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4.稲穂の香り

広い原野に稲穂の香り爽やかに 朝鮮族農民“王室田”まで扱う


▲稲刈りをしている1920年代の朝鮮族農民達(資料写真)

初の水利工事

“延辺の稲作は私たち朝鮮族によって始まりました。歴史的に見れば高句麗や渤海の時期、ここの稲作は既に 始まりました。‘老松の稲が良い’という話は渤海の頃の話です。‘老松’とは、今の開山屯鎮一帯を 言います。渤海が926年に滅亡した後、東北の稲作は消えてしまいました。”

延辺大学歴史学教授・朴昌c先生は、小さな延辺地図を広げて豆満江岸を示す。ぼろぼろの古い地図は 1920年代の初め、日本が作った地図だと言う。 “延辺での初期水田開発”という論文でもこのように説明されている。“‘満州経済研究報’によれば、 1868年、豆満江両岸で初めての水田農業を始め、伝えるところによれば1895年、豆満江沿岸の鐘城で水田農業が始まったという。”

封禁制度が厳しかったその時期、犯越潜入した朝鮮族農民達は、清の官吏たちの目を盗むために豆満江北岸の 谷の自然水を利用して、初めにはおそらく数枚の水田だけを開墾したはずだ。その後1900年、海蘭江沿岸の新天 地である東盛涌で水田耕作が始まった。 1906年、龍井から会寧に行く沿道の大教洞で水田を開発した。その後、 稲作は延辺各地に波及した。

柳が結構青く水が張り、野鳥が空高く飛び、まわり囀っている1906年6月、一群の白衣の人々が、ツルハシを砂利に ぶつけては火花を散らし、川底を浚うために脂汗を流していた。1308mの溝を掘るために出て来た大教洞の朝鮮 住民14人だった。彼らは六道河の水を引き入れて33筆の田を切り開いた。これは延辺での最初の水利工事だった。

朴昌c先生は古い地図の上で虫眼鏡を使い、やっと大教洞を捜し出した後、感無量になって言う。

“その後を引き継いで龍井の水南村、磐石村、和龍県の守信郷、平崗等の朝鮮移住民たちも海蘭江の水を引き込 んで稲作を始めたんです。”

川の多い延辺は稲作するにはおあつらえ向きだった。豆満江北岸と海蘭江岸の平崗平野、瑞甸平野及び布爾哈通河、 河下流の広い平原、琿春河沿岸と密江流域が今では農地に変わった。朝鮮族開墾民たちが気温の低い東北の 不利な気候条件を乗り越えて稲作に成功したことは、延辺農業での一大飛躍だった。この後、畑作だけ行い南方 から米を買って食べていた歴史を終わらせることとなったのだ。


▲水利工事をしている朝鮮族農民達(資料写真)

大地に漂う稲穂の香り

背負子を担ぎ荷物を抱えてここへ初めて来た時、朝鮮族農民たちの目の前に広がるのは広い原野だけだった。 深く眠った山すそと野原に野獣たちが出没しており、破れた服からは肉を凍らせるような寒風が吹き込んだ。 白い服装に白く塗装した家で暮しながら白い米を食べる民族が朝鮮族だ。だから白衣民族と言ったのか。だから 世の中で一番清潔な民族と言ったのか。とにかく稲穂一つ生えていなかったこの地に、田が切り開かれ、食卓の 上には御飯が置かれるようになった。苦難に喘いだ民族にとって、これ以上の喜びがあろうか。

朝鮮族農民たちの稲作について元延辺歴史研究所長・権リブ先生はこのように述べている。

“1918年になって延辺の米が対外的に輸出されるようになったんです。これは大変なことでした。歴史的に米を輸入 して来た延辺から米を輸出する位にまでなりました。この変化が官庁を驚かせたのです。かくして1919年4月に、 延吉県公署は‘延吉県米作暫定規定’を出したのです。”

稲作をするためには水利建設をしなければならないし、水利建設をするためには畑を買い押さえる問題が存在した。 その他に土地税などいろいろ複雑な問題があった。この問題を解決するために、暫定規定は次のように規定した。

“いかなる者も稲作をする農民の正当な利益を侵犯することができない。違反した者は、その損害を賠償しなければならない。”

規定は当時、私たち朝鮮族農民の合法的な利益を保護する上で非常に有利だった。 1921年12月3日、吉林省省長の孫烈臣が延吉県公署に“水田農業を奨励し、農業を振興させよ” と言う訓令を出するまになった。 20世紀20年代に至って、数多くの漢族も稲作を始めた。

“延辺での初期水田開発”の一文で、20世紀初め、延辺朝鮮族農民たちがあらゆる困難を乗り越えながら水田を 開発した面積を年代別で次のように記している。

1906年 12.6町歩
1912年 185.0町歩
1917年 764.0町歩
1918年 1458.0町歩
1919年 3608.7町歩
1922年 6605.8町歩

その後水田農業は遠く吉林、長春にまで波及し、さらには黒龍江省の東京城、穆陵、密山、寧安、海林、 さらには東部モンゴル地区にまで波及した。

“内モンゴルの水田開発”(李ソンモ、孫マンス)の一文で、内モンゴルでの朝鮮族農民たちの水田開発をこのように叙述している。

“1917年、ラムルハンのデコボコ道をかけた一派の朝鮮族農民たちが、白雪で覆われた草原のバヤンタルに来た。 彼ら15戸74人は、金イルソンの引率下に鋭い寒風の中、水利を引いて千年も寝ていた草原を水田に開墾した。 数ヶ月の間、悪戦苦闘して翌年春に50筆余りの水田を開発し、農場を設立した。同じ日に余テギュが率いる 16戸69人の朝鮮族農民がラクボンボで50筆余の水田を開発し、農場を設立した。翌年4月金ジフィら2戸14人が清 河下流で東西150里、南北30余里の平坦で肥えた土地を見付け、水田を開発し始めた。”

このように、朝鮮族農民たちは東北の水田農業に不滅の貢献をした。

“王室田”

和龍県 東城郷 琵岩村と龍井市 開山屯鎮 光宗村 下泉坪に満州国皇帝・溥儀の“王室田”があった。 ここでは光宗村の“王室田”を説明しようと思う。 1917年2月18日、忠清北道清州郡で生まれた崔鶴黜が 光宗村の“王室田”を扱った。

元・龍井市文連主席だった著名な民間文学家・金在権先生は崔鶴黜について次のようにいう。

“崔鶴黜は1935年に下泉坪に引っ越して来て、地主の土地を耕したが、1941年春に収穫を高めようと 簡易窓を組んで白紙を付け、豆油を塗って陽光がよく入って行くように透明度を高めた後、苗床を作りました。 そして他の人達より一足先に田植えをし、収穫も増え、米は白魚のように白くて潤沢で天下の珍味として評価されたのです。”

その後、崔鶴黜の温床育苗法が広く普及した。そして崔鶴黜は満洲国政府の招請を受けて、新京(長春)に 行き、満州貨幣で千元の賞金を受け、皇帝溥儀の“王室田”を扱う使命まで持つようになった。崔鶴黜は1943年 春には“農業視察団”の一員として日本へ行き、温床育苗技術を学んで帰って来て、その年から“王室田”を扱うようになった。

農民詩人・沈ジョンホ先生は、“康徳皇帝(溥儀)の王室田”という論文でこのように書いている。

“順調に伸び、順調に稲穂を下げ、順調にきらめき、ここは稲穂たちの声が心に甘美だ。畦を踏んで稲穂たちの囁き を聞いている”‘王室田’を扱った風景が目の前に浮び上がる。

王室田にけだものたちが入るべからずとペンキを塗った看板を建てた。ある時は白い足袋を履いた花のような 娘たちがガラス板のように水を満たした田に入って水遊びする燕のようにチャプチャプと苗を植えてゆく。 秋も素晴らしい。真白な軍手をつけた手がサラッサラッと一束づつ稲穂を刈り、真心をこめて縛った後、 庭先にずっしりと積み上げる。脱穀すれば麻袋に入れてから米をつき出す。米は村のきれいなお嬢さんたち が集まって来て、形の悪い米粒をつまみ出して目鼻も傷まなかった丸々とした米だけ集め、雪玉のように白い袋 に入れて封を閉じる。それも検査を通過して、康徳皇帝の王室合格証を受ける。

崔鶴黜が扱った“王室田”の面積は1000秤だったが、春に耕す時だけ牛の力を借り、それ以外のこ とは皆、人力にてしたと言う。田に入って行く時は、まず手足をきれいに洗って足袋を履かなければならず、肥料 は茹でた豆と斗柄のみを使ったと言う。稲刈りと脱穀をする時は、該当官員たちの監視下で行い、精米した米を娘達 がガラス板の上に乗せて一粒ずつ選んだと言う。色と光が違うとか米粒のかけらが落ちてもだめだったと言う。

王室米を生産するほどに朝鮮族農民たちの稲作が噂になったのだから、実に誇らしいことではある。 しかし米を作る農民も腰巻を気遣わなければならない時期に王室米を整えて、康徳皇帝に捧げるというのは、 農民たちにとってみれば何とも迷惑な事に違いなかった。

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