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1.越江曲

この地に定着することになる民族の前奏曲/切なさ燻る民族の悲しい歌





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冬の豆満江はカチカチに凍りついている。吹雪が悲痛な悲鳴を上げながら、雪に覆われた川の上で乱舞する。 豆満江の岸から眺める間島は、凄く寒そうに見える。振り返ると遠く龍井市開山屯化学繊維パルプ工場の煙突で、 広い平原に一団となって集まった里の白い屋根が眺められる。小さな湖をすぐ傍に置いている先駆村、第6村民小組がすぐそこにある。

越辺にそよぐ葦葉の枝は
心焦がれる私の胸を呼んでいるようだが
この身が越えれば越江罪だという

この岸に立って間島の里を眺める度に思い出す"越江曲"である。傷々しい"越江曲"の歌声が吹雪に乗って来て 耳元で泣いているようだ。 "越江曲"はこの地に定着することになる我が民族の前奏曲だ。いかに多くの人々が この歌を歌いながら北を仰いで歎息し、死をかえりみず川を渡ったのか。

巷間では蛙を食べる子供を見れば"己巳年に生まれた子だろう"などと言う。 1860年から1870年までの11年間、 朝鮮北部では大寒波と大虫害が引き続き起こった。特に1869年、己巳年に咸鏡道の茂山、会寧、鐘城、穏城、 慶興など6鎮を見舞った旱災は有史以来経験したことのない特大の災害だった。春になるといきなり日照りが始まったが、 夏が殆ど過ぎ去っても雨一粒降らなかった、前代未聞の大干ばつに違いなかった。

朝鮮王朝の腐敗した官吏たちの苛政で、民衆は豊年になっても飢えに苦しまなければならなかったが、大干ばつまで 重なったため、生活の道が完全に塞がれてしまったのだ。飢えた人々は山菜、きのこを採って食べ、若い木の芽も食べた。 木も実もなくなると、彼らは草の根を掘って食べ、樹皮を剥がして食べた。家々に飢え死にしたり凍死する人々がおびた だしかった。道端には引き取り手のない死骸が倒れていた。ある部落ではお腹が空いているのを耐えるだけではあきたらず、 背負った子を食う惨状まで起ったと言う。その時の惨状を"実話 中国朝鮮族の歴史"(朴チョンサン、金哲洙著)という 本でこのように書いている。"人々がどれだけ飢え死にすれば、今年を<飢え死にした年(飢死年)>とまで呼ぶのだろうか。"

事実上、豆満江を渡ることは北道の人々の唯一の生きる道になってしまった。しかしこの道さえ簡単には開かれることは なかった。朝鮮王朝では川沿いに多くの見張り台を立てて越江を厳禁させたし、越江して捕らえられた者達を"越江罪"でむ やみに斬首した。

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一方、清国の統治者たちは都を瀋陽から北京に移した後、長白山以北の千里の土地を"隆興之地"すなわち 満族の発祥地として厳しい封禁を実施しながら、移民たちの移住を一律に禁止した。これがまさに歴史で 言う"封禁令"である。 "封禁令"が下された後、満州は天府之土(生産物が豊かな地)になってしまった。 何もない荒れ地、果てしない暮し、無尽蔵な自然資源が深く眠っていた。延辺は清の騎兵たちの訓練場所で 高麗人参と真珠を採取し、鹿やカワウソの皮など珍しい動物を取って清の統治者たちに捧げる狩猟の場になっ てしまった。満族を出したところに異民族が入って来る場合、追放されるのは勿論であり、ややもすれば首を切られた。

長白山地区はこのように人家ノない荒涼とした所で、200年余りも人跡を寄せ付けなかった。茂った森林、 肥えた土地は朝鮮の貧しい人々を誘惑するには十分過ぎる程だった。"座ったまま飢え死にすればどうだと いうのか、越江して捕まって死ねばどうだというのか、こうしても死ぬしああしても死ぬのなら、川を渡ってみ よう。もしかして成功すれば生きて行くことも出来るのではないか。そこで人々は秘密裏に川を渡り始めた。"大型ドキュ メンタリー"延辺アリラン"(許ボンハク、李グァンス著)の独白場面だ。

初めは日帰り耕作にとどまった。夜中に豆満江を渡り、畑を掘り起こして種子を振り撤いてから、朝に帰った。 後には何日かづつ泊まって農作業もした。清の官庁の決まりが厳しければ、帰って来てはまた入って行く方法で、 豆満江沿岸の警戒線から少し離れた谷に隠れて作物を植えた。また、ある人々は春に越江して深く入って来て、 農業をしてから秋に収穫した作物を背負って故郷に帰った。やがて家を建てて暮す人々まで出来始めた。

もちろん命か゜けのことだった。そうするうちに捕まれば厳罰を受けたが、豆満江岸で人を殺して首を晒して 見せる場面をいつも見ることが出来たと言う。一方、故郷に残っている妻達は、夫のためどれだけ願掛け状を 焼いたか分からない。ある日、不意に豆満江河畔の木の枝にかかっている夫の首を見付け、気を失って倒れた女 性達が何人いたことか。 "越江曲"にはこのような切ない心情が一杯に燻っているのだ。

雁が行く度に見送り、夢路にて君とは常に一緒に通っても、この身が渡れば越江罪なのだ

柳燃山の長編紀行文"血縁の川"にはこんな話が記載されている。1883年、西北経略使・魚允中は、咸鏡道を見回っ た途中、鐘城の水郷塁に上がった。豆満江対岸を眺めていると、山間に伸びている一本道を見付けたので、"あれは何の道か?"と尋ねた。 "民はあの世に行く道だと言うのです。"鐘城副使の返事だった。 "あの世への道だって?" "ここの日帰り 農民たちが川を渡って谷間に入って行き、農地を切り開いてから出来た道です。越江罪は首をはねると言いますから、 あの世への道ではありませんか?"鐘城副使の直訴だった。

事態を悟った魚允中は、越江禁止令を廃止し、"越江罪人不可塵殺"と言って越江者たちに土地権を与え、 江北への移住を承認するようにと促した。一方、吉林将軍・銘安と呉大澂は延辺地方で既に多数を占めた朝鮮 族を出国させることができず、開墾した土地を荒れ地にすることもできないと言いながら、証書を発給する ことを主張した。結局、清の朝廷ではロシアの侵略など国内外の複雑な情勢の中、朝鮮移住民を利用して延辺を 開墾することとし、1885年に封禁令を廃止した。これ以降、辺彊の住民は再び"越江曲"を切なく歌う必要はなくなった。

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越江無罪の令が各部落に適時に伝えられず、越江罪で惜しくも死んだ最後の人々がいたが、それは茂山の狩人だった。 その時の場面を作家・柳燃山は長編紀行文"血縁の川"でこのように描いている。越江狩りをした事実が見つか り役人につかまった狩人は、牛車に座って豆満江辺の死刑場へと発った。国境の制限なしに自由に出入りする動物は国籍 など関係なかったが、人が川を渡ったという理由一つでも、当時には死刑判決が簡単に出たのだ。囚人車を曳く牛はデ コボコした道をあまり苦労もせずに、雌牛のように大小便のため止まる時間浪費もせずに、そろそろと連れて行く。川辺 の死刑場の断頭台の両側には、既に命を受けて来た執行人たちが待機していた。執行人たちが手に持った鋭く大きな刀を 見ると、狩人は早くも気絶してしまった。囚人車が死刑場に到着すると、執行人たちは縛り上げた死囚を引きずりおろし てひざまずかせ、断頭台に据えた。

まさにその時だった。あの遠い山の方から馬一頭が一目散に駆けて来た。馬に乗った伝令は手を掻き乱して何か大声 で叫んだが、距離が遠くて聞こえなかった。判決文を読み上げると、執行人たちは刀を振り上げて勢いよく打ち下ろ した。首が真っ二つになって、赤い鮮血が噴水のように四方に飛び散った。首から離れて行った頭と冷たくなって行く 体は、まるで大きな塊みたいに砂浜に倒れた。それが越江罪に対する終止符となった。

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