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[文化] 河北省朴氏村:満族に変わった固有の朝鮮族・朴氏

食べ物、言語、習慣は、ほとんど全て漢族に変わる



杖子村は馬を走らせ杭を打ち込んで場所を定めたて出来た村の名前だ。 このような地名は山海関を越えた河北省内に、 砂利のようにありふれて散在している。 許杖子、唐杖子、柳杖子、黄杖子等、 一目で姓氏に基づく村の名前と判る。 昔、荒野に馬を走らせて杭を打ち込む先人たちの姿が、今でも目前にまざまざと浮び上がるようだ。

その中に朴姓の杖子村があり、実に驚異的だ。 朴姓は朝鮮半島の朴赫居世から始まった姓氏で、数多くの姓氏の中でも 格別な、韓民族だけに固有の姓氏であるためだ。

朴杖子村は河北省平泉県七溝鎮七溝村のいくつかの自然部落の一つだが、北京から北東へ約200km余り離れている。 清国皇帝の避暑地として有名な承徳が、すぐ近くにある。 村は後に山を抱き、原野に向き合っており、昔の国道が村の 真ん中を横切っている。

朴姓は七溝村の様々な村に散在していた。 彼らは朴杖子の村から出て行った人々が中心だという。 七溝村の村長は 朴姓であった。 朴俊平(50歳ほど)村長は、私たちの一行の中にも朴氏がいると聞いて、すぐに喜しそうな顔をした。 そこで、私たちと同じ朝鮮族かと彼に尋ねたところ、意外にも満族だという。

朴杖子村をはじめ、七溝村には朴姓が何と50世帯余りにもなるという。 これらの朴氏は、全て満族になっているというのが 朴俊平村長の紹介だ。 彼は朴姓が朝鮮民族固有の姓であり、満族の姓氏でないと言うと即座に首をかしげた。

“そうですか? 昔おじいさんが朝鮮族だったとは聞きましたが。”

朴俊平村長は中年に入り込んだ年齢だったが、村の朴姓の経緯をほとんど知らなかった。 後ほど彼は七溝村石壷溝に朴姓の 家系図を知っている老人が一人おられるといいながら、そこへ私たちを案内してくれた。

老人の家は国道からかなり外れた奥深い山のふもとにあった。 塀の外のとうもろこし畑の傍の石臼がひときわ目立った。 ここでは主に乾田農業をしていたが、家で食べるとうもろこしや米は殆ど自分で石臼でひくという。

門の外まで出て来て、私たち一行を迎える老人は、北方のどの田舎でも見ることが出来るような漢族の服装であった。 家の外観や内部構造もやはり典型的な北方漢族の家屋であった。 温かい田舎人の心はここでも同じだった。 老人は庭に 植えた木から取ったばかりといいながら、ずっとナツメを薦める。

朴瑞昌(80歳ほど)翁は、村の朴姓の家族が昔、清国の時代に中国東北地方から移住して来た人々だと語った。

“私たちの先祖は朝鮮族だよ。 幼い時に聞いた話によると、遼寧省から来たというよ。”

それによれば、朴氏の先祖は昔、東北の遼寧省で暮らしていたが、朝鮮と川を隔てたところだった。 彼らは後日、 清国の八騎兵とともにこの地域に入って来て、朴杖子村に腰をすえたという。 学界ではこの最初の朴姓の人々が軍人だったか、 それとも農民や奴隷の身分だったのか、今でも様々な論争が多く、定説がないという。



朴姓の家族は、朴杖子に移住して来たその時から、子々孫々共通の文字の順序で名前をつけたという。 朴瑞昌さんは、 高齢のため手が震えてノートに共通の文字を書くのが辛そうだった。 すると50代の息子がペンを受けとって、代わりに書いて くれた。 見たところ全て共通の文字として、非常に馴染み深いものばかりだった。 共通の文字は合計20個であった。 この字は順に“世、文、天、尊、永、広、修、清、占、昌、述、俊、芳、杰、瑞、景、興、義、玉、祥”であった。

これが正しいとすると、村の長老である朴瑞昌さんは朴姓家族の10代目の人物であった。 今、村には14代目の杰まで降りて きたという。

“朴家院でも私たちと同じこれらの共通文字を書きます。 そこでも朴姓の人々が暮らしていますよ。”

朴俊平村長の耳よりな話に気持ちが傾いた。 朴家院は朴杖子から南に2〜30km離れているという。 共通の文字が同じだということは、 朴杖子と同じルーツを持っているということになる。

国道を抜け出して県級道路を約1時間程度走っただろうか。 遠い山の麓のとうもろこし畑の間に低い屋根が見えた。 小川の ほとりにかかる小さな橋を過ぎて、畑の中を通る道に従って200mほど入ると、いよいよ村が現れた。

いつの間にか、秋の日差しは西の空に傾いていた。 焦る心を天が知ってくれていたのか、ちょうど村長がリフト車を押して 私たちの傍を通り過ぎて歩みを止めた。 田舎では外部の人々の身なりが、すぐに目についたのだ。

“ここの朴氏は朴杖子から来たといいます。”胡啓生(50歳ほど)村長は、私たちが訪ねて来た経緯を知ると、すぐにこのように 話した。

朴家院は130世帯余りが暮らす大きな集落であった。 このうち朴姓は40世帯余りになるという。 しかし胡啓生村長は他の姓氏で あるせいなのか、それ以上の詳しい話は出来なかった。 するといつの間にか私たちの周辺に点々と集まって立った人々の 中から、ある一人を前に強く出して来た。

“この方がよく知ってます。 朴さんですから。”

彼の名前を尋ねると朴玉昌(60歳ほど)、朴杖子の共通文字の身内の序列のとおりならば、私たちがたった今会った朴瑞昌 老人と同じ世代ということになる。 朴玉昌は朴家院もやはり朴杖子のような20個の共通文字を使っているとゆっくり語った。 今、朴家院も朴杖子のように共通文字の身内の序列が14代目まで降りて来ているという。

“昔、私たちの先祖が朝鮮族だというのは知ってます。”朴玉昌はうなずいた。 しかし彼は北朝鮮や韓国、ひいては朝鮮族にも 特別な好感は持っていないように見えた。

現在の朴家院の朴氏もやはり全て満族として登録されている。 朴姓の家族は清国八騎兵について山海関の南に入って来たので、 満族と同一視されたようだ。 一部では、彼らが民族差別視や圧迫を受けないために、族籍を満族に直したと語る。 それでも彼らが満族の習慣や言語を持っているわけではなかった。

“今では、食べ物や習慣が漢族と全く一緒です。 名前が満族でも、実際のところは漢族です。”

周囲に集まった朴姓の様々な若者たちも彼と同じだった。 彼らは私たち朝鮮族が取材に来たといっても特別な興味を見せなかった。

朴玉昌はインタビューの間、ずっと地方なまりが多分に混ざった中国語を駆使していた。 身なりや行動など、あれこれ見ても、 間違いなくオリジナル漢族であった。 朴姓村、いや少なくとも朴杖子や朴家院で朴氏らは朝鮮族でなく通常の漢族と変わらない 人々であった。

河北省平泉県にある朴杖子と朴家院、そして青龍県、承徳県には約400世帯、2000人余りに達する朴姓の人々が暮らしていることが 判っている。 彼らの一部は、住民登録証に漢族あるいは満族と書いたものを、80年代初めに“朝鮮族”と直したという。 “朝鮮族”のアイデンティティ意識がまだ全ては消失していなかったという唯一の証拠であった。

河北省朴杖子と朴家院では、朴氏の家族が14代目まで存続、一世代を25年ほどと見るなら、河北省朴姓家族の初代は約350年前の 清国初期に定着したことになる。

事実、東北の遼寧省にも朴姓の集落である朴家溝村、朴堡村がある。 これらの朴氏も共通文字の名前を持っており、80年代に すでに15代目に達した。 河北省の朴氏村は、遼寧省の朴氏村より若干遅れた時期に中国に定着したという話になる。 学界では これらの朴氏が後金の“丁卯胡乱”と清国の“丙子胡乱”の時、すなわち17世紀の戦争移民という節が支配的だ。

一部の学者たちはまた、朴姓家族の伝説と家系図、様々な朴氏村の遺物などを挙げて、これらの朴氏は三国時代の東北の地にあった 韓民族の子孫だと主張する。 是非論をべつとしても、この主張は学界に新鮮な風を吹き込んでいる。

ともかく遼寧省の朴氏村や河北省の朴氏村の家族は、食べ物や言語、習慣がほとんど全て漢族になってしまったという点で、全く 変わらない。 彼らの先祖が朝鮮族であり、また、一部は朝鮮族に民族族籍を直すなど、朝鮮族であることに固執しているため、 彼らを相変らず朝鮮族と見る学者たちも少なくない。 しかし名前だけ朝鮮族だけであって、他民族に同化されている朴氏村の 家族たちの現実を無視することは出来ない。

もしかしたら、河北省の朴氏村でわずか20個で終わっている共通文字には、ある予言が隠れているかのようだ。 数百年前、遠く 異郷の地に住み着くことになった彼らの先祖は、わずか20代目ほどで彼ら朴姓に流れる韓民族の血が、永遠に消えてしまうと 考えていたのではないか…

(延辺日報 キム・ホリム記者 2010年5月25日)
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