![]() |
中国の朝鮮族に関するニュースポータルサイト | Search by Google: | ||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||
|
||||||||||||||||
![]() |
||||||||||||||||
![]() |
![]() [特集] 民族ブランド《紅旗》車の功労者・崔洪松 崔洪松、彼は朝鮮族の運転手として毛主席を乗せてハルピン市を回ったことがある。中国で初めて 《紅旗》車 の生産に参加し、自動車業界で名前を上げ、特別な技術力で国務院の信任を得て中南海の特殊人物になった。 長春第一自動車グループ乗用車工場副工場長を務めた後、離職休養した崔洪松は、 84歳の高齢ではあるが、 歩んで来た過去を筋道立てて漏れ無く興味深く話してくれた。 車との縁 崔洪松は 1925年 3月 12日に汪清県羅子溝で生まれた。 16歳の頃、彼は全という名字の朝鮮人運転手の助手 として働きつつ運転技術を身につけ、車の修理技術を学んだ。 1945年、崔洪松は革命に参加した兄を尋ねて図們衛守司令部へ行ったが、当時司令官だった饒斌の車を運転する ことになった。 1947年、饒斌が松江省(今の黒龍江省) 副省長兼ハルピン市長として赴任し、崔洪松も一緒に行った。 その翌年、崔洪松は中国共産党員になった。 1951年、朝鮮戦争に参加、自動車技術参謀として活躍し、1958年に済南軍区某部隊で勤務し、第一自動車工場総組立 作業場・紅旗乗用車開発チームに配置された。 その時から崔洪松は延々 38年間 《紅旗》と心を通わせ、 《紅旗》の音だけを聞いてもどの部分に故障があるのか をすぐに知ることが出来た。 毛主席に仕えた幸せの日々 崔洪松が 25歳になった年、饒斌の運転手である彼は、饒斌から 《明日は私は車を使わないから、全面的に検査した 後、午前 8時に省党委賓館で待機しているように》という命令を受けた。 1950年 2月 27日午後、崔洪松は命令通りに駅貴賓室の門前に車を止めて待機していた。 当時、ハルピン市は治安 状況が良くなかったため、前もって誰を乗せることになるのかは全く知ることが出来なかった。午後 2時頃、誰かが 後部座席に座った。 崔洪松がふと見ると、毛主席が車に乗っているではないか! 崔洪松の胸は突然激しく高鳴った。彼はハンドルをしっかり握ったまま固まっており、バックミラーでも敢えて 毛主席の顔を眺めることも出来なかった。 毛主席の横には饒斌が座り、助手席には当時、毛主席と同行していた 王東興が座った。毛主席はソ連訪問を終えてハルピンを視察しようと、しばらくとどまることになったのだった。 崔洪松は 《気持ちを奮い立たせて車を走らせた》とし 《あの時のことが、今でも鮮やかに胸中に脹れ上がる》と語る。 《私はどんな精神状態で賓館の門前まで行ったのか… 賓館に入る区間に傾いた場所があったが、しかもその時は 真冬だったので道が滑りやすかったのです。普段、饒斌を乗せる時にその場所を通ると、車が少し滑って動いたのが、 毛主席を乗せたその日に限って妙なことに少しも揺れなかったのです。賓館の門前に到着すると、誰か後から私の肩を 軽く叩くではありませんか。後を振り返ると、毛主席が微笑みながら優しく慈愛深い眼差しで私を見て 《有難う、有難う、ご苦労様、ご苦労様》と言いながら私の手を取って下さったのです。私の顔は真っ赤になっていました。 毛主席が車から降りるまで、私は身動きせず運転席で石のようにじっとしていました。少し経ってから、周辺にいた 関係者たちがドカドカと私の車に乗りこんで来て、握手してくれました。毛主席が座った席に座って見て、毛主席が 取って下さった私の手を握ろうと。 どんなに幸せな気持ちだったことか…》 崔老人は 《翌日、私は毛主席を乗せてハルピン市の工場を回りました。 その後、崔洪松という名前がハルピン市に 広く拡がり、特に朝鮮族団体では集まりがあるたびに私の話をするようになったので、誇らしい気持ちになりました》 と言いながら、昔の幸せに再び浸っている様子だった。 《紅旗》車生産の技術幹部に 1958年、崔洪松が第一自動車工場へ行った時、 《解放》ブランドのトラックを作ることを学んだ人はいたが、 乗用車を作ったことのある人は一人もいなかった。 乗用車製造チームといっても、ただのチームに過ぎず、 作業場所も総組立場の片隅をガラスで仕切っただけの小さな部屋だった。 ほとんど何の設備もなく、 生産ラインもなかった。 ただ何人かの技能工たちが集まっただけで、世界級の高級乗用車を作ろうとしていたのだ。 《紅旗》車の生産成功は、全面的に精神の傑作であり、民族の奇蹟といえる。 崔洪松は長い間乗用車を走らせており、部隊でも自動車技術参謀をやっていたため、自然に乗用車チームの技術幹部になった。 乗用車の生産条件が備わっていない状況で、崔洪松と彼の仲間たちは高い政治的責任と毛主席と国家のために 乗用車を作らなければならないという一念で、日夜で働いた。 毎晩 12時、夜明け 1時まで働き、食事を抜き ながらも、疲れも空腹も感じなかった。 1959年春、1958年に作った見本車の基礎の上に、座席が二列の 《紅旗 72型》 高級乗用車が奇跡的に誕生、 半年も経たぬうちに 10台の 《紅旗 72型》 乗用車を生産して、国慶節の祝典に送った。 5年後、 さらに30台の 《紅旗 72型》 乗用車が北京に進出、建国 15周年の慶祝行事に参加した。 その後、 国務院では 《紅旗》車を迎賓車と決定し、旧ソ連製の吉斯、吉爾と取り替えた。 1965年、座席が3列の 《紅旗 770型》 高級乗用車が崔洪松と彼の仲間の手で作られた。 当時、中共中央政治局委員で 北京市長であった彭真が 《私が試して見て、宣伝してあげましよう》 といって車を後にした。彭真の運転手によれば、 彭真はどこへ行くにも 《770型》 車に乗り、行く先々で多くの人々が集まって来て、彼らはこれを民族の誇りと考えたという。 1966年、国では 《紅旗》の防弾車両を作る任務を第一自動車工場に命じた。 国では毛主席、劉少奇、周恩来、 朱徳に一日も早く防弾車両を配置しようと考えていた。この事業は極秘裏に進められ、参加した関係者たちに対する 政治審査も非常に厳しいものだった。 崔洪松は当然、このチームの技術幹部に加えられた。 1969年 《5・ 1》前夜、初の紅旗防弾車両が試験製作に成功した。 車の形は座席3列の紅旗車と同じもので、特殊 鋼鉄板と厚いガラスを採用したので防弾力が強かった。 特殊製造したタイヤは、弾丸が貫通しても空気が漏れない 特殊な仕組みになっていた。 崔洪松さんは 《聞いた話によれば、当時世界中のあらゆる防弾車両の中で、《紅旗》防弾車両り安全システムが 最も優れていたらしい。その後、林彪がこの防弾車両に乗って逃亡する時、警備員の撃った弾が風除けのガラスに 当たったが、かすかな傷跡が残っただけだったそうだ》と誇ってみせた。 1972年、党と国家の指導者たちのうち、 毛主席が一番最後に 《紅旗》防弾車両に乗り、 《紅旗》乗用車の地位が確定した。 (吉林新聞 2009年1月10日)
|