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[文化] 農夫の祝祭 '御糧田民俗祭'開山屯鎮で開催

光昭村で 7月百中日を中国朝鮮民族史上初めて農夫節に




▲状元農夫が神輿に乗って

農夫たちの祝祭と位置づけられた '御糧田民俗祭'が、龍井市開山屯鎮政府、御糧田(王室田)協会、龍井市 文聯主催で 8月 27日(旧暦 7月 15日は百中日)に龍井市開山屯鎮光昭村で盛大に開かれた。

この日の行事には招聘された金カンヒ(前任・牡丹江軍区正尉)将軍、延辺人民代表大会・金貞海副主任など、 州と市の関係者、学者、教授、知識人そして開山屯鎮の 2000人余りの農民たちが参加した。

開山屯鎮党委書記兼鎮長である玄永勲さんの司会の下に開かれた民俗祭で、金カンヒ将軍が開幕を知らせるドラを力強く三度鳴らした。

引き続き 7月百中日の行事があった。農楽隊がまず洞祭堂を尋ねる姿で進行し、祭祀はお供え進献、祭官入場、 初献、亜献、楽献など一連の手順で終えた後、玄永勲鎮長が今年の '状元'を農夫・方ムソンであると宣布、賞金 5000元を下賜した。

続いて方ムソン農夫を載せた花御輿が先頭に立ち、祭官たちと農楽隊が楽しい農楽舞を演奏すると同時に、 農楽舞を踊りながら行事会場を一回り回った。

この日、お客たちと地元の人々は、この地域の王室田の米で作ったマッコリと蒸し餅、そして現地で 生産された各種の食べ物を美味しく食べながら、踊りと歌で一日を楽しんだ。

関連記事 1、'御糧田'の由来

1917年 2月 18日忠清北道清州郡で生まれた崔鶴黜農民が、吉州から開山屯下泉坪という地域が自然環境が 良くて農作物栽培がよくできるという噂を聞いて 1935年、下泉坪に引っ越して来て土地を耕し始めた。

何年間か稲作をしてみると、在来式の稲作では米生産量を高めることが出来ず、 1941年春に収獲を高める ために簡易の窓わくを組み、白い紙を貼って、豆油を塗り、日の光がよく入るように透明度を高めた稲苗床を 作った。これこそが '油紙温床育苗法'だった。

崔鶴黜がこのような育苗板を利用して他人に先立って田植をし、収獲も高めただけでなく、米は白魚のように 白くて艶があり、天下の珍味と評価されて隣近に噂が立ち始めた。

この噂が当時の満州国政府にまで知られると、康徳皇帝(溥儀)は崔鶴黜を新京(今の長春)へ呼び、満州国貨幣 千元を下賜し、政府から土地千秤を委託して専門的に康徳皇帝に捧げる '御糧田'を耕作するように頼んだ。

当時、農夫たちは田に働きに入って行く時には手足をきれいに洗い、足袋をはかなければならず、油はゆでた豆 と斗柄のみを使い、収穫・脱穀をする時には該当の官員たちの監視の下に進行されたという。

精米した米は未婚の若い女性たちがガラス板の上に乗せて一粒ずつ選んだが、色や光が違ったり米粒の一部が欠けて いても選り分けたという。開山屯鎮は、目の前で図們江を境界に北朝鮮と向い合っている地域だ。

中国東北地域の水田農業は朝鮮時代にここへ移住して来た朝鮮の農民たちによって始まり、崔鶴黜は東北地域稲作の伝説的存在だ。

2006年 9月 22日に龍井市開山屯鎮政府は '御糧田'の場所に碑を立てると同時に、今年から '御糧田文化祭' を行うこととした。

関連記事 2、'7月百中日'とは?

旧暦 7月 15日を百中日と呼び、漢文で 百中、百衆、百種、百踵 などと表記する。この頃になれば果物や野菜が たくさん取れる時なので、百種類を持つことができるという意味で百種という。 百中、百衆 などの名称は 皆 百種から変化したものだという。

中元は朝鮮民族の固有節日に仏教と道教の節日文化を融合させた複合的な節日だ。仏教ではこの日に于蘭盆会 を施して百味の食べ物を祭壇の仏に供養し、道教ではこの日を中元日と呼び、天の仙官に祭祀を執り行なう。

民間では 7月百中日を草取鎌洗い、作男節日と呼ぶ。百中日の時になれば辛い農作業に切りをつけ、あと残った のは秋の収穫だけとなるので、ほっと一息ついてさまざまな遊びを行う。

百中日の行事を見れば、農楽隊がまず洞祭堂を尋ね、ひとしきり祈りを捧げて村の守護神に敬意をささげ、 農楽隊が町内の富裕な農家を通いながら地神への祈りをし、費用を得る。そして農業が最もよくできた家の 作男や一軍を選んで、 '状元'の称号を授与し、牡牛に乗せて笠を着せて村を回る。

(黒龍江新聞 ユン・ウンゴル、ユン・ワンジュ記者 2007年8月28日)
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