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![]() [教育] ハルピン市阿城区、金代王公の碑石を発見 主人は金初期の名将・金源郡剛烈王・完顔斡魯 最近 2003年末に発見された金代の碑石が考証を経て、碑石の主人は金初期の名将完顔斡魯であることが確認された。 2003年 11月、ハルピン師範大金源文化研究所は阿城郊外地域で墓碑片 3個を発見、出土地点の現地 農民はこれを '王子墓'と考えた。 碑の頭部正面は完全な 8つの小篆漢字と不完全な 4つの小篆 漢字(偏、部首のみ)が刻まれていた。 碑身は大小二つに分けられているが、大きな碑身には真書漢字百余り の文字、小さな碑身には正楷漢字 10字余りが書かれており、筆跡は既にぼんやりとしていた。碑石頭部の上には 完全な8文字の漢字が残っていた。すなわち '..儀同...金源...烈王...公神...'だ。 その他、不完全な 漢字 4文字があったが、 '儀同'、'金源'、'烈王'、'神道' などの文字から、金代貴族の墓、碑石であると 断定することができる。 ハルピン師範大金源文化研究所の王久宇教授は "元々知られていた完顔希尹、完顔婁室など石碑頭部の模様と 完全な 8文字と不完全な 4文字から見ると、石碑頭部全体の内容は '大金開府儀同三司金源郡×烈王完顔公神道碑'と判断される。 また碑文の記載によれば、墓の主人は金太祖廟庭に埋葬された者だ。 '金史'の記載によれば、太祖廟庭に埋葬 され、また金源郡王に封じられた者が 9人いた。 石碑頭部の文字を見れば墓の主人の諡号は '×烈'で、太祖 廟庭に埋葬された者の中に '烈'の字を持った功臣が 5人いた。 総合して分析すれば金太祖廟庭に埋葬された功臣の中に '金源郡王'に封じられ、また諡号の中に '烈'の字を 持つ者は完顔斡魯('金史'記載) 一人だけだ。 今後、石碑頭部全体の内容は '大金開府儀同三司金源郡剛烈王完顔 公神道碑'であるとと断定することができ、主人は完顔斡魯だ。 斡魯は金源郡忠毅王の実の弟で, 人々がよく知って いる完顔宗翰(粘罕)の叔父だ。 長年間、金源の旧敷地である阿城で、ふんだんに文物や古墳が発見されてはいたものの、貴族の墓碑は今まで 見つけることができなかった。 80年代に出土した '塞北馬王堆'と呼ばれる完顔晏の墓も、墓穴内で発見された 墓の主人の身分の銀質銘牌であるだけだった。 ところが今回、斡魯の碑石発見がこの空白を埋めたのだ。 考証したところによれば、完顔斡魯の碑石は現在、世界で考証,研究に提供出来る最も完璧に保存された金代貴族の墓碑実物だ。 (黒龍江新聞 2007年2月7日)
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