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[社会] 50万名高麗人の根源地−新韓村


▲新韓村旧跡に建てられた記念碑を訪ねた中国同胞

1999年 8月、韓国・韓民族研究所は 3.1独立宣言 80周年を迎え、ロシア沿海州の朝鮮人たちの独立運動 を称え、在ロシアの高麗人たちを慰めるため、ウラジオストクの旧韓人村に新韓村記念碑を建てた。

"新韓村は世界各地に住んでいる朝鮮人たちにとっては見慣れぬ名前だが、在ロシアの高麗人には忘れること ができない名前として残っている"と、ウラジオストクで会った高麗人・李ベチェスラブ(高麗人:ウラジオストク 高麗人文化自治州会長兼沿海州高麗人文化財団団長)が説明し、 "新韓村にこの記念碑を建てた時、 現地の 'スキンヘッド族'らが記念塔にしばしば悪しき落書きをし、またよく壊すため、このように小さな垣根を 作って守っている"と語った。

現在、この記念碑の周りには垣根がしっかりと作られていて、夜には必ず正門を閉ざして守っているという。

1863年、 13世帯の朝鮮人たちが沿海州南部地域各地に朝鮮(韓)人村落を形成した。 綏芬江が流れる綏芬一帯に 次々と渡って来た朝鮮(韓)人たちにより、朝鮮(韓)人村落が開拓された。 また 1871年度に旧ロシア政府の指導を 受けた韓人たちが韓人集落を形成し、沿海州東南部地域であるウラジオストクにも 1874年度に韓人村開拓里が 形成された。 朝鮮(韓)人は、この初期の韓人村を 1911年に形成された新韓村と区別し、旧開拓里と呼び新韓村 を新開拓里と呼んだ。

西北間島及び沿海州の朝鮮(韓)人社会を背景に建設された新韓村は、抗日民族志士たちの集結の地であり、 ひいては国外独立運動の中枢基地として発展し、朝鮮(韓)民族の心意気が大いに盛り上がった。

しかし 1937年、極東の朝鮮(韓)人の中央アジア強制移住で新韓村が閉鎖されるまで、新韓村での朝鮮(韓)人の 活動は持続的に展開された。新韓村のあるウラジオストクは、朝鮮半島 3.1反日運動以後、上海臨時政府が 樹立される以前、朝鮮独立運動を主導して来た所といえる。日韓併合が迫ると、朝鮮(韓)人のリーダーたちが ここに集まり、朝鮮半島 13道を代表する 十三道義軍を組織し、日韓併合が伝わると新韓村では朝鮮(韓)人の 代表たちが声明会を組織し、 1914年 5月には勧業会を組織、 1914年には朝鮮(韓)人シベリア移住 50周年と 日露戦争 10周年を迎え、大韓光復軍政府を樹立したりもした。

特に新韓村と反日闘争の戦跡地だった龍井は、非常に密接な関係があった。

延辺大学・朴昌c歴史教授は "ウラジオストクを中心にした沿海州は、朝鮮半島と国境が隣接し、琿春市を 通じて簡単に出入りできたので、新韓村と龍井の明東村は民族独立運動に甚大な影響を与えた"と語った。

当時、新韓村では武器の購入が可能だったため、ここは独立運動家たちが武器や弾薬を得ることのできる唯一の場所でもあった。

安重根義士がハルピン駅で伊藤博文を狙撃した時に使ったピストルも、新韓村で購入し、仲間たちと小指を切って 祖国独立のために命をかけると固い決心をした。

また龍井 3.13反日運動以後に起った '15万元奪取事件'も新韓村と密接な関係がある。

1919年 12月 30日、朝鮮銀行会寧支店で日製が吉会線敷設資金 15万元を会寧から龍井間島日本総領事館に送ると いう秘密情報を独立軍が入手した。 この情報を受けた '鉄血光復団'構成員のうち、力が強くてすばしこい尹俊熙、 崔鳳、 林国驕A韓相浩、金俊、朴雄世などの 6人を選抜して '決死隊'を構成した後、資金を奪ってウラジオストク新韓村へ行き、 鉄砲を買って武装することとした。 彼らは 1920年 1月 3日、龍井付近の新明村と受動(今の勝地)の間にある東陽里口の 平坦な道で突然襲撃し、全身武装した日本人6名を殺害し、朝鮮銀行券 15万元を奪取した後、影も残さずに消えた。

新韓村で彼らは、軍資金で武器を購入し、士官学校を建立して新韓村の個人家を買い、出版所を建てることを計画したが、 日本の密偵であり反逆者である厳仁燮の密告により、 1月 31日、日本警察の包囲襲撃を受け、一人だけが脱出、 その他の独立家たちは逮捕され、金額 12万 8000元余りは没収された。

現在、新韓村の名残はいくら捜しても見つけることができないが、新韓村の波乱万丈の歴史は後世に必ず伝えな ければならないと歴史学者たちは指摘している。

(黒龍江新聞 ユン・ウンゴル記者 2007年10月20日)
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