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[特集] 申采浩が活動した普陀庵と石灯庵旧跡

普陀庵は北京市崇文区 東便門 南側に位置している。 今は寺の建物はなく、井戸の 周りに 3m余りの碑石一つが立っているだけだ。 碑文はここが昔の普陀庵があった 場所であることを証明してくれた。

1915年に北京に到着した申采浩は、崇文門外の普陀庵に居住しながら北京図書館に通 い ≪朝鮮史≫の執筆を構想し、また北京の権威ある新聞である ≪中華報≫、≪中華 時報≫に文を発表した。 彼は当時 ≪中華時報≫の最も熱情的な投稿者として認めら れ、また ≪東方≫雑誌を創刊した。

この頃彼は、北京大学の李石曽、蔡元培を含む中国の学者たちと親交を結んだが、彼 らは皆中国新文化運動の主要人物だった。それだけでなくこの時、小説家や独立運動 家である洪命熹と深い交情を結ぶようになった。 碧初・洪命熹(1888年−1968年)が まさに長編歴史小説 ≪林巨正≫の著者だ。 当時、南洋群島を 3年間さ迷った洪命熹 は、北京へ来た後、申采浩の宿所へよく通いながら深い友情を築いた。

1916年春、申采浩は北京で中篇小説 ≪夢の空≫を完成した。 作品は一人の人間の口 と手を借りて国の独立運動展開を象徴的手法で劇化した小説だ。

丹齋・申采浩は 1915年からおよそ 13年間、主に北京で活動したため、北京には申采 浩の史跡地がたくさん残っている。 記載した地点だけでも普陀庵、錦什坊、石灯 庵、観音寺、炒豆胡同 などがある。

普陀庵でしばらく生活した申采浩は、後に続いて今の北京市白塔寺以南の錦什坊街 21号と炒豆胡同で生活し、麟閣路の西方に位置した石灯庵付近にも居住した。

石灯庵寺院は今もその姿を幾分見ることが出来る。 2003年 10月 16日、踏査チーム は李ドクナム女史とともに石灯庵旧跡を尋ねた。 麟閣路に付いて西の方にずいぶ ん行くと、伝統的な中国式の構造になった平屋が現われる。 家の規模や花模様を刻 んだ瓦、そしていろいろな彫刻をした軒や垣根を見て、ここが寺院であることが明ら かだった。 現地の街道主任が近所に住んでいる董さん(70歳・女) 一人を紹介してく れた。 その老人は幼い時にここに住み、60年代は石灯庵の尼であったと紹介してく れた。董さんはここが確かに石灯庵旧跡と証言した。

北京で本格的な独立活動に携わった申采浩は 1919年に上海臨時政府樹立のために上 海に行った。 しかし上海臨時政府がアメリカに委任統治を建議した李承晩を大統領 に推戴すると、これに断固として反対した。

会議で自分の主張をためらわず打ち明けた申采浩は、もはや堪えることができず、会 議場を飛び出した。 ところが出口で何人かの青年たちが彼を阻んだ。

≪だめです。 政府組職が出来るまでは、誰もこの席を発つ事ができません。≫

申采浩は青年たちに ≪私たちに残ったものが、今何があるのか? 大義以外の何があ るのか? 民族の大義が、これを絶対受け入れることができない。 退きなさい!≫と 言った。

しかし青年たちは ≪いけません。 ここから出る事はできません。≫と言った。

申采浩は ≪それならいっそ、私を殺しなさい!≫と言いながらこのように説明し た。 ≪アメリカに委任統治を請願した李承晩は、李完用や宋秉oよりももっと大き な逆賊だ。李完用は存在する国を売ったが、李承晩はまだ国を取り戻す前に売ろうと しているではないか! それなのに彼を私たちの代表だと言うことが出来るのか?≫

しかし事は申采浩の意とは反対方向へ進んで行った。 会議場を飛び出した彼は、上 海臨時政府と別れて臨時政府に反対する創造派の先頭に立った。 ついに彼は北京に帰って来て、武装抗争を主導する軍事統一籌備会の召集のために努 力し、また 1919年中国吉林で創立された義烈団と緊密な連携を 持って義烈団の宣言である ≪朝鮮革命宣言≫を執筆することになった。

申采浩の ≪朝鮮革命宣言≫に見られる絶対独立論は、自治論を徹底的に粉砕して、絶対独 立を追求する民族主義独立運動と社会主義独立運動の民族協同戦線である新干会の路線 を定立するのに大きな寄与をした。丹齋・申采浩の武装闘争論と民族 革命論は日本帝国主義に対しては暴力と暴動を含むすべての手段を動員した 闘いが正当さを示唆した。 これは社会主義革命家たちだけではなく義烈団や 金九が導く上海臨時政府までもが、合理的で正当な暴力手段として受け入れるものだった。

(黒龍江新聞 2006年8月16日)
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