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[特集] 青島に立ち上がる我が民族の新たな基盤(1)

青島に進出した朝鮮族の実態と展望についての考察

編集者の言葉: 改革開放で中国朝鮮族の居住版図に大きな変化が起き、青島、北京、天津、上海、広州、深など、 沿海に朝鮮族社会が新しく形成されている状況だ。 朝鮮族沿海進出 一番地であった青島を中心にした山東半島は、 朝鮮族社会が比較的成熟した。 黒龍江新聞社では青島の朝鮮族社会に集中的にスポットライトを当て、 今後のその他の沿海地域ハンギョレ社会の形成に見本を提供するという主旨から、本社・洪満浩専任社長と青島支社で取材、 筆を執った特別企画 “青島に立ち上がる我が民族の新たな基盤"を 5期に分けて連載する。−編集者

改革開放の堰の水が切れ、中国朝鮮族の住居版図には巨大な変化が起きた。人々が群れをなして南へ南へと、 秋の雁の群れのように移った。 雁は飛び立ってから春が来ればまた帰って来るが、南へ飛んだ彼らは帰って 来ることができなかった。 そして 10余年、 北京はもちろん朝鮮族と縁が遠かった天津、青島、上海、広州、 深などの都市に我が民族の市街地が形成されるに至った。

これは誰にも、どんな力でも阻むことができない大進軍だった。それは私たちの先祖が家族で東北に押し寄せた 時とは全く違う移動だった。 前者は生き残るための移動だったが、後者はより良く暮らすための移動であり、前者 は逼迫による移動だったが、後者は主動的な移動であり、前者は農村から農村への移動だったが、後者は農村から 都市への移動だった。

では、彼らのこのような移動は、どのようにして起こり、今の現住所はどうであり、将来はどうなるのか?

記者は同胞たちが一番多く進出した青島をモデルとして、そこで見たり聞いたり感じたり調査した事実で、読者 たちと共に気楽に討論して見ようと思う。

青島に現われた風変りな風景

青島空港に降りて市内に入って行ってみると、重慶北路の交差点近くで予期せぬ光景に目が丸くなる。 通りの両側に ハングル看板が並んでいるからである。 平壌万寿館、フンイウォン百貨園、セジン自動車、メサン電気オンドル、 現代フォークリフト... こんな店鋪たちが何と 150軒余りも並んでいる。 それだけではない。 中城路北にも 80店舗余り、 飲食店が 1000m余りの街並を成しており、南村付近と城陽世紀公園の周囲もハングル看板の新天地だ(店鋪 60ケ所余り)。 青島で最大の城陽区卸売市場でも朝鮮族の売り買いの声をたまに聞くことができる。 彼らは 20個余りの売台を持ち、 キムチ、ごまの葉、餅のような朝鮮族の食品を売っている。 東北米屋を経営する黒龍江おじさんがいるかと思えば、 延辺の物産を売る延辺おばさんもいる。 城陽区人民広場には夕方ごとに市民たちが集まって来て休息のひとときを楽 しんでいるが、 300名余りの踊っている人々のうち、大半が朝鮮族と言う。それに音響設備も吉林市出身の朝鮮族が無 料で提供していると言う。

ここがまさに我々の同胞が一番多く集まって住む城陽区だ。不完全な統計によると、城陽区に朝鮮族が 4万名余、韓国人が 1万 3000名余り住んでいるという。去年、朝鮮族企業人協会城陽支会で、初めて朝鮮族運動会を開いたが、その参加人数が 4000人余りに達したというから、私たちのこの町がどれだけ大きいのか、優に見当をつけることができる。 城陽区に同胞が 一番たくさん暮しているが、朝鮮族が一番密集している所は李滄区だ。李村を中心におおよそ 3万名余の朝鮮族が暮している。 朝鮮族が運営するサービス業 200ヶ所余りがここに密集している。(韓国業者は 310ケ所余り、常住人口は 1400人余り)

李村の浜和路、長さ 200mにもならない区間の両側の通りには古い 2、3階の建物が並んでおり、金星広告、チョンウォン食品、 舒蘭貿易、韓国城などハングル看板90個余りが鈴なりになっている。ここの人々はこの通りを “韓国通り”と呼ぶ。 浜和路 1214番地、不揃いな階段に沿って 2階に上がると狭い廊下に万国旗のようにかかっている看板が目に付く。新興、熱心、 トラジ、銀河、出会い、白頭山、豆満江、松花江... 全て紹介所一色だ。2、3階にこんな各種の紹介所が 30ヶ所余りにも なると言う。 折りしも農閑期なので職業を探しに来る人々が随分と目立ったが、お正月直後のようなオンシーズンには増えた 廊下にまで並ぶという。 かと思えば浜和路市場には 40個余りの売台を朝鮮族が持ち、みそ、コチュジャン、餅、ナムルなど 民族伝統の食べ物を売っている。その他にこの区域には、朝鮮族の運営する飲食店が 100ケ所余り、カラオケが 10ヶ所余りある。

80年代後半まででもやや小さい鎮だったここは、韓国企業が進出して朝鮮族が相次いで入って来てからは殻を破って伸び始め た。それでもここは物価が安く、家賃も安いので、懐事情が豊かではない朝鮮族の追われて来る所になったのだ。それはまた 最近、アパート団地が続々と立ちながら朝鮮族たちが好む住居地域につながったが、ペクトン花園を例に挙げると入居者総 3000世帯余りの中で朝鮮族がおよそ 3分の 1を占めている。

この二つの区域以外にも、青島市の 12の区域(市)にはどこにでも朝鮮族が暮して いる。 青島市の衛星都市である即墨市、膠南市、膠州市、莱西にも 3000人以上ずつ 住んでいるものと集計されている。このように計算すれば、青島市に暮す朝鮮族は 10万名と推定される。しかし青島に戸籍を移した人は多くはない。城陽区を例にとれ ば、4万名のうちで戸籍を移した人は僅かに 5400人にしかならないという。

5月 14日、 第1回青島朝鮮族のど自慢が城陽区人民会堂で開かれた。驚くべきこと に、この日の集まりに 1300人観客が会堂を埋め尽くしたが、主催側である企業人協 会の顧問さえ家族に整理券が渡せず、やきもきしたと言う。 そのため、会員が 900 人を上回る老人協会で切符が 20枚しか整理券がもらえなかったと不平をもらしてい たが、その言葉を聞いて黙ってしまったというから、情況の凄まじさがわかるという ものだ。

驚いたのはそれだけではなかった。 記者は先日、ある家庭の結婚式に参加した。 黄 金海岸ホテルで挙行された式には、 100人余りの来客が集まって来た。 黒龍江・海 林と遼寧・鉄嶺市から来た二人の若者、彼らがはるか遠くのここへ来て働きながら付 き合い、新しい家庭を成すようになったというのは何となく夢のようだった。 この ように青島で新しい暮しを始めて子どもを生んで暮すようになる若者達が、どれだけ いるのだろうか? 何日か後、老人協会の分会を訪ねた時、会長はこんな事実を知ら せてくれた。 その結婚式の食事は自分たちが調えてあげたのだとして、一年にそん な豪勢な料理を少なくとも 40回余り有料で作ってやると誇らしく言った。 あとにし て来た故郷とは違い、ここは若者達の新しい住みかとしても脚光を浴びているのだ。

朝鮮半島と海を挟む山東半島は、一番短い海路が 90海里にしかならない。 史料によれば、中国唐朝の時期に新羅との往来が頻繁だったが、紀元8世紀〜9世紀の間 、山東半島沿海地域に多い時には数千名の新羅人たちが居住することもあったという。 しかしそ の後、山東半島は我が民族と縁が遠くなった。 改革開放前、青島にはわずか数百人の朝鮮 族がいただけだったという。 青島市民族宗教局・江線賢局長の紹介によれば、青島には3 8の少数民族がいて、 1996年まででも少数民族の人口がしめて 1万 3500人余り、 その中で朝鮮族の人口が 1000人余りだったと言う。 それが、韓国企業の青島進出ブーム とともにわずか 10 年の間に朝鮮族人口が 8〜10万に急増したという。 彼は青島進出の朝鮮族に対する印象を聞かれると、事前に準備でもしていたかのように指を折りながら 答えた。第一に、同族間の団結が良い; 第二に教育を重視する; 第三に老人を尊重する; 四番目に 競業精神が良い(真面目に働く)l; 五番目に踊りと 歌を楽しむ。このように言いながら彼は朝鮮族は青島の外資導入と経済に多くの寄与をし たし、この都市に異彩を放つ民族の雰囲気を加えてくれたと述べた。

そうなのだ。 朝鮮族は大変な勇気とたゆまぬ努力で、青島というこの優れた住みやす い都市に進出して腰を据え、風変りな風景を演出しているのだ。  

(黒龍江新聞 パク・ヨンマン、ナム・イルジュ、ホン・マンホ記者 2005年7月2日)
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