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[教育] 安重根義士義挙の記述で解明すべき問題

1909年 10月26日、安重根義士は祖国の独立とアジアの平和のためにハルピン駅頭で日本の朝鮮侵略の元凶・ 伊藤博文を射殺、世界を驚かせた。安重根義士が伊藤を暗殺したのは、正義が不正義を打ち破ったことであり、 平和が侵略を懲戒したものといえる。安義士の義挙に、我々同胞はもちろん、中国人たちまでが喜び、平和を愛する 世界の全ての人々から讃揚を受けた。

安重根義士の義挙の後、多くの人々がそれについての研究をして来た。 これまで、彼の生涯や思想についての多くの 学術論文や伝記類が出版された。 ところが、安重根義士のハルピン義挙と関連して、誤って伝えられている事実が 多いことを知り、今でも直さなければならない必要性を感じる。 韓国や北朝鮮、中国、米国などの文献を土台として、 現在までに把握された誤った記録を具体的に調べ、たとえ小さな部分ではあっても歴史は正確に記録されなければ ならないという立場から、正確な事実を提示したいと思う。

安義士はどの位置から鉄砲を撃ったのか?

中国の朝鮮族小学校教科書 '朝鮮語文'第9巻第9課 '熱血闘士安重根'には、"駅の中には日本旗を掲げた歓迎客たちが 立っていた。 歓迎客の間に立った安重根は..."と記述されている。 そして韓国で出版した "長城の国中国"(明心出版社 1991年発行)にも、これに似た感じで安義士が日本人を装ってプラットホームに入り、 日本人歓迎客の間に紛れ込んで伊藤博文に向って鉄砲を撃ったことになっている。

しかし安義士は自叙伝で "ツカツカと歩いて、勇気を出して軍隊が並んでいる後にまで行って見た...すぐに短銃を 取り出し、その右側へ向けて 4発を撃った後..."と記述している。 溝渕孝雄検察官の第10回審問調査でも、安義士は "兵隊の方へ近づいて見たら、ロシア兵同士の間隔は一間余りだったので、私は後列の兵士と兵士の間に挟まって立った状態で、 ピストルを老人(伊藤博文を指す)が歩いているところを狙って発砲した"と述べた。

また 1910年 2月7日に開かれた 1次公判記録でも、やはり安義士が "整列している兵士と兵士の間の間隔は 2、3歩ほど離れて いたので、私はその後列の兵士と兵士の間にいて、私の前を 2、3歩ほど過ぎ去ったと思った時に発射した"としている。

ロシア東清鉄道警察署長代理・ニキホロフの公述調書にも "伊藤公爵は、随行員と共にロシア衛兵の面前を通った時、 銃撃を受けた"という。

伊藤博文の秘書官・古谷久綱が法廷に提出した供述書には"ロシア兵がいる所で洋服を着た者が公爵を狙ってピストルで3発 を発射した"と記録されている。

このような記録と公述を総合して見ると、安義士は日本人歓迎客の間からではなく、ロシア軍隊の後列の裏手から鉄砲を撃った ことが確かなようだ。/徐明勲

(黒龍江新聞 2009年4月22日)
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