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[特集] 中華の大地に響く民族の声

暖かい声、党の声
子々孫々続く民族の声
誇り高き半世紀、輝く 50年
電波に乗ってつながった同胞の情よ


中国 200万余りの朝鮮族を対象とする党の声、民族の声である中央人民放送局朝鮮語放送が半世紀の輝く歴史を駆けて来た。 中国 56の民族出す家族の中で、はるかに優秀な歴史、文化と経済的成果を誇りながら、自己の立場を守って来た朝鮮族は、 1956年 7月に首都北京から 響く自分の声を持つことになった。

50年来、党と国家指導者たちの深い配慮の中で成長して来た中央人民放送局朝鮮語放送は、党の政策を積極的に宣伝し、朝鮮族密集地域と散在地域 の発展を報道しながら、広範な朝鮮族聴取者と呼吸を合わせて来た。

現在、朝鮮語放送は毎日 4時間の番組を作っている。 ニュース情報を適時に正確に報道し、また内容が豊かな特集番組を放送して、広範な国内外の愛 聴者たちの歓迎を受けている。 前世紀、苦しかった 1950年代創業期と 1970年代回復期を経て、今新しい成熟期を迎えている中央人民放送局朝鮮語 放送は、今日新しい情報化時代にさらにしっかりした基盤を作りながら新しい発展を続けている。

1. 苦難の創業期と回復期

1950年 3月、国家新聞総署で全国報道事業会議を開き、中央人民放送局に少数民族放送を増設することを決めた。 これは党の民族政策を宣伝し 少数民族地域の発展を急ぐための重要な措置の一つだった。 全国報道事業会議の精神によってチベット語とモンゴル語放送が次々に創立され、 朝鮮語放送開設のための準備作業も本格的に始まった。

誰もが苦しかったその時代だったが、朝鮮族密集地域である吉林省延辺の多くの言論単位では、党の指示に従って最も優れた人材を北京に行かせ、 朝鮮語放送を創設させるようにした。それだけでなく黒龍江省と遼寧省からも優秀な人材が集まって来始めた。 そして 1956年 7月 6日に 10人の メンバーを持つ朝鮮語放送が出帆することになった。 当時は 30分のニュース主体の放送を二度行った。 放送は主に党中央の路線と方針、政策を宣 伝して国家の政令、法令、施策を解説し、国内外の主要ニュースと中国の経済文化建設の成果を報道した。

中国朝鮮族は自民族の放送が首都から響くという事実だけでも大きく感動し、惜しみない支援をした。 当時、吉林省副省長で延辺朝鮮族自治州州長だ った朱徳海同志は、北京へ来て中央会議に参加した後、中央人民放送局を尋ねて来て朝鮮語放送の開設に熱烈な祝辞を示し、メンバーたちを激励してくれた。


▲録音に熱中するアナウンサーたち

しかし厳しい経済的苦境で全国が困難を経験したその時代、放送事業局では機構を簡素化することに決め、民族放送を取り消すことを中央宣伝部に提起 した。 そして 1960年に中央人民放送局の民族放送は全て解消された。. しかし一時的な経済的困難でこのように重要な民族放送大業をやめるというのは、 深く熟考しなければならない問題だった。

1962年 7月、全国民族事業会議が山東省青島で召集された。 会議に参加した少数民族の指導者たちは、中央の通達をより正確に少数民族語で翻訳する問題 を提起しつつ、中央人民放送局少数民族放送の必要性を強く主張した。その時に初めて少数民族放送が解消されたことを知ることになった周恩来総理は、 即座に放送事業局を批判した。

共和国第一世代の指導者の一人だった周恩来総理は、民族発展の大切さを強調しながら、直ちに中央人民放送局民族放送を回復することを指示した。 そし て 1964年国家民族事務委員会と共に “少数民族言語放送を回復する問題に関する報告”を中央宣伝部に提起した。報告は、中央宣伝部の同意を経て国務院 と中央書記処に交付され、周恩来総理と中央指導者たちの批准を受けた。

中央人民放送局朝鮮語放送は暗黒の 60年代を過ぎた 1972年 8月 1日に回復した。 “文化大革命”が終わった後、中央人民放送局朝鮮語放送は新しい生気と 活力を取り戻すようになり、充分な成果を挙げ始めた。 その他の民族放送は当日ニュースだけ翻訳して放送すれば終わりだったが、主観能動性が強い朝鮮語 放送編集の関係者たちは、ニュースの外にも “祖国各地”、“時事解説”、“文化生活”、“法律講座”を含む多様な特集番組を作って定期的に放送し、 また文学番組と音楽番組を非定期的に放送した。

そして “党規約問答”、“人材養成での心理的条件”を含む放送講座番組を土台で本を出版したり、関連内容を新聞に連載した。この時期、朝鮮語放送は東北 3省やその他の地域、そして国外から 1000通に近い手紙や原稿を受けた。 リスナーたちの送った原稿は “延辺通信”、“黒龍江通信”、“遼寧通信” など の放送番組に製作されて放送された。この時期、放送関係者たちは、国内外の主な報道行事に参加した。

2. 成熟期の奮闘

80年代と 90年代に入り、中央民族大学と延辺大学の卒業生たちが朝鮮語放送事業に参加することで主なパワーになった。 我が国の大学制度回復後の 大学卒業生だった人々は、事業や業務で優れた能力を誇示した。 そして中国の改革開放が進むにつれて、中央人民放送局朝鮮語放送事業も成熟期を迎え るようになった。

1991年、中央人民放送局で中国共産党創建 70周年記念行事を盛大に行った。 今度の行事の主な内容の一つに党建設理論知識問答競演を行なったが、朝鮮 語放送編集関係者たちは民族 2チームで出場し、その他 27のチームに全勝し、断然トップの栄誉を受けることで優れた才能と組織力を見せてくれた。 そ して中央人民放送局朝鮮語放送では 1995年に “第1回全国朝鮮語放送優秀番組評議”を成功裏に開催し、またこれを毎年開催する正規項目とした。

1996年 9月、中央人民放送局朝鮮語放送開始 40周年記念行事があった。 全国人大常務委員会副委員長である布赫と中国人民政治協商会の全国委員会 副主席である阿沛・阿旺晋美が記念大会に出席し、また題字を書いてくれた。 そして中央統一戦線工作部・李徳洙副部長が “子々孫々続く民族の声” という題字を書いてくれた。 記念行事を迎え、朝鮮語放送編集関係者たちは “電波に乗って 40年”という見出しで記念文集を出版した。

1998年 6月、中央人民放送局朝鮮語放送は元々の科級単位から処級単位に昇格することになり、朝鮮語放送部になった。 この時期 1987年と 1998年、 朝鮮語放送部は連続 2年間、中央人民放送局先進集団の栄誉を受けることとなり、また常に事務室と放送室をきれいにして、毎年放送局の衛生先進単位 の栄誉をほしいままにした。


▲活動討論中の指導部構成員

3. 党中央の暖かい思いやり

中央人民放送局朝鮮語放送は創始期から始まり、ずっと党中央と国務院指導者たちの関心と暖かい配慮を受けて来た。

1989年 10月 1日、国慶節をきっかけに、当時中共中央総書記であった江沢民同志が中央人民放送局を視察しながら、朝鮮族事業関係者を 含む少数民族放送事業関係者たちを慰問して暖かい話を交わした。

2000年 9月 16日は中国少数民族放送史において特筆すべき日だ。 当時、党中央総書記を担当していた江沢民同志は、チベットと新彊の指導 者たちに会った後、少数民族地域のラジオテレビジョン受信状態を改善することに関する指示を下し、その指示に従って国家ラジオ放送映画及 びテレビジョン放送総局では “西新工程(チベットと新彊を含む国境地域の放送受信状況を改善するためのプロジェクト)”を稼動することになった。

これをきっかけに中央財政部では、巨額の資金を投入して民族地域中央民族放送中継施設を改善すると同時に、中央人民放送局少数民族放送に対 する有力な資金的支援を与えた。 時を同じくして朴イルソンを主任とする新しい朝鮮語部指導部が構成され、朝鮮語放送の本格的な発展のためのスタートを切った。

この時期、放送は単位時間を 30分から 60分に伸ばして、一日 3回の放送を行なった。

それだけでなく 2002年 2月、江沢民総書記は “西新工程”を視察するため、国家ラジオ映画及びテレビジョン放送総局を直接訪れた。 視察中、 彼は朝鮮語部代表を接見した。

この年12月、新年を迎えて中共中央政治局常務委員である李長春と中共中央政治局委員で書記処書記で中央宣伝部部長である劉雲山を含む指導者 たちが中央人民放送局を視察し、朝鮮語部事務室を訪ね、放送事業関係者たちと話を交わした。 そして 2004年 1月に李長春常務委員と劉雲山部長 は再び中央人民放送局を視察して朝鮮語部の一部の事業関係者と記念撮影をした。

4. 党の声で、民族の声で

“西新工程”をきっかけに中央人民放送局朝鮮語放送は大きな変化が現われた。 閉鎖的な電波モデルが徐々に開放的な電波モデルに変わって行った。 まず機械的なニュース翻訳から主動的なニュース翻訳へと転換した。党と国家の宣伝需要によって報道しなければならない重要なニュースを選定し、 朝鮮族の生産と生活、歴史、文化発展に必要なニュースを選定することに精力を傾けた。同時に党と国家の宣伝需要と対象地域の朝鮮族に必要な情報を 提供することに力をつくした。

次に立派な放送を行なうために、必ずリスナーたちを念頭に置き、リスナーたちを最優先しなければならない。 このため、朝鮮語放送部は中国朝鮮族 密集地域を重視し、取材を本格強化する一方、自己番組の製作に力をつくした。 対象地域から遠く離れている現実のため、単純な取材だけでは不足だった。 これを乗り越えるために朝鮮語部では、各地の通信員たちを集めて北京で会議を開き、情報提供を約束した。 今、通信員はますます多くなっており、 またレポート水準も見違えるほど向上し、朝鮮語放送の重要な役目を担っている。

60分放送に増え、必然的に形式と放送モデルの改革が必要になつた。 朝鮮語部では個性をいかして中国朝鮮族に関する内容を主とする特集番組を作成した。 編集関係者たちが取材して原稿を作成し、また番組編集、製作を担当するだけでなく、直接司会を引き受けた。


▲中央人民放送局朝鮮語放送のメンバー一同

そして月曜日 “今日の話題”、火曜日 “我が郷土、我が同胞”、水曜日 “経済と生活”、木曜日 “60青春ニリリ”、金曜日 “女性世界”、土曜日 “文化サロン”、日曜日 “ラジオ応接室”を含む週間固定番組が出来た。 これらの番組は中国朝鮮族の経済・社会・ 文化の発展に言及しながら生活にさらに近く内容を作成して、リスナーたちの歓迎を受けている。 さらに司会者たちが各々親切で個性的な言葉 と音声で番組を進行し、リスナーたちに親切感を多く与えている。

新しい放送の姿を備えた後、中央人民放送局朝鮮語放送では民族の歴史を整理して朝鮮族地域の新しい発展の姿を見せてくれる大型プロジェクトを 構想し、敢然と実践に移した。 そして 2002年、中国共産党第16回全国代表大会のための大型番組 “党の光の下に”を製作して放送し、また本に整理 して出版した。 そしてこの年、吉林省延辺朝鮮族自治州創立 50周期を迎え、記念行事を全面的に 適時に報道した。

2003年には 100部の大型プロジェクト “中国朝鮮族農村紀行”と “不滅の足跡”を作成した。 中国管内で戦った朝鮮革命家たちの不朽の功績を記録 した 100部作ドキュメンタリー “不滅の足跡”は、 3年の時間をかけて全国 18の省と自治区、直轄市を通って取材をし、 2005年世界反ファッショ戦争 勝利及び中国人民抗日戦争勝利 60周年の主体作品として放送された。

激変期の中国朝鮮族農村状況を全面的に扱った “中国朝鮮族農村紀行”番組は、 4年の時間をかけて東北3省と内モンゴルの朝鮮族村を訪ね、朝鮮族農村 と農民たちの現況を正確に報道し、朝鮮族の農民たちが経験している現実的な哀歓を反映し、また新しい農村建設をきっかけに新しい発展を夢見る朝鮮族 農村の新しい成果を如実に伝えた。 現在、この番組は既に 80回放送され、来年もずっと取材と放送が続く見込みだ。

このように前にも後にもなかった大型番組の製作と放送は、広範なリスナーたちの心に響き、中央人民放送局朝鮮語放送の影響力を大きく高め、 またリスナー数を大きく拡大することになった。

情報化時代に入り、人々が情報を受ける手段が多様になり、また迅速になった。 このような状況に照らし、朝鮮語部ではただラジオ放送だけでは なく他のメディアの必要性をつくづくと感じ、また社会的な力を借りなければならず多くの言論媒体の間の有力な協力が必要であることをつくづくと 感じるようになった。

そして朝鮮語部指導部では、資源共有、 影響力拡大の目的で、大型プロジェクトを製作するにおいて多くの兄弟言論単位と積極的に協調した。 “中国朝鮮族農村紀行”の番組は次々と延辺人民放送局、吉林新聞社、黒龍江新聞社の全幅的な協力を受け、一緒に記者チームを編成して取材した。 また “不滅の足跡”の番組は延辺テレビジョン放送局と協力して進められ、ラジオ放送だけでなくテレビジョン放送番組として製作されて放送され、 関連内容は黒龍江新聞と延辺日報に連載されている状況だ。 それだけでなく、朝鮮語部では早くから自らのインターネットサイトを構築するために 努力し、サイトは放送局と総局の批准を受けて既に試運転に入っている。

社会世論を導き、正確な言論方向を示すことは放送の基本原則だ。 中央人民放送局朝鮮語放送部では正確な言論方向を示すために努力し、中国朝鮮族 社会の正しい世論を導いて行くために力をつくしている。 このために朝鮮語部では社会各界の専門家、学者たちを放送顧問として招待し、また広範な リスナーの中で愛聴者クラブを設立した。

社会各界の専門家、学者たちは顧問団として参加し、朝鮮語放送の発展に力を捧げただけでなく、直接マイクの前で党の方針、政策そして社会、教育、 経済、法律に関する問題について説明を与えた。 多くの顧問と専門家たちは使命感を持って朝鮮語放送のために力と知恵を捧げた。 中央党学校教務部 の副主任として活動して退職した崔リョンス教授はひどい糖尿病で苦労しながらも “不滅の足跡”の番組の歴史顧問を引き受けた。

彼は注射を打ちながらも記者たちとともに苦しい踏査の道に出た。 また朝鮮族語学者である中央民族大学の徐ヨンソプ教授は、毎日放送 を聞いて癖や間違った単語または発音を記録して朝鮮語放送編集記者、アナウンサーに指摘してくれた。さらに中国朝鮮族社会問題を研究しながら ほとんど毎年学術セミナーを開催している中央民族大学の黄有福教授は、関連学術テーマと研究成果を朝鮮語放送を通じて放送し、大いなる手助け をしてくれた。 その外にも多くの方々が朝鮮語放送のために力を傾けている。

民族放送を強化して発展させる窮極的な目的は、民族発展のためということにある。 放送をしながら、ずっと激変期の中国朝鮮族社会の発展を注目 して来た朝鮮語放送部指導部では、朝鮮族社会の団結と経済文化発展のための多様な行事を開催した。 1999年 2月の旧正月をきっかけに、朝鮮語部で は北京で “旧正月迎春朝鮮族音楽会”を放送劇場で開き、 2000年にも “北京市朝鮮族新千年音楽会”を開いた。 中国朝鮮族の有名な歌手たち、 朝鮮族密集地から来た才能ある歌手と小品俳優たちの公演は、首都の千名余りの朝鮮族に楽しい席を提供しただけでなく、お互いに会って団結する良い きっかけになった。

歳月は流れ、中央人民放送局朝鮮語放送が始まってからいつの間にか半世紀が流れた。 これからも朝鮮語放送は党と国家指導者たちの暖かい配慮の下で、 先輩たちの苦しい創業精神と集団のための自己犠牲的な結束力、 実務水準の向上のための進取精神を受け継いで、党の声として、民族の声として、 ずっと中華の大地に響くことだろう。

(中央人民放送局朝鮮語放送 キム・ヤンヒョン、パク・チョンギュン、キム・ヒョンチク、パク・ヨンソン記者 2006年9月12日)
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