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![]() [特集] 安重根研究、疎かに出来ない私たちの使命 ハルピン市朝鮮民族事業促進会名誉会長・徐明勲 "私は安重根研究専門家と呼ばれると、恥ずかしい気持ちが先に出ます。知識体系や研究成果で見れば、 安重根思想を学ぶ学生というほうが相応しいと思います。ただ現在、安重根研究において表面化している地域や 出身、民族等に限定する偏狭な考え方は捨てなければならないと思います。 安重根義士は私たち朝鮮民族の英雄 であるだけでなく、アジア、さらには世界の英雄と言ってもよいでしょう。100年前、安重根義士が提唱した 平和思想は、今日の国連の設立精神と一脈相通じるものです。だからこそ、安重根を世界に広く知らせ、 研究することは、私たち皆の使命なのです。" ▲自宅で、取材チームに安重根関連事件を詳しく説明してくれている徐明勲先生 これは、ハルピン市朝鮮民族事業促進会名誉会長・徐明勲先生(78歳、ハルピン市民族宗教事務局の前副局長)が、 自宅で私たち特別取材チームに謙遜しながら聞かせてくれた話だ。 ハルピン、さらには中国で安重根義士の 精神を称えることが出来るのは、朝鮮族社会が支えになって来たからであり、その中心には 20年間安重根義士を 研究し各種の文献を発表し、中国人の中に安重根義士を知らせる上で先頭に立って来た徐明勲先生のような方々が いたからと言っても過言ではない。 ▲徐明勲先生が執筆した出版物 1945年 8月15日、日本帝国主義が無条件降伏を宣布すると、 36年ぶりに解放の喜びを満喫した 朝鮮民族の一員であり、当時中学生だった徐明勲先生は、国と民族を失い、言語、文字さえ奪われた 苦しみから脱し、自民族の言語と文字を学ぶことが出来るようになり、安重根義士の史蹟に接することが 出来たとして、その時はとても誇らしかったと明らかにした。 これが安重根義士とはどんな人物かを知る きっかけとなり、安重根義士を本格的に研究するようになったのは、 1989年に韓国を訪問して韓国独立記念館・ 安春生館長(安重根の 5親等の甥)と安重根義士崇慕会・尹致暎会長から贈られた '安重根義士自叙伝'と '民族の精神−安重根義士写真集'という書物を読んで受けた感触であった、としながら、特に '安応七の歴史'と '安応七義士公判記'は一字たりとも漏れ無く読んだという。 1909年10月26日、平和と正義に向け、安重根義士のハルピンの銃声が世界を震撼させたにもかかわらず、歳月が流れ、 歴史の裏街道へ消え、さらには多くの中国人が安重根が誰だかも知らないという現実の中において、次々に文献を発表し、 安重根を知らせることに奔走した。1989年5月14日、ハルピン日報(中文版)の '太陽島'文芸欄第28期に '安重根義士、 ハルピン駅で伊藤博文を暗殺'という文を発表、 80年前のハルピン駅で重大な事件が発生し、安重根という偉大な人物が いたことを読者たちに知らせた。 1990年 6月には、ハルピン市政治協商会で編集する内部刊行物 'ハルピン文字資料'(中文版) 第14期に '安重根義士、伊藤博文を暗殺 'という文を発表、ハルピンの政界関係者たちに 安重根義士の生涯と業績を紹介した。 また 1992年 12月、 '安重根義士、伊藤博文を暗殺'という文章を青少年向けに 改編し、 '氷都市熱血報'児童叢書第4冊 '黒土のトンビ'(中文版)に発表して、幅広い青少年に安重根義士の英雄的業績を 紹介した。 それ以外にも、数十回もの多様な講演会と安重根義士関連文の連載を通じて、各界各層の人々に安重根義士の 生涯と業績を紹介することで、安重根義士に対する矜持感を植え付けてくれた。 そして 1990年代初盤に活躍した 安重根研究会、後に設立されたハルピン朝鮮民族芸術館安重根展示室、安重根義挙顕彰表示物設置、ハルピン 兆麟公園安重根記念碑の設置などにも、全て彼の直接・間接的な努力が支えになっていた。 また徐明勲先生は、安重根義士が義挙を行ったハルピンの現場に住んでいるというメリットを積極的に活用し、韓国、 中国、日本、北朝鮮、米国の各種の資料を実証的に検証して来た。 "歴史は真実を土台とする。 誤った叙述の一つ一つが 集まれば、他の歴史になってしまう。 間違いを直し、正しく書かれた歴史を後の世代に残さなければならない"と、各種 の出版物に書かれていた安重根義士義挙に関する誤った記述を明らかにして来た。 こうして明らかにして来た事実が、 これまで 20件ほどに達する。 徐明勲先生は、 “安重根義士と伊藤博文の間の距離について、ある資料は 1m、ある資料は 2m、またある資料には 8歩、5歩、10歩とまちまちだった”とし “ハルピン駅舎の補修前に数十回、安重根義挙の現場を踏査して各種の資料と 状況を総合し、二人の間の距離が 5mであったということを明らかにしたこともある”と語る。 今後は年齢も高く、黄斑性変性症で視力が急速に減退しているため、資料を捜すのが難しい状況で、無理するなという 家族や周辺の反対にもかかわらず、徐明勲先生は、生きている限りは安重根研究を続ける、と強行軍を繰り返している。 2005年 8月、病床にありながらも '安重根義士、ハルピンでの11日'という本を中国語・韓国語で出版した基礎の上に、 2009年安重根義士義挙百周年を迎えるハルピン市最大の贈り物として出版される '中国人の心の中の安重根'(中文版) 歴史資料集を発行するため、この一年、香港、広州、上海、北京、天津、瀋陽、長春などの都市の図書館や資料館を転々と 回り、 100年前の資料を収集整理した。 徐明勲先生によれば、安重根義士義挙の当時、各国のメディアはこれを特大情報と して掲載し、 日本の新聞は伊藤博文という自国の偉大な政治家を追慕する記事を掲載、西洋諸国では 'アジアの偉人'が死に 悲しく残念という内容を報道した。 '大韓毎日申報'、'帝国皇城新聞' など韓国の新聞は安重根義士のハルピン義挙と 旅順公判を公正に報道したが、日帝の弾圧の下に記事を大々的に扱うことが出来ず、中国の進歩的なメディアはこれを 特筆大書した。 特に上海で中国の言論活動家・于右任(後に国民党政府検察院長を歴任)が編集する '民吁日報'は、 1909年 10月 3日に創刊されたが、安重根義士義挙翌日の 10月 27日から 11月19日まで 54編の文章を掲載し、安重根義士 の業績を高く評価した。 1909年 11月19日、中国政府に対する日帝の圧力により停刊とされたが、私たちに重要な資料を 残してくれた。 専門家たちは '中国人の心の中の安重根'という書物に収録されている文献は、史上初めて発表される 学術資料であり、重要な歴史的意義があると評価している。 "安重根義士に対する周恩来総理ら中国の著名人たちの評価でも見られるように、安重根の義挙は重要な歴史的意義を 持っています。これを百回、千回強調しても、強調しすぎにはならないと思います。 歴史的な現場−ハルピンにいる 私たちとしては、当然先頭に立って安重根義士を広く知らせなければならないでしょう。 しかし現在、若者達の関心が 薄いのが残念です。 もし若い学者たちや知識人たちが、安重根の研究をするのなら、全面的に支援するつもりです。" 徐明勲先生が残した切実な願いだ。/安重根義挙百周年記念行事特別取材チーム (黒龍江新聞 2009年4月16日)
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