕け、肉が落ちるほど に一年間農業を続けても、収穫の半分を地主に取られ、多くの名目で苛斂誅求までされれば、また 無一文と変わらぬ状態になってしまう。

翌年春になる前、米びつが空になって朝鮮族農民たちは地主から高い利率で米を借りなければ ならなかった。穀物返還法というものがあったが、春に穀物1升を貸し、秋に3升を受け取るのだ。 春になると地主たちは市場相場より高い価格で貸す。しかし秋ならば暴落した価格で6倍になる穀 物を受け取る。例えば春に穀物1升の値打ちが1元なら、1升に1.5元で貸し、秋になると穀物価格 が0.5元に暴落しても依然として春の価格で受ける。だから春に1升借りて来た穀物が秋には6升になるのだ。

それ以外に占山戸たちは意のままに小作人たちの膏血を絞った。利子は普通5分で、高い時には10分もあ った。返済期限内に返すことができなければ、妻子を奪われたりした。借金が返せなかった農民たちの息 子や娘達は、地主の家にの召使や女中として入って行かなければならなかった。 “徳新郷長洞村下村の 崔デドは、占山戸の高利貸を返すことができず、睾丸を切られそうになった。”(金ヒ“長洞村を開拓した人々”)

苛斂誅求と“東洋拓殖会社”の搾取

“朝鮮族農民たちは役場からもあらゆる収奪にあいました。東北の他の地域では見られない 怪し気な税金を払わされましたが、敷居税、人頭税のようなものがそれですね。”

延辺大学・朴昌c教授は、朝鮮族農民たちの無念は筆舌に尽くし難いものだったと言う。

朝鮮族の農民たちは教育費、巡警費、防衛団費などの地方税を納めなければならない外に、 四廟、道路、橋梁修復費のような村税を納め、無実にも敷居税、人頭税、雇用税、養牛税、 煙突税、入籍費、招待費、薪炭税、海山税などを納めなければならなかった。敷居税という のは官庁に呼び出された朝鮮族たちが官庁の大門に立ち入る時に納める税金だ。牛で農 業をすると牛税を納めなければならなかったし、地主の土地を小作すると雇用税を納めなけれ ばならなかった。それ以外にも戸税がある。穀物、鶏、卵、薪、酒、煙草、雑貨の費用を皆、戸税として各戸に分担させた。

そして軍隊が里を経由する時、村民たちは無償で食事と雑費を捧げなければならず、官吏と 警察たちが農村に降りて使う費用も村民たちが負担しなければならなかった。

“不憫な朝鮮族農民たちの苦しみはそれだけではなかった。彼らは強欲な日本帝国主義者たちの圧迫 と搾取も受けなければならなかった。 1918年、日本の‘東洋拓殖会社’では、朝鮮族農民たちの土地契 約書を抵当に取り貸し付ける方法で、世代を引き継いで開拓して来た土地を奪いとられたし、その土地で 40〜50%の小作料を徴集した。”大型ドキュメンタリー“延辺アリラン”(徐ボンハク、李光洙)の解説 だ。この大型ドキュメンタリーで、蛤莫塘住民の呉ジュンソプさん(80歳)とのインタビューをこのように伝えている。

“私たちが水田一つ5haを耕したら、表札にha当りいくらを納めなさいという貼紙をくっ付けて行きました。 税金はこんなにも高いのか、と驚くほどでした。税金を払えない場合には、家へ来て乱暴をはたらき、家財道 具を奪われたり壊されたりしました。”

このドキュメンタリーには延辺大学の黄龍国教授とのインタビューもある。

“延辺の土地をせしめるため、日帝は延辺に‘東洋拓殖会社間島支所’を建てました。 彼らは救済するという名目で農民たちにローンを与えました。その中には土地代金、役牛 代金、農機具代金、食糧代金などが含まれました。そして朝鮮族農民たちはその規定によって 畑を買っており、土地契約書を東洋拓殖会社に捧げなければならなかったのです。規定には利子 と元手を返せば土地契約書も返すと言いました。ところでその利子がよほど高かったのか、1945年 の光復の時まで、利子をすべて返した人がいなかったそうです。”

地主と役場そして日帝の圧迫搾取は、朝鮮族農民たちの命綱を硬く握り、決して放そうとはしなかった。

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