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![]() [特集] 中 再開発ブームで抗日遺跡が一つ二つと'歴史の裏街道'へ [海外独立運動の現場を尋ねて] ▲ 日本総領事館監獄。李陸史など幾多の独立運動家が命を失った中国北京駐在日本総領事館監獄が そのまま残っている。 しかしここには撤去公告文が付いており、間もなく消える危機に瀕している。 中国内にはまだはっきりと確認されていない幾多の抗日運動遺跡地があるが、徐々に歴史の裏街道へと 消えている。 特に少なからぬ遺跡が大都市に位置しているせいで、最近起こっている大規模な都心再開発 ブームの中に、ややもすれば痕跡さえ捜しにくくなっていることが憂慮される。 抗日抵抗詩人・ 李陸史(本名・李源禄)と朝鮮義勇隊出身・李元大烈士など多くの抗日闘士たちが獄苦を経験した中国北京 駐在日本総領事館監獄は現在、北京中国社会科学院の裏手の狭い路地に位置した東成区東昌胡同 28号に昔 の姿をとどめたまま残っている。 しかし北京のメイン・ストリートに位置しているため、開発ブームに晒されている。ソウル明洞のような 繁華街である王府井近隣にあるため、大型ショッピングモールの開発の噂が絶えず、建物の外壁そこかし こに撤去公告が貼り出されている。 現在、建物主が北京市政府と補償費について交渉しており、妥結さえ されれば直ちに撤去される運命だ。 本格的な抗日闘争のために韓独党と義烈団など 5つの団体が 1932年に韓国対日戦線統一同盟を結成した 上海勤倹旅社旅館は既に再開発で解体された。 重慶臨時政府時代の三番目の庁舎だった呉師爺巷の安っぽい 2階建て木造家屋周辺も再開発が盛んに進行中だ。 臨時議政院議長を勤めた宋秉祚(1877〜1942) 先生などの 独立闘士たちが葬られているという重慶韓人墓地もごみ捨て場に変わった。 重慶渝中区鄒容路 37号に位置する光復軍総司令部本部の建物も 10年余り前から再開発されるという噂がし きりで、いつ取り払われるかもわからない。この建物の周辺も古い建物ばかりで、 ここから少しでも歩い て行けば現代的な高層ビルが整然と並んでいるのと全く対照的だ。 そのために早いうちに周辺の古い建物が 全て取り払われ、大型ショッピングセンターが入るという噂がしきりなのだ。 ▲ 光復軍総司令部の建物。 1階に食堂が入った重慶光復軍総司令部本部の建物はまだ健在な状態だが、 数年前から 再開発の噂が絶えず、いつ撤去されるかわからない。 ▲ 綦江 臨時政府庁舎周辺。綦江 臨時政府庁舎があった中国重慶市綦江 県沱湾 8号周辺に重装備と トラックなどが動員され、大規模アパートの建設工事が盛んに進められている。庁舎の場所には今年初、 庶民用アパートが入った。 日本総領事館監獄と光復軍総司令部はいまだに残っているが、綦江臨時政府庁舎の場合、惜しくも 2年前に再開発で消えた。 ここは綦江で起こっている建設ブームに乗ってアパート団地が入った。 現在、工事が全て終わり、入居のみを待つ状態で、周辺も急激な変化が進行中だ。 民族問題研究所・朴ハンヨン研究室長は “中国全体が急速に変化することを勘案すれば、遺跡地の所在把握だけでは不足であり、保存状態、再開発情報などまで幅広く把握してはじめて対策を立てることができる”とし “遺跡地を私たちが買い入れることができれば良いが、現実的に難しいので、積極的な合作投資と管理分担方案を模索しなければならない”と述べた。 社会部機動取材チーム ▲ 具ジャウンさんが現地博物館で捜し出した臨時政府関連の中国新聞記事を掲げて見せながら説明している。 “外国に出れば誰でも愛国者になるというではありませんか。 ただ国を取り戻すために苦労した先祖たちの精神を他の人々 が感じられるように、少しでも役に立てれはそれで充分です。” 私たちの手が届かない中国内の独立運動遺跡が一つ二つと消えて行く中で、ある民間人がこれらの遺跡地の保存・発掘に心血を注いでいる。 LG電子の協力業者である三昌企業の中国湖南省長沙地域経営顧問である具ジャウン(47)さん。 具さんは平凡な会社員だが、 週末や休日には ‘アマチュア歴史学者’に変身して地域内の抗日遺跡地を探しに出る。 彼は 2001年に初めて中国へ来た時まででも、 臨時政府や独立運動に関心すらなかった。 2003年、趙淳前経済副総理がこの地域の楠木庁を訪問したという話を聞いて、妙な ‘好奇心’が湧いた。 楠木庁を直接訪ねた彼は、大変な感動を覚えた。 “初めは表示一つなく廃墟のように放置されていてがっかりしたんです。 しかしここで祖国光復のために血の汗を流した先祖たちを思うと、 胸がじいんとして来るんですよ。 それが歴史研究へと導いたようです。” 以後彼は、臨時政府と関連する記録と白凡日誌などを耽読した。 長沙臨時政府時代の 1937年 11月から翌年 7月までの当時の中国新聞 資料も確認した。 ‘朝鮮’や ‘韓国’の入っている記事は無条件にコピーした。 韓国内では求めにくい貴重な資料が 50件余りにのぼる。 長沙地域の独立運動史だけは学者にも劣らない知識を持つようになった。 知人は勿論、観光客や学生たちに、この地域に込められた抗日史 と精神を知らせる ‘歴史伝道師’ の役目を厭わなかった。 具さんは “中国は土地が広くて遺跡が多く、韓国政府から抗日遺跡地の保存のために 人を送ることができないということはよく理解できる。 それなら駐在員や海外同胞、朝鮮族などを ‘現地管理人’に指定して、遺跡管理と道案内の 役目をさせるようにすれば、今のようにただの廃墟として放置されはしないだろう”と惜しがった。 彼は特に “何年に一回かずつ立ち寄って、 独立運動関連の報告書を出し、 ‘既に消えた’、‘確認不可能だ’などと報告しているだけでは無意味だ”とし “大切な歴史の現場をいかすためには、 現地人と有機的な疎通を通じて、遺跡地の発掘と保存に力をつくさなければならない”と力を込めて述べた。 社会部機動取材チーム (世界日報 2007年2月28日)
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