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[社会] 延辺訛りを先導し守る放送人になりたい

延辺TV放送局首席アナウンサー金光浩さん



延辺訛りは濁っていて硬いと言う人もいるが、放送用語として生まれ変わった延辺訛りは、耳当りが良く、香ばしい。 延辺テレビ放送局で 《延辺ニュース》 《衛星TVニュース》 《ニュース話題》 《愛へ行く道》など多くのプログラムを視聴しながら、 今更ながらに私たちの延辺訛りもやはり美しく表現することができるものだと考えさせるアナウンサーがいる。 彼こそが 延辺TV放送局首席アナウンサー金光浩(37歳)さんだ。

人情型の粋な外貌に似合わず、金光浩アナウンサーは親切で謙虚なほほ笑みにて記者を迎えてくれた。

高校卒業の後、故郷である和龍市で親を手伝って 2年間農業をした金光浩は、偶然に和龍詩テレビ放送局でアナウンサーを 募集するという放送を聞いた。 若者に描けない夢などなく、アナウンサーに挑戦して見たいという光浩を見て、父親が言った。 《アナウンサーは誰でもなれるものではない!無駄な夢など見ずに農業をしっかりやりなさい》

しかし一度決めたことは簡単には諦めない息子を誰よりもよく知っている母親は、密かに車代と登録費を渡して、挑戦して 見なさいと背中を押してくれた。

200人余りの挑戦者が集った中、金光浩は物静かな心で朗読とともにカメラテストも終えた。 しかし誰も予想だにしなかった。 その試みが金光浩の人生を変える決定的なターニングポイントになることを…. 家に帰って来て、もしかしたらと期待していた ある日、配達部のおじさんが嬉しい知らせを持って来てくれた。 合格だそうだ。 これにより光浩は大いなる夢を抱いてアナウンサー の道に第一歩を踏み入れた。

しかしアナウンサーの道は思ったほどには華麗ではなかった。 発音法と言語の高低長短などの問題が光浩には一つの巨大な 障害物になった。 先輩たちの失望の目つきと、あんな人がアナウンサーになれるものかという視聴者たちの酷評にも光浩は夢を捨てなかった。

《このまま私が挫折してはいけない。人が努力もせずに中途で退くというのは、最初からやりもしない方がましだったことになる。 最後まで挑戦しよう!》

光浩は鏡に向かって何度も練習した。先輩アナウンサーたちの放送を漏れなく録画してから、口の形、発音と姿勢まで夜遅くまで 模倣・練習しながら、血のにじむような努力を続けたおかげで、光浩は急速に進歩をみせた。

日増しに充実して行く彼の放送の実力は、延辺テレビ放送局・薛サンスンアナウンサーの注意を引き、遂に夢にまで見た延辺 テレビ放送局で夢を育てて行くことができる機会をつかんだ。

2001年 5月から 9月までの実習期間、すべての先輩たちの録画は一度も漏れ無く横で見守り、一人で隅で単独ニュースを進行 したり、有名なアナウンサー薛サンスン先輩と徐バンフン先輩など有名な人々の後について彼らの秘訣を伝授してもらったりした。 韓国ニュースを見ながら韓国のアナウンサーたちの放送スタイルを真似ったりもした。

6ヶ月の後、ついに初めて 《延辺ニュース》の進行を引き受けた金光浩はその間の磨き上げた実力を余すところ無く発揮して、 始めから終わりまで円満に終え、多くの人々からの賞賛を受けた。 延辺ニュースを引き受け、進行するようになってから間もなく、 実力派だけが担当できるという 《国内外ニュース》を進行する大きな栄誉まで受けることになり、こうして彼のアナウンサーの夢も いつのまにか現実になって行き、誰もが認める最高のアナウンサーの座にまで駆け上った。

しかし彼はいつもどこか 2%の不足を感じるという。 彼のこの 2%の不足感を視聴者たちが鋭く覚ませてくれた。 つまり、いつも コンプレックスを感じていた四角い顎が彼のイメージを硬くぎこちなくしていたのだ。そこで彼は上層部に請願して、上級指導者ちの 高い支援と配慮の下、四角顎の矯正をした。手術刀を取る整形外科の医者たちも万一にも手術に失敗すれば、言語対話も大変な ほどに悪い後遺症が生ずることもあり得ると勧告した。 しかし彼は視聴者たちに聞く楽しさに見る楽しみまで加えてあげたいという 一念から、躊躇なく手術台に上がった。 骨を切られる苦痛を経験しながら期待した効果は一応満足、手術20日ぶりに再びニュース に出た。 ニュースが放送されてから放送局に雪花のように舞い込んだ手紙は、一様に 《前より随分と柔らかくなった。 とても印象が よい。 大変な決定をされたようで、感心している》と言う激励と祝いのものだった。 視聴者たちの真摯な心を受けて金光浩は一晩中 涙を流した。延辺テレビ放送局に合流した翌年から金光浩は毎年 《先進放送人》に選ばれ、 2002年、彼が進行する 《延辺ニュース》 が全国放送番組で 3等賞を受け、 2005年には省ラジオテレビ協会で放送1等賞を、 2006年には州テレビ放送局の特殊貢献賞まで 受けた。 彼の栄誉は引き出しの中にずっしりと積まれた栄誉証書の数々が証明してくれる。

《私たちは延辺人です。 私たちは私たちの延辺朝鮮族の固有の言語を活かさなければなりません。》金光浩はアナウンサーの道 に第一歩を踏み入れてから、一時も手から業務学習帳を離したことがないと言う。 彼は固有の延辺訛りと韓国のアナウンサーたち の特有の柔らかさと自然さを活かして、自分だけの独特の放送の魅力を具備した、ぎこちなくもそれでいて硬くもない延辺特有の 個性ある放送ぶりで、多くのお茶の間の視聴者たちに認められる看板アナウンサーになった。

先日2008年度をリードする《首席アナウンサー》の栄誉を受けた金光浩は、アナウンサーを夢見る多くの予備放送志望生たちが 夢を持って絶えず努力すれば、夢は必ずかなうはずだという助言を惜しまなかった。 同時に我が民族の美しい言葉、正しい 言葉を先導し守って行く放送人として位置づけられたいという思いを抱きつつ、金光浩は今日も変わらずカメラの前に乗り出している。

(吉林新聞 2008年1月1日)
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