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[社会] 新中国の初代日本語・朝鮮語通訳−崔彬

崔彬先生は豊かな経験を持っている著名な日本語・朝鮮語通訳員で、中華人民共和国が建国される頃に 既に新華通信社本社で通訳としての生活を始めた。 彼は 1949年 10月 1日、毛沢東主席が天安門城楼で中華人民共和国建国を 宣布するわずか 5分前に毛主席の初の朝鮮語通訳を引き受けた著名人だ。

その後朝鮮戦争が勃発すると彼は、中外記者団のメンバーとして北朝鮮の戦線に出てから停戦談判会議場の通訳として残り、 3年間活動し、1954年に帰国して外交部で記者の管理責任を引き受けた。筆者は偶然の機会に崔彬先生を知り、彼の家を訪問した ことがあった。 崔彬先生の家の書斎の壁にかかっている額に周恩来総理の通訳をしている崔彬先生の写真を見ながらますます 興味を覚え、彼の経歴を問い始めた。今年八十を過ぎたが、太極拳を 30年も続けて来たおかげか、彼はまだ精力旺盛だったし 彫刻芸術に特別な興味と才能を持っていた。 彼の書斎には石の彫刻、切り株彫刻、海綿とプラスチック彫刻の芸術品で満ち溢れていた。

その中でも周恩来総理に対する一途な尊敬の心を込めて彫刻した彫像の写真が一番人気を集めた。開国祭典開始の 5分前 の毛沢東主席の通訳に対し、記者が ‘先生はいつから通訳の活動をはじめ、通訳活動に携わって来て一番忘れられない事は 何でしたか’と問うと、彼はしばらく考え込んでから次のように言った。‘私は 1949年から新華通信社新聞局で通訳の活動を 始めました。 1949年 9月、中華人民共和国建国の準備で政治交渉会の準備会議が開幕してから閉幕されるまで、私は ずっと会議の取材に参加しました。 私にとって最も忘れられない事は、 1949年 10月 1日、開国祭典が開かれた日、天安門城楼 の左側から城楼を上って来た毛沢東主席のために朝鮮語の通訳を引き受けたことです。 率直に言ってあまりにも短い 一言二言の言葉だったので、通訳をしたと言えるかどうかはちょっと怪しいのですが。

その日、私が朝鮮代表団のメンバーとともに天安門城楼の左側に立っていると、天安門城楼へ上って来た毛沢東主席が 朝鮮のお客たちを見て ‘どこからいらっしゃった方々ですか?’と聞きました。それで私が ‘朝鮮からいらっしゃった方々です’と 申し上げると、毛沢東同志は ‘歓迎します、歓迎します!’とおっしゃって、早々と城楼の中央へ出て行かれたのでした。その時 はちょうど午後 2:55分、5分後の定刻 3時に毛沢東主席は天安門城楼の真ん中に立って「中華人民共和国中央人民政府が 創立された」と全世界に高らかに宣布しました。

やがて中華人民共和国の五星紅旗が徐々に国旗掲揚台で掲揚されました。 本当に歴史的な瞬間でした。今も、あの時あの 瞬間を思えば胸が一杯になります。吉林省汪清県百草溝の山里で生まれた私が、当時 26歳にしかならなかった私が、 中華人民共和国が建国されるわずか 5分前に偉大な首領・毛沢東主席の通訳をしたのだということと、中華人民共和国の 建国を全世界に高らかに宣布する毛主席の声を天安門城楼から、 まさに彼の身近で聞いたのだと思うと、本当に感慨無量 です。これは私の通訳人生で永遠に忘れることができない、美しい歴史的追憶として残っています。’朱徳委員長と周恩来総理 の通訳を引き受けて‘50年代の、ある国慶節の日の夜だと思います。朱徳委員長が天安門城楼で朝鮮中央通信社の社長と 会見する時、私は彼の通訳を引き受けたことがあります。

その日私たちは、天安門城楼にズラリと並んだ椅子に座って広場で進行される慶祝行事を見物していました。 驚くべきことに、 その時訪問していた朝鮮中央通信社の社長こそが、まさに私が朝鮮停戦談判代表団通訳だった時に朝鮮人民軍新聞社記者と して私と一緒に働いたことがあった昔馴染みだったのです。その日、長年の戦友と北京で再会出来て、本当に嬉しかったです。’  記者が周恩来総理とともに撮った彼の写真を示して、この写真はいつ撮ったものかと聞くと、彼は次のように言った。"この写真は 1959年 9月末、 国慶節前夜に周恩来総理の招請によって中華人民共和国国慶節行事に参加しに来た日中友好訪問団の 松村謙三氏と周恩来総理が密雲貯水池で話を交わしている場面です。 私はその時、日本語通訳を引き受けました。 私は 常にこの写真を見ながら敬愛する周恩来総理を、そしてまた若い頃の忘れ得ない美しい日々を手探りして見るのです。 "そのように口火を切った崔彬先生は、その時の情景を映画フィルムを回すようによどみなく振り返って見せた。

‘松村謙三氏は日中友好訪問団の代表で、日中親善のために多くの事をした日本の自由民主党の元老でした。 中国を訪問した 当時、彼は既に 70歳過ぎでした。 日本では、このように大きな代表団の中国訪問に対して、非常に大きな関心を払っていました。 ですから13名の随行記者が付いて来ましたよ。 あの頃までは、日本の代表団はどこへなりとも好きなようには行けない状況だったが、 周恩来総理は松村氏に ‘あなたが行きたい所は全て行けるようにして上げるから、おっしゃって下さい’と言いました。 松村氏は、 自分は中国の三国志について興味を持っているので、三国志の戦跡地を踏査したいと言いました。 周恩来総理は廖承志に彼を 案内しなさいと命じました。

しかし万事がに忙殺されていた廖承志が一緒に同行することが出来ず、彼の夫人・経普椿女史がお供することになりました。 経普椿女史は一ヶ月間、代表団を案内しながら北京、西安、延安、重慶、成都、武漢、上海、桂林、広州と昆明を回りました。 松村氏は中国の文化について非常に詳しく知っていました。 ある日、船に乗って重慶を離れ、長江三峡を下る際、百済城を 通りながら彼が李白の詩一首を日本語で上手に詠ずるのでした。 すると中国文化について無知な若い日本の記者たちは、 彼にどの詩人の詩なのかと聞きながら、ゆっくりもう一度詠じてくれといって頼んでいました。

周恩来総理は 6ヶ国語を習得した凄い方でした。ある時、私が松村氏の一行と話を交わしていると、周恩来総理が後から 出て来て ‘こんにちは!’と日本語で挨拶しました。 すると日本の記者たちは大喜びで周恩来総理に対する取材を始めました。 周恩来総理は自分は6ヶ国の言葉が話せるので、 6ヶ国の食堂へ行ってウェイターとして働けば似合うと思うとおっしゃって、 豪快にお笑いになるのでした。

朝鮮停戦談判会議場の通訳として 3年間、北朝鮮で

中華人民共和国が建国されてから間もなく、朝鮮戦争が勃発しました。 米軍がUNの 16ヶ国を動員して仁川に上陸すると、 朝鮮戦争は急変し、戦争の炎がすぐに鴨緑江近辺まで及ぶようになりました。

1950年 10月 25日、中国人民義勇軍が参戦して朝鮮人民軍と北朝鮮の人民たちとともに共同の敵に対し、致命的な打撃を 加えました。 中国人民義勇軍と朝鮮人民軍の将兵たちは足の指の爪まで武装した国連軍を再び 38線以南まで追い出しました。 1951年 7月、中国では二名のイギリス人記者を含め、人民日報、光明日報、新民報、大公報などの新聞記者たちで中外記者団を 構成し、朝鮮停戦談判の場所に出て取材するようにしました。

その時私は、記者団無線台の責任を負っていました。ところで記者団宿所が二回も米軍飛行機により爆撃され、イギリス人記者を 含む記者団も撤収することになりました。 私は停戦談判場所である開城・板門店に残り、停戦談判会議場の通訳を引き受けること になりました。 熾烈を極めた朝鮮戦争の期間に、外国人記者たちとともに取材に通いながら、何回も死の峠を越えそうになりました。 夜闇に紛れて現場まで行かなければならず、電気を灯せば米軍飛行機に爆撃されるので、そのまま闇をかきわけながら進まなければ ならなかったのです。 そうするうちに、ある日、自動車が崖に落ちたりもしました。

朝鮮戦争が終わった後、私は帰国しました。 北朝鮮で過ごした 3年間も私の生涯で永遠に忘れることができない日々です。 今も当時、北朝鮮の開城・板門店で一緒に働いた友人たちは、毎年集まりを持って楽しく過ごした昔の日々を回想したりします。 次の年にもぜひまた会おうと固く約束するけれども、既に何人かの友人達はあの世の人になりました。’ここまで言って彼は右手 でしっとり濡れた目頭を拭いたのだった。‘私は 1954年 5月に帰国し、外交部に配置されました。 当時、私は外国記者管理事業 の責任を負っていました。1964年、ソ連のコスイギン首相がベトナムを訪問して帰国する途中、北京にしばらくとどまったのですが、 周恩来総理が空港に出て飛行機昇降台のそばでコスイギン首相と握手して別れました。 これが私が一番最後に見た周恩来総理の姿でした。’

崔彬先生は、このように華麗で誇らしい経歴を持っている方だった。 しかし意外にも、謙遜な彼は今まで自分は過去のことについて 他の人たちに話そうと思わなかったし、甚だしくは自分の子どもたちにもこんな話をしたことがないという。 晩年をどのように過ごして いるのかと問うと、崔彬先生は豪快に笑いながら、自分は彫刻芸術をとても楽しんでおり、石の彫刻や切り株、海綿やプラスチックの 彫刻に大きな興味を持っていると語った。 それで毎日多くの時間を彫刻に割くという。インタビューが終わって彼の家を出る時、 彼は自分が手ずから真心を込めて作った周恩来総理の彫刻を記者の手に渡してくれた。切々たる心を込めて作ったからか、 その彫刻はあまりにも立派に見えた。

(黒龍江新聞 2008年2月6日)
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