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[文化] 'アリラン峠'の亭岩山城



亭岩山城へ行く道は、思ったよりずっと遠かった。 延吉から図們を経て涼水鎮まで約 50km、続いて涼水鎮から山城麓 の亭岩村まで さらに10kmほど入って行かなければならなかった。 村の北にある東屋のような丸い岩がすぐ手に触れる ように近くに見えた。 聞いた話では、亭岩山の名前はそのために付けられたらしく、亭岩村もこの亭岩山の由来から 名付けられたという。山城を目の前にして、やや躊躇せざるを得なかった。涼水鎮に住んでいる同窓生が一人で山へ 行こうとする筆者を口やかましく止めたのだ。 “一人で行くなどとんでもない。城壁どころか山を登る道も判らない” 彼の話 によれば、亭岩山は山が険しく、谷が深く、初心者はややもすれば城郭の一部すらも到達出来ないという。 同窓生は後で、 現地の住人で自分の次兄・李ドクホ(59歳)さんを案内員として当ててくれた。

私たちの乗ったタクシーは村の東の大道を辿って、そのまま山奥へと入って行った。 記載によれば、この道は琿春から 汪清地域へと通じる天然の古道だという。古道は 80年代まででもデコボコした車道だったというが、 今は砂利を敷いた 国防道路になっている。村から 1km ほど離れただろうか、亭岩山は茂みが鬱蒼とした雰囲気になってつかつかと目の前に 迫っている。 車から降りると、李ドクホ氏は亭子岩へと上がる方向ではない北の谷へ通じる道に入る。 彼によれば、亭子岩は 海抜が 400mほどに過ぎないが、迂回して登るのはさほど大変ではないという。 以前、彼も亭子岩向きの道を選択して山を 登ったところ、脂汗をさんざん流したという。本当に案内者がいなかったら、午後は始終大変な目に遭うところだった。

“お年寄りたちがおっしゃるには、戦争が終わった日、日本軍がこの山城に入って来て陣を張ったそうです。汪清の方から 進撃して来るソ連軍を阻むつもりだったようです。” 李ドクホ氏が少しづつ口を開く。 その時、沢山の日本軍用車が亭岩山城 へ進入したという。 亭岩山城にどんな物がどれだけ入って行ったかは、今も謎として残っている。 そうでもなくても近代の 日本軍までこの山城を利用したのであるから、天恵の軍事要衝地であることは間違いない。 谷に入ってからいくばくもなく、 山が急に下り、高い楢の森がぎっしりと深くなる。 子供の頭ほどの岩が茂みの間に大量に見えた。 谷間に沿って流れていた せせらぎは、ここへ来て岩の間へ消えていた。察するに、城郭に利用した資材は、山に豊富にあるようだった。

ふと、李ドクホ氏は歩みを止め、楢の木の下の部分を足でパンと蹴った。 “これは山のケモノが横になっていた場所ですね” 確かに、 楢の木の下に積もった厚ぼったい落ち葉の山には、やや凹んでいる所があった。昔の亭岩村にはオオカミが町の入口まで うろついていたという。 今も亭岩山には相変らずイノシシやノロ鹿が走り回っているという。そんな話を聞いたら、どうした事か 山を登ろうとして汗だくになっていた我が身にヒヤリとしたものが走る。

500mほど上ると、いよいよ中腹に石で積んだ山城の姿がニョッキリと現われた。 千年もの苔で覆われた城郭の上に、木の間を 通って日の光が細く射していた。 私たちは茂みをくぐってやっとのことで山城の一角に近寄った。 風の音にさらさら揺れる木の枝 が歓迎するかのように自分勝手に踊っていた。 どこかから唸り声を上げながら飛び出す武士の矛と盾が閃いているかのようだ。 率直なところ、千年の山城には、一本の木、一切れの石にも魂がこもっているかのように見えた。

亭子岩にはまた面白いエピソードがある。 この岩は東西二つの峰で成り立っているが、 二つの峰の間にはいつ誰がかけたのかは 分からないが、太い木が渡された橋があり、お互いに往来がとても易しかったという。ところが今は、この橋が消えて、出入りする のがまるで牽牛と織女の再会のように大変難しいという。 峰の高さが数十mにもなり、また峰の間の距離が三、四メートルにもなる から、いつの間にか二つの峰を出入りするというのは伝説みたいな話になってしまったのだ。 亭岩山城の城郭には見晴らし台、 兵営敷地、門、通路と泉水があり、風を避けることができる盆地がある。亭岩山城はまさに難攻不落の要塞といえるものだった。 亭岩村は 500人余りの人が暮している比較的大きな村で、1938年、日帝時代に集団移住した忠清北道の人々によって作られたという。 亭岩村には忠清道の訛りと忠清道ウタリ農楽などが今まで保存されていた。 村の老人たちは小正月のような節日には、 集いの場所に三々五々集まり、昔の “清州アリラン”を歌うという。

“舅なんか死んでしまえば良いと思っていたけど、来なくなるとまた思い出すね。

アリラン、アリラン、アラリヨ アリラン峠へ私を渡して下さい。

姑なんか死んでしまえば良いと思っていたけど、麦を挽く度にまた思い出すね。

アリラン、アリラン、アラリヨ アリラン峠へ私を渡して下さい…”

“清州アリラン”は中国で動乱が起きた “文化大革命”の時期、村から一時的に影をひそめたという。 しかし辛い アリラン峠を越えながら、故郷に対する郷愁はそんなに簡単には忘れることが出来なかったようだ。 いつの間にか 亭子岩は夕方の暗闇の中にますます遠くなっていた。 車窓の外のどこかで “清州アリラン”の悲しい歌の調子が 聞こえるようで、無性に心が落ち込んだ。

(黒龍江新聞 キム・ホリム記者 2008年7月4日)
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