![]() |
中国の朝鮮族に関するニュースポータルサイト | Search by Google: | ||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||
|
||||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||
![]() |
![]() [教育] 延吉の文化財保護、苦境に 少なからぬ文化財が消失、深刻な経費不足が保護の障害に 延吉は北京や西安のように歴史が長い古代からの都市ではない。 延吉はまた、洛陽や開封のように多種多様な 文化財を持つ文化遺跡都市でもない。 しかし延吉はやや小さ目の辺境都市ながらもそれなりの歴史と文化遺跡を 持っており、布爾哈通河と延吉河両岸の丘を主軸として自らの歴史文化を続けて来た。 延吉市の文化史跡地 145ヶ所、大部分は既に消失 2008年 10月、延辺連合考古発掘チームは、延吉市小営鎮長東村で2ヶ所の原始社会遺跡地を発見したが、二つの 遺跡地で半トンネル式住居遺跡の跡 11ヶ所を掘り出し、大量の陶器、石器が出土した。 推算によれば、 ここに住んでいた原始住民たちは穢貊と沃沮に属し、今から 3000年ないし 2500年前ほどになるもので、 考古学的に青銅器時代と鉄器時代に属するものと判断された。 住居遺跡地のうち最大の1ヶ所は長さが 7.2m、幅が 3.3m、深さが 0.6mで、今まで延吉で発見された中では比較的 完全な青銅器時代の遺跡地と判断されている。 それ以外にも、延吉にはその後多くの王朝を経て、残っていた遺跡地が数多く存在していることがわかっている。 全国的な第3回文化財普遍調査事業の補助により、延吉市文物管理所は去年 5月 15日から延吉市区域内の文化史跡地と 文化財保護単位について包括的な普遍調査を実施し、調査によれば延吉市の古代文化史跡地は多くは布爾哈通河 と延吉河流域の 2級、3級台地を中心に分布していることが判っている。 延吉市文物管理所・高所長は “延吉市には現在、文化史跡地が 145ヶ所あり、その中では王隅溝抗日遊撃根拠地 と延吉辺務督弁公署(道尹楼)を含め、吉林省級文化財保護単位が2ヶ所、州級文化財保護単位が 6ヶ所(2ヶ所は消失 して現在 4ヶ所だけ残る)、市級文化財保護単位が 4ヶ所あり、少なからぬ文化財が既に消失した状態だ"という。 文化史跡地、清代の文化史跡地が最多 関係資料によると、今から約 2〜4万年前、延吉には旧石器時代末期の人類と共生した動物が生存したが、 1981年、 長白郷新農村煙瓦工場でマンモスの臼歯と手足骨の化石が発見されたという。 これにより、考古学者たちは延吉地域及び その付近に旧石器時代末期の人類が居住していたと判断したのだ。 今から 4500年前の旧石器時期末期の遺跡も延吉で合計5ヶ所が発見されたが、延吉市興安郷東興2隊西大墩台遺跡、 河龍村遺跡、東風村及び延辺建材工場の付近で発見された文化財などがある。 青銅器時期 (3000年前) の遺跡には延吉市小営子仕分け君と河龍村4隊原始古墳群などがあり、鉄器時代の遺跡地としては、 民主村遺跡地、白石溝遺跡地、大墩台遺跡地、長東遺跡地、河龍2隊遺跡地、小墩台遺跡地などがあり、 当時、沃沮人が鉄器時代の延辺の主要居住民であったと推定されている。 延辺には渤海時代(698年〜926年) の遺跡地が相当に多い。現有の遺跡地としては、南渓 4隊、1隊遺跡地、台岩、 錦城遺跡地、帽児山山頂遺跡地、龍河南山遺跡地、仁坪遺跡地、 新豊5隊遺跡地などがあり、古城としては、台岩古城、 北大古城、河龍古城などがあり、墓としては、南渓古墳、河龍古墳群、発展古墳などがある。 延吉市の遼・金時代の遺跡地は錦城2隊建築遺跡地、理化遺跡地、石人溝古墳群などがあり、明朝時代の遺跡地はまだ 発見されていないという。 清朝時代の文化財が比較的多く、辺務督弁公署、師恩記念碑などがある。 少なからぬ文化財が消失…至急の保護管理が必要 延吉市の文化財遺跡地が 145ヶ所にも及ぶとはいえ、これは 1980年代の第2回文化財普遍調査における数字であり、 今日、少なからぬ文化財は消失したり人為的に破壊されたり、都市拡張あるいは大規模建設によって消えてしまった状況だという。 延吉市文物管理所・高ヨンス所長は元々 6ヶ所あった州級重点保護文化財も二つが消失してしまい、現在は 4ヶ所 だけ残っているとして、少なからぬ文化史跡地が一つ二つ消えて行くことについて、大変胸を痛めているという。 一例として、州級重点文化財保護単位であった満州国間島成功恕遺跡地(旧州政府庁舎)と煙集満州自衛団部武器奪取 遺跡地だった煙集郷利民村などは既に消失した状況で、市級重点保護単位だった日本関東軍間島憲兵隊本部遺跡地と 東北人民自治軍間島(延吉)分区司令部遺跡地も消えて久しいという。 高ヨンス所長によれば、都会化の進展によって都市が周辺農村地域に拡張している中、文化財保護部門との衝突が生じて 調整がうまく出来ていないという。 “都市開発やその他の建設、計画で文物管理部門との調節がうまく出来ず、 批准もなく進められる開発が問題になっている”として、残念がる。 “文物管理所といえば、歴史文化財を保護して人為的な破壊や意識的、無意識的な破壊を阻むことに目的があり、 やはり重要な執行単位には違いない”としながら、これまで文物管理所は “ハード、ソフト施設の不足が深刻で、 条件があまりにも難しい状況なので、徒歩で、あるいは大衆交通を利用しつつ、この何年間か、延吉市の文化財発掘、 整理事業のために努力して来た”と明らかにした。 延吉公園内の小墩台遺跡地周辺の街並を撤去した事例もある。去年、全国文化財普遍調査によって延吉市文化財 整理事業を推進もした。しかし成果に先立ち、これらは大きな障害物に塞がれて、進展していないという。 文化財の 保護発掘事業に最も必要な経費の不足が最大の難題として表面化しているのだ。 深刻な経費不足、文化財保護事業の最大の障害物 高ヨンス所長は “文化財の発掘、保護事業を推進するにおいて、経費不足が最大の難題”と言いながら “文化財の整理、 実施に必須な映像、図片資料を作成しようとしても、該当の設備がなく、関連数値を整理して保存しようとしても現代の事務 において最も普遍的といえるコンピューターすらなく、関連業務関係者たちの講習を行おうとしても、経費不足のため、 思案の域を出られない”と心中の苦情を打ち明けた。 “文化財保護のための宣伝もうまく展開して行くのは難しく、巷間にある文化財を収集しようとしても、文化財の ボランティア保護関係者を招こうとしても、彼らに講習を受けさせようと思っても、該当の文化財に警告標識を立てようとしても、 経費不足で諦めるしかない”とし “こんな状況で破損された文化財を復旧するのは、さらに大変だ”と明らかにした。 彼は当面、延吉市の文化財の実態と係わるパンフレットとしては、第2回全国文化財普遍調査によって 14年前の 1985年に作られた “延吉市文物誌”が精一杯のところで、現在、第3回全国文化財普遍調査が実施中なのに、 延吉市文化財普遍調査実施方案、機構、メンバーなどが既に構成された状態なのに、それを推進するのに困難が多いという。 また “文化財保護事業を経済社会発展計画に編入させて都市郷鎮の建設計画に編入させ、財政予算に編入させ、 体制改革に編入させ、各指導関係者の責任制に編入させる ‘五つの編入’さえ保障されれば、延吉市の 文化財保護事業は新しい転機を迎えることになるだろう”と主張した。 文化史跡地は無視出来ない重要な観光資源 経済社会の発展と社会の進歩と共に、文化財は徐々に一つの地域文化産業を発展させることができる立派な舞台であり、 重要な観光資源であり、観光文化産業発展の礎石として位置づけられる。 たとえ延吉市が歴史的な古代都市では ないとしても、それなりの文化財及び遺跡地を持っているという点で、また王隅溝抗日根拠地、朴洛権烈士墓碑、 三道湾抗日根拠地など革命史の伝統を持っている地域という点で、私たちの文化財及び遺跡地を切実に保護して 合理的に開発し、これを1ヶ所1ヶ所の観光風景ポイントとして活用することは、歴史文化を継承、発揚して延吉市 の知名度を高め、文化産業の新しいブランドを新たにつくる上で重要な役割を果たすものである。 相対的に観光風景の見所が少ない延吉市としては、このような文化史跡地を十分に発掘、保護、開発することは、 伝統民俗観光に歴史文化観光を注入し、新しい観光の成長ポイントを作る上で重要な措置と見られる。 文化財は再生が不可能な資源であり、一度消失すれば永遠にもとの姿を見ることが出来ない。 したがって文化財を しっかりと掘り出して整理し、保存すると同時に、これをしっかりと包装して一つ一つの遺跡地を一つ一つの観光風景 ポイントとして作ることは、今の世代の人々に残された重要な使命でもある。 考えようによっては、今日の真の保護が、 明日の世代において、一つの美談として残されるかも知れない。 文化財とは、昔の記憶や思い出だけではない。 この社会が通り過ぎた足跡であり、時代が変わりながら生産される深い 内包を持った文化であり、子孫万代に残されるべき無価至宝の遺産といえべきものである。 (延辺日報 チョン・ウィナム、チョン・ユンギル記者 2009年2月10日)
|