xxxxxxx
朝鮮族通信 中国の朝鮮族に関するニュースポータルサイト Search by Google:
ホーム 朝鮮族概要 地域紹介 政治 経済 歴史 観光 ショッピング コミュニティー お問合せ


目次][BACK][NEXT

3.朝鮮墾民区

苦難の朝鮮族墾民
門前の沃土、雉髪易服しなかったと政府に奪われ
私地の中に入ったと理由も判らぬまま占山戸に奪われ


▲朝鮮族農民たちの田植え(資料写真)

朝鮮墾民区

1881年、清国政府は東北地方の最後の禁断地域である吉林省東南部の封山圍場を開放し、琿春に 招墾総局を設置して移民実辺政策を実施した。また荒地開墾を鼓舞するために“琿春寧古塔招墾章程” を頒布、当年に土地を授かった農家は土地税を免除し、小作料は年間660文ずつ徴収するが、必ず5年後に返 すこととし、その残りは一銭も徴収しないことにした。その他、開墾民達に役牛を貸与し、期限を決めて借金 を返すようにするなどの優待政策を実施した。

1885年に来て墾民専門開墾局を設立、その意義について延辺大学の朴昌c教授は次のように述べている。

“これは私たち朝鮮族について言えば土地を開墾できる合法的権利を得たということです。多くの朝鮮族が 延辺に入って来たので、その後の民族共同体形成の重要な条件を作ることになったのです。”

一方、地方官庁の役人たちと地主、土豪劣紳は、政府で官荒を調査し開放した機会に多くの土地をせしためだけでな く、5年以内に租税を受けずに家、食糧、種子、役牛及び一部の農業資金を立て替えるという良い条件で朝鮮農民を募集し、 荒地を開墾したり小作農として雇った。

これほどの良い条件は朝鮮農民たちをさらに刺激することとなり、数多くの朝鮮農民が豆満江沿岸の4つ の区域、39の社から海蘭江以北と布爾哈通河以北そして琿春以北へ絶えず入って来て荒れ地を開墾した。豆 満江岸の和龍県崇善から延吉県光齊に至る肥沃な200里の土地が朝鮮農民たちによって全て開墾されただ けでなく、海蘭江以北の地域と河沿岸も大幅に開発され始めた。招墾局設置時の調査によれば、当地 には属地が多く琿春地方に5620ha、南江地方に3073ha、黒頂子地方に144haがあった。琿春辺荒管理支部・李ク ムヨンの調査によれば河から高麗鎮の北に至る区間は既に8ヶ所も開墾されたが、 その面積は2000ha余りに達した。

1900年、義和団運動が起きると、ロシアは東清鉄道を保護するという口実で東北地方に侵入、続いて琿春を占領、 延辺地区と朝鮮北部地方を占領した。これに恐れをなした延辺地方の役人、軍警たちは吉林に逃亡した。その機会 に朝鮮墾民たちは延辺地区にさらに多く移住したが、1909年に至っては3万4133世帯、18万4867人に増えていた。


▲移住初期の朝鮮族婦女達の脱穀(資料写真)

雉髪易服、帰化入籍

1891年、清政府では和龍越墾局と通商局を撫墾局と改称し、翌年には撫墾総局を局子街に移した。 そして朝鮮族の戸籍を調査して4区、39社に編入させ、朝鮮族を清の臣民として認めた。

当時の情勢をリュウ・ビョンホ先生は“朝鮮族に対する清の‘編籍為民’と‘雉髪易服’政策”という論文で このように指摘している。 “朝鮮族墾民に対する清朝廷の編籍為民は、民族同化を目的とし、雉髪易服を基礎 とした。近代的な国法をいまだに樹立することができなかった清政府は、入墾の時に管内地域の漢族人民たちに 強要した雉髪易服政策を200年の後に朝鮮から移住して来た朝鮮族墾民たちにも強要し、これを土地所有権を付与する前提とした。”

清朝廷は、朝鮮族墾民に土地所有権を与えることは領土の主権を捨てるようなものなので、雉髪易服して満族 に同化された朝鮮族墾民だけが清の臣民として土地所有権を持つことができると認めたのだ。もちろんこんな 政策に朝鮮族墾民たちは納得することができなかった。

白衣黒冠は朝鮮民族の象徴であり、ちょんまげと被り物は家系の隆盛を象徴するものだった。長い間の 儒教文化の影響を受けて厳格な上下間の礼儀と他文化に対する排他主義思想を育んで来た朝鮮民族は、先祖から譲 られた白衣黒冠を捨てて満族の服装に着替え、親からもらった髪の毛を刈ってしまうことを先祖に対する裏切りと見做した。

実に頭上に落ちた災難であった。従わなければ血の汗して切り開いた土地を奪われ、家財道具まで奪われた後、 川向こうの悲しい故郷へと追い出されるのだった。それでも満州戸籍に鞍替えするのも先祖に対して恐れ多い事だ った。ある人々は飢え死にするならする、“雉髪易服、帰化入籍”はしないと言ってあっさりと土地を捨てて去っ てしまった。ある人々は役人が見回る時だけ満族の服に着替え、髪を解き、普段には相変らず韓服の服装を続けた。 そうするうちに1900年、義和団運動の起きた後、ロシアが延辺を侵略すると延辺地方の役人たちが吉林へ逃亡したため、 雉髪易服の徹底が出来なくなった。こうして雉髪易服に従った多くの朝鮮族たちは、再び民族服を着ることが出来たのだ。

占山戸と朝鮮族地主

清政府で荒地を人々に売却するようになると、地方役人と軍閥、大商人たちは蝿の群れのように飛びかかり、肥えて 便利な土地を獲得するために血眼になった。彼らは権勢を頼んで清丈(測量官吏)たちに賄賂を渡し、多くの荒地を獲 得した。ある者達は馬に乗って走りながら広い荒地に杭を打ちながら土地を占有したし、ある者達は“土地開墾会社”と いう空の看板を掲げてある地方の土地を独り占めした。このようにして荒地をタダ同然で買い占めて一躍大地主になった 地方の官吏、軍閥、大商人たちを指して“占山戸”と呼んだ。その時の情景を“実話 中国朝鮮族歴史”(朴チョンサン、 金哲洙著)で、このように記している。

“占山戸たちの買い占めた土地の面積は、土地証明書に‘東は樹林で西の方は川で南側は樹林で北は小川’と書き入れ、 これを‘四至執租’と言ったが、このようにに大ざっぱな計算で買い付けを決めたため、開墾民の土地も私地の中に入って 行った。官庁で耕作地を再度測量して登録された面積を超過した時は、‘浮多地’として処理し、土地税を徴収したが、 それもわずかな部分であり、調査出来なかった土地が多く、また調査出来たとしても優先権が占山戸たちにあるので、 土地税を納めさえすればよいのだ。そして開墾民たちは理由もわからないまま、血の汗して切り開いた門前沃土を占山戸 たちに占領されて、着のみ着のまま追い出されるようになった。”

そして雉髪易服、帰化入籍をしない開墾民たちの場合はさらにひどかった。官庁では雉髪令を破った者に期限を定めて 土地を漢族の地主や住民に渡すことを強要し、期限内に渡さなければ川向こうの朝鮮へと追い払ったからだ。そして多 くの朝鮮開墾民たちは自分の手で作った土地を占山戸に奪われ、小作農や雇農に転落した。

朝鮮移住民のうちにも大地主が現われたが、これらの人々は皆、雉髪易服、帰化入籍をした人々だった。彼らは官庁と 占山戸に賄賂を渡し、占山戸の家に頻繁に出入りしたお陰で、占山戸から何百haもの荒地を開墾させて もらい大地主になったのだ。 “弁髪胡服”して地方役人たちの信用を得たある者達は、占山戸を代理して朝鮮族墾民 を募集し、荒地を開墾させて小作料を受け取り、その中で漁夫の利を得て徐々に地主になった。一部の人々は官吏と 結託してその他の帰化入籍しない墾民達を雇って荒地を開拓した後、自分の名前で領照納税することで一躍数十筆の 土地を占有する地主になった。また一部は富裕な朝鮮の商人たちで、彼らは貿易過程で江北の広くて肥えた荒地と安 い地価に惹かれ、朝鮮の財産を全部売って男女の奴婢たちまで従えて家族もろとろ移住し、一躍数十筆の荒地を所有する地主になった。

Copyright(C) 朝鮮族ネット