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![]() [社会] 丹東市朝鮮族の変遷史 丹東市は国内最大の国境都市で、国境線が 302km、海岸線が 120kmで、総面積 1.9万平方kmに達する。 丹東市内には朝鮮族 1.5万名余りが 28の兄弟民族と仲良く暮している。 丹東に朝鮮族が暮し始めたのは明初期にさかのぼる。 1869年、朝鮮半島北部地域を甚大な日照りが襲い、 その住民たちが生計を求めて中国東北部山間地域へ移住し始めた。 1910年、朝鮮が日帝の蹄に踏み 付けられた後、 1919年 三一反日運動が起こった。 日帝の弾圧が始まると多くの反日志士たちが日帝の追跡 を避け、中国東北地域へ移住した。 1931年 9.18事変で東北が日帝の植民地に転落した後、一時期、中朝間の 国境が緩くなっていた。そこで多くの朝鮮人が生計を求め、ここへ大量移住して来た。彼らはここで荒れ地を 開墾して農業をする一方、秘密裡に反日団体を編成して抗日活動を展開した。 《安東省の鮮人移民調査》 記録によれば、 1845年、朝鮮平安北道楚山郡の 80戸余りの農民が寛甸地域の 下露河、太平哨等に移住して来た。 これが丹東地域に朝鮮族が入って来た最初の記録だ。 1860年、朝鮮北部に連続して災害が起こり、飢えた人々が筏に乗って移住し、丹東地域の朝鮮移民が急増した。 1910年、韓日併合の後、朝鮮側鴨緑江沿岸の碧潼、楚山、昌城、朔州、義州等から朝鮮人が移住し、寛甸県下露河、 鳳城県大堡、東湯、愛陽、安東県(現在の東港、以下同様)の湯池、小甸子、龍王廟等に足を踏み入れた。 1931年 9月18日事変の後、東北地域が日帝の手に陥ちた後、国境管理が杜撰になった隙に乗じて、朝鮮人が 大量に移住して来た。 1936年、金チュンホら 100人余りの農民が朝鮮義州から安東県小甸子へ移住するなど、 丹東の朝鮮人の 95%以上が平安道地方から渡って来て、主に寛甸県の下露河、振江、永甸、宝山、歩達遠、 青椅山、古楼子、寛甸鎮と鳳城県の草河、白旗、愛陽、弟兄山、辺門、石城、東湯に、安東県の前陽、椅圏、 振安区の五龍背などにそれぞれ定着した。 なかでも慶尚道、黄海道、江原道、全羅道、京畿道等から渡って来た 朝鮮人は主に鳳城県の大堡、鳳城鎮と県庁所在地の三馬路等に定着した。 1905年、安東県、鳳城県、寛甸県の朝鮮人は 1,190戸余り、人口 4,920人余りに達し、1910年以後は移住民が急増した。 《寛甸県誌》によれば、寛甸県だけで朝鮮人 2,040戸、人口が 11,307名にもなった。 記録によれば 1926年、丹東地域の朝鮮人は鳳城県に 456戸 2,689人、 安東県に 1,752戸 8,260人、 寛甸県に 2,267戸 16,291人だった。 1927年、軍閥統治者たちの朝鮮人排斥政策で朝鮮人の人口数は激減、 1930年、寛甸の朝鮮人は 1,259戸 8,171人となり、 9.18事変の後に増加した。 1940年、鳳城県に 9,690人、 寛甸県に 8,927人、安東県に 24,231人と急増し、1945年の光復の後、多くの朝鮮人が帰国したため、再び激減した。 解放の後、朝鮮人の居住状況は変化が著しく、 1952年、政府で朝鮮人を外部の省市へ移住させるために動員し、 朝鮮人は再び減った。 当時、寛甸県だけで 3,000人が黒龍江等へ移住し、同年、鳳城大堡から空港建設のため 朝鮮人が他郷へ移住した。 1953年の解放後の初の人口調査によれば、丹東の朝鮮族人口は 18,298人で、 そのうち安東市区域 1,459人、 鳳城県 5,787人、寛甸県 11,124人、安東県 314人だった。 朝鮮戦争の後、多くの朝鮮族が北朝鮮の建設に参加するために渡り、 1960年の自然災害の時、一部は他郷へ 移住した。 かくして 1964年の第2次人口調査の時は朝鮮族が 14,719人へと減った。 そのうち 安東市区域 1,627人、鳳城県 3,306人、寛甸県 9,017人、 安東県 769人だった。 《文化大革命》の期間、 ここで水田を乾田に変え、朝鮮族学校を廃止したり合併させたりしたため、また少なからぬ朝鮮族が外部省 市へと移住し、 1978年には 11,191人に減った。 そのうち丹東市区域 1,544人、 鳳城県 2,660人、寛甸県 6,017人、東溝県(現在の東港市) 1,000人だった。 1979年、党11期3次専員会議の後、民族政策が決着し、民族教育が回復、米の生産発展を勧奨したお陰で、 丹東地域の朝鮮族人口は比較的安定し始めた。 1982年の第3次人口調査によれば、朝鮮族人口が 13,292人で そのうち市内 2,388人、鳳城県 3,669人、寛甸県 6,100人、東溝県 1,058人だ。 1985年以後、経済体制の改革によって朝鮮族住民の生活水準が向上し、外地へ移住した朝鮮族が戻りはじめ、 人口が増加の一途となった。. 1990年の第4次人口調査では 14,888人で、そのうち市内 3,539人、 鳳城県 3,740人、 寛甸県 6,193人、 東溝県 1,417人となり、 1991年以後、全面的に開放して市場が活性化 することとなり、外部省市の朝鮮族人口が流入し、 1998年に至っては朝鮮族人口が 16,493人に増え、 1990年に 比べて 1,605人増加した。 そのうち市内 3,937人、 鳳城市4,146人、寛甸県 6,844人、東港市 1,566人だった。 丹東地域の朝鮮族人口の流動の特徴を見ると、その他の地域と同じく、遅れた地域から経済が発達した地域に 移動経路を見せており、活発な中朝・中韓の経済貿易活動によって外部省市の朝鮮族が大量に丹東に流入して おり、山間地域と農村の朝鮮族人口が都市に移動する様相を見せている。 丹東市民族事務委員会の最近の調査によれば、現在、丹東地域の朝鮮族人口は 15,567人で、丹東地域の少数 民族人口の 1.81%を占めており、寛甸県下露河朝鮮族郷、丹東市朝鮮族文化芸術館、丹東市朝鮮族中学校、 丹東市朝鮮族幼稚園、 鳳城市朝鮮族中学校、寛甸県朝鮮族中学校、東港市朝鮮族中学校、下露河朝鮮族小学校などがある。 (遼寧朝鮮文報 ユン・ソンイル、ユン・ジェユン記者 2007年5月16日)
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