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![]() [社会] 丹東鴨緑江第二の断橋−清城橋 丹東鴨緑江第二の断橋−清城橋 北朝鮮・新義州市が近距離に眺められる丹東鴨緑江断橋からゆうゆうと流れる鴨緑江を 遡って約40kmほど上がれば、朝鮮戦争の痛い跡として残ったもう一つの断橋に会うことが出来る。この断橋こそが丹東河口断橋だ。
この断橋の中国側は、丹東市寛甸県河口で、北朝鮮側は清城郡だ。 そのため、 この橋梁が建設された後、清城橋と呼んだ。 この橋は当時、日帝が中国の資源を略奪するため、 日本の抑圧で1942年、朝鮮と満州国政府が共同で建設したが、鴨緑江で最大の道路橋だった。 鉄筋 コンクリート構造になっているこの道路橋は、完工した後、全長が709.12m、幅6m、高さ25m、橋脚が22本で、 積載量が60トンであった。 朝鮮戦争の期間、清城橋は中国人民志援軍が鴨緑江を渡って朝鮮戦争を支援する上で重要な役割をした。 記録によれば、第一回で朝鮮戦争に出て行った中国人民志援軍第39軍、第40軍と支援軍第3兵団と一部の部隊が 清城橋を渡って北朝鮮の前方へと出て行った。
1950年10月19日、当時中国人民志援軍総司令だった彭徳懐将軍と毛沢東主席の長男・毛岸英同志も 清城橋を渡って朝鮮戦争の舞台に出て行った。 また、抗美援朝戦争の期間、大量の軍用物資が清城橋を通って北朝鮮の戦線に送られた。 1951年3月29日、米軍は6回にかけて30機の戦闘機を投じて清城橋を爆撃した。 米軍戦闘機の爆撃により、 清城橋は中間の部分200mが切れ、3本の橋脚が川の水中に残ることになった。 ▲断橋を訪れた観光客たち 清城橋は鴨緑江に第2の断橋として残り、平和を愛するすべての人々に60年前の歴史を示唆してくれている。 ▲当時、橋を守ったトーチカ (吉林新聞 2010年6月6日)
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