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2.“間島”

●越江罪を恐れての嘘"中州農業"
●郷縁濃き歴史の地名 "間島"へ


北朝鮮下山峰農民、李ヨンス兄弟

川向こうの土地がどんなに肥沃で、あんなに生い茂る草が背丈を越えるまでになるのか。 寒波の中、痩せこけた自分の畑を眺めながら朝鮮の罹災民達は乾いた唾を飲み込みながら このように嘆息したであろう。そして猫が菜種を狙うように北の岸に向けて、ひそかに近寄ったはずだ。

19世紀60年代、北朝鮮の鐘城郡下山峰に住む農民・李ヨンス兄弟が遂に死に瀕する飢餓に直面し、挑発的 な行動を敢行する。いかだに乗って勇ましく川を渡ったのだ。そして柳を植え草を切り出し、畑を切り 開いた。あの頃を先駆村第1村民の農民詩人・沈ジョンホ氏はこういう。

"老人達から聞いた話だが、130年前に鐘城下山峰の李ヨンス兄弟がいかだに乗って川を渡り、この広い平原 に初めて鍬を打ちこんだと言います。それに続いて鐘城の人たちはあの川を越えて農業をしたといいます。李 ヨンス兄弟は越江罪が恐ろしくて川の中州へ行き、農業をしたと嘘をつくしかなかったでしょう。そ の次からあの山を越えていろいろなところに畑を切り開つつも、中州へ行って耕作すると嘘をつかなければ出来なかったと言います。"

先駆村第6村の前の豆満江畔に立ち上がれば、沈ジョンホさんが言う中州がひと目で見える。里人たちはこの島を "尾島"あるいは"しっぽ島"と呼ぶ。ついこの間まで中州には朝鮮農民たちの小屋があったし、朝鮮農民たち が渡し船に乗って越え、農業をしたと言う。こんな島が豆満江にはとても多かったが、"しっぽ島"はなか でも大きな島だった。朝鮮農民たちは敢えて陸地を犯すことができず、ただこんな島々ばかりを開墾して来たのだが、今 回、李ヨンス兄弟が大胆にもこの平野に初めて大々的に鍬を打ちこんだのだ。もちろん秋ならば作物をいかだに積んで帰 っては、政府の目を盗むために余裕しゃくしゃくで「中州すなわち"間島"に行って農業をして来た」と嘘をついたはずだ。そ の後、農民たちは奥地にまで入って行き、畑を切り開き"間島"に行って農業をしていると言った。その時から"間島"と 言う名前が人々の口によく上るようになり、やがてその後、ずっと川向こうを"間島"と呼ぶようになった。

"間島"と"墾土"

1883年、清と朝鮮両国の国境が"吉林朝鮮商民貿易地方章程"によって開放され、延辺地区に対する 封禁令が解除され、越墾局が設置された。そして多くの朝鮮農民たちが延辺に入って来て、荒 地を開墾するようになった。土地を開墾するので延辺地区を"墾土"と呼ぶようになったが、朝鮮語の"墾"と"間"が同じ 音で"島"と"土"もよく似た音なので、民間では区別なしに"間島"と呼んだ。

"中朝両国間に間島問題を巡って争いが生じたのは、1903年<間島視察使>に任命された李範允が中国側の 越墾局に<間島>は<土地が50結にもなるが、川の北側はもとより朝鮮人たちが開墾、耕作したのだから、 朝鮮の領土だ>と主張してからであった。この時から<間島>と言う単語が外交で使われた"延辺大学歴史 学教授の朴昌c先生は、こう言いながら"中国朝鮮民族足跡叢書1"に記載した自身の文"<間島問題> の発生と日本の<統監府間島臨時派出所>"という題目の文を想起させる。その文で朴教授はこう指摘している。

"豆満江流域には多様な数多くの<島>があったが、なかでも一番大きな島が<間島>と言われた。<東三省政略>や<延 吉辺務報告>の記載によれば、<間島>は元々<島>ではない。今の龍井市開山屯鎮の先駆け、光昭村と北朝鮮鐘城の間を流 れる豆満江の中国側畔に長さ約10里、幅1里になる2000畝余りの<台地>があったが、その台地は龍井に続く陸地だった。 この<台地>がいつの時から開墾されたかは不明だが、1881年、延辺地区の封禁制が廃止されると、越境した朝鮮族開墾民 たちが龍井近辺を開墾しようとして水利を開いた後から<台地>は四方が川の水に取り囲まれた<島>になった。当時の漢族 はこの<島>を<仮江>もしくは<江通>と呼び、朝鮮族開墾民は<間島>または<墾土>と呼んだ。この後、朝鮮族開墾民 から<間島>と言う称号が出た。 <間島>は主に北朝鮮の鐘城の農民が名付けた称号で、中国の越墾局に租税を払い ながら耕作したが、毎年の租税総額は800両余りに達し、越墾局では徴収した租税を越墾事務費として使った。"

日本が操作した"間島問題"

"封禁令"が取り消され、"越江禁止令"が廃止されると、夥しい数の朝鮮人が洪水のように延辺へ 押し寄せた。そして各地に朝鮮族村ができるようになった。 1883年には清の朝廷では、和龍(現在の龍井市智 新郷)に通商局を設け、豆満江以北の長さ700余里、幅50余里に達する区域を朝鮮族開墾民の開墾区域と定 め、行政管理を強化した。このような現象について元延辺歴史研究所所長の権リプ先生はこう述べている。

"当時、清は辺境防衛のため、また軍糧を調達するため、朝鮮族の移住民を受け入れて管理する機構である越江局 を設け、専門の朝鮮族の開墾事務を引き受けた。延辺を朝鮮族の専門開墾区と定めたことは、私たちの延辺の歴史 と朝鮮族の歴史で非常に重要な事件だ。"

1905年、日露戦争で勝利した日本は、遼東半島と南満鉄道及びその附属地を占領しただけでなく、彼らの既定の "大陸侵略方針"を実現するために延辺侵略を正式に確定した。そして李範允が提起して来た"間島"が朝鮮の領土 という言い分を繰り返しながらも朝鮮を保護国とし、朝鮮を代理して間島問題を解決すると言いながらも次のような 妄説まで出している。 "鴨緑江、松 花江と豆満江など3つの川の発源地一帯には<独立小国>が厳然と存在し、これを<間島>と呼ぶが、<間島>は東西 760里、南北350里もあり、帽児山(吉林省臨江県)に沿って流れる輝発河から松花江以南一帯の地域まで皆<間島> 地域に属するが、その広さは我が(日本)の九州地方に当たる。こんなに広い地域が、一体中国に属するのかそれと も朝鮮に属するのかがまだ断定しにくい。"

その後、日本は恣意的に間島を北都所、会寧間島、鐘城間島、茂山間島と行政区域を分け、4区域には"都社長"を任命、 その管轄下に41の社、290の村を置いて社長、村長を任命し、新興坪、局子街など14ケ所には日本憲兵隊分遣所を設置し、 憲兵と朝鮮警察を配置した。

結局、日本は歴史文献と実地調査を通じて"間島は朝鮮に属しない"と言うことを漠然と知りながらも、豆満江辺界問 題を利用して彼らの大陸侵略方針を実現するために、延辺に侵入したのだ。朝鮮の人を保護するという口実で延辺に入 って来た日本は、その後、朝鮮族を弾圧し略奪する野獣の群れと化した。

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