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[特集] 沿海州 'アグロ相生' 農場、豊饒と希望が芽吹く '食糧 宝庫'

総計 17ヶ所 13万haの農地耕作、未来の食糧基地として基盤堅める韓人農場


▲1937年、高麗人強制移住の出発地であるウスリースク・ラズドリノエ駅
▲ハイカイスキー郡メルグノフカ農場/写真説明は左から

ロシア沿海州の 7月は結構ゆったりしている。 広い大地と清らかな日の光、涼しい草原はここの長い冬 を忘れさせるほど豊かな感じさえ与える。

しかし少し時間をさかのぼると、私たちにとって沿海州はロマンチックではない。 ‘凍土の地’として記憶さ れる暗い歴史の重さのためだ。 高句麗と渤海の跡があちこちに残っている、近現代受難の痕跡がもっと深く 残っている。間近くは亡国の恨が深く立ちこめた土地でもある。

韓人たちが集まって来始めた 19世紀末、 沿海州は飢えと苛政を避けて血と汗を流して掘り起こした苦難の 基盤であり、日帝占領の時期には独立運動家たちが鬱憤を吐いて抗日の旗印を立てた本拠地だ。 現代に入 ってからは、戦争とイデオロギーの横暴によって韓人たちの生活は根絶やしにされ。犠牲を強いられた。

そんな凍土の地に豊饒と新しい希望が芽吹き、結実している。大巡真理会(宗務院長・李ユジョン)が運営する ‘アグロ相生’農場が進出してから 5年の間、確固と腰を据えながら沿海州の韓人だけでなくロシアの現地人た ちに新しい生活基盤をもたらしてくれているからだ。

‘アグロ相生’は農業(Agriculture)のロシア式発音‘アグロ’に、大巡真理会の宗旨ある解寃相生(怨めしい心 を解いて、調和を成す)の共存を付けたものだ。

‘アグロ相生’は旧ソ連崩壊以後に破産した国営農場(コルホーズ)を引き受け、穀物と飼料作物を栽培して いる。 同時に 1937年中央アジアへ強制的に移住されてから旧ソ連崩壊後に沿海州へ再び移住して来た高 麗人 3、 4世代を雇い、逼迫した彼らが昔の先祖の地に定着する上で実質的な助けになっている。

大巡真理会がロシア政府と 50年間の賃貸契約を結んで運営している農場は、ジェムチュージヌを含め、コルニ ロフカ、ルビノフカ、ネステロフカ、メルグノフカ、イリンカ、アバンガルド、ウラジミールペトロフカ、 ハンマダン、ル カセフカなど 10ヶ所で、 引受予定や作業中にある農場も 7ヶ所にのぼる。 全面積は 13万 2,423haで、セマ ングム干拓(韓国・全羅北道で計画中)事業面積の 7倍にのぼる。 7月 2〜5日、韓露相生の農場現場を視察した。

大巡真理会で運営、5年で根付く

‘アグロ相生’農場の中で面積が最大の所はポクラヌイチンヌ郡 ルビノフカ農場。 沿海州第一の都市ウラジオ ストクから北に 300km ほど離れたここは、全体の面積がおおよそ 2万 367ha(約 6,100万坪)にもなる。

2002年、初めて引き受けたグラズダンカ・ジェムチュージヌ農場(7,153ha)が韓国の宗教団体の海外進出農場 1号ならルビノフカ農場は 2003年に引き受けた第2号農場で、建物を改修して静かな田舎に位置し、信徒だけで はなく ‘アグロ相生’ 農場の訪問者たちの休息所としても活用される。

ルビノフカ農場は大体が豆・小麦・大麦を栽培する畑と草地、そして鹿農場にて運営されている。 農場総責任者 は高麗人ヤン・アレッサンドロ・イリア(58) さん。 中央アジア・ウズベキスタンから 1995年に沿海州に来て、2002 年ルビノフカ村に定着した。

‘アグロ相生’ 農場の開拓者でヤンさんを農場に連れて来たジェムチュージヌ農場の高ジョンソク(61) 総管理人 は “ヤンさんが学識がすぐれ、農業の基礎があり、一緒に働くようになった”として “高麗人として模範を見せて くれており、農場の大部分の仕事を任せている”と語った。

ルビノフカ農場にはヤン氏夫婦以外にウズベキスタンにいた妻の兄弟家族など 10名余りの高麗人が隣接する ネステロフカ農場(8,400ha)で一緒に生活している。 彼らは “適当な職業がなくて生活が大変だったが、今は貯金もして いる”と感謝していた。

鹿農場まで運営するヤンさんの一ヶ月の収入は都市大卒者の初任給料水準で、一般農民の 3倍にのぼる。 ウズベ キスタンから来たヤンさんの長男は農場責任者としてヤンさんを助けている。

ルビノフカ農場には、みそだま麹(メジュ)を作る施設を備え、冬の農閑期には高麗人とロシア人に多少の収入源になるだけで なく、両国人の紐帯感も高めている。 ここのみそだま麹は北方の良質の豆で作り、韓国で好評を博しており、注文が 増加し続けている。

去年 10月には KBS1 TV ‘経験!生活の現場’ 600回特集でルビノフカ農場で豆を収穫した後、みそだま麹と豆腐を 製造する過程が紹介され、有害性騒動が起こった中国産輸入農産物の代替農産物として注目を集めたりした。

翌日、農場で新鮮な野菜ともやし汁で朝食を終え、ハンカイスキー郡のイリンカ農場(6,050ha)に向かった。 同行した 李ユジョン宗務院長は忠清北道沃川が故郷で、 30代初盤まで農業をした経験を話し、“土地は嘘をつかない”と強調した。

イリンカ農場は豆、そば、 とうもろこし、燕麦、干し草など多様な作物を栽培している。 職員は 80人余りで皆 ロシア人だ。 セルゲイ・ビタリビッチ(33) 農場責任者は丁重に一行を迎え、作物の現況などを説明した。 責任者 を引き受けて3年目になる彼は、 “農場の仕事をして収入が出来たことも良いが、職員たちが酒を減らしてお弁当を こしらえて来て働くほどに真面目になったことが、さらに良い”と語った。

中露国境にまたがる巨大湖であるハンカ湖に接するアバンガルド農場(9,200ha)は、水路の施設がよく整備され、 稲作がよくできる。 韓国と同じ田植え式ではなく、種まき式であり、農地があまりに広いため、過去には飛行機で 農業をしたと言う。 映画俳優ダスティン・ホフマンに似たバレンティン・ミハイロビッチ(50) 農場責任者は農場ごと に同行して作物を説明し、車まで出してくれるという親切まで見せてくれた。

この日、アバンガルド農場事務室前の空地では、移動式屋台が開かれ、村の人々が寄り集まったが、製品の 80% 以上が中国産で “沿海州経済は中国が握っている”ということを感じさせた。

メルグノフカ農場(7,058ha)は上記二つの農場の会計まで引き受けるほどに比重のある所で、アレッサンドロ・イバノ ビッチ(62) 管理人は “去年に最高の生産実績をあげてジープをプレゼントにもらった”と誇らし気に語った。

彼は “農民の大部分が菜園で生計だけ維持していたが、農場で仕事を提供して収入が増えると、ここで働きたいとい う人が行列を作っている”と語った。ハンカ湖周辺の休息所や店で会ったロシア人たちが仲間に暖かいほほ笑みを送 ったのも、こんな農場の雰囲気と無関係ではないようだった。

続いて隣接するペルボマイスコエ農場(2万ha)、コミサロボ農場(5,000ha)を見回った宗団は “これから二つの農場を追 加で引き受け、米を中心とした韓国の未来の食糧基地を強化する計画”と明らかにして注目を集めた。

次の行く先‘アグロ相生’ 製粉工場のあるホロ−ル郡は、特別な意味がある。 まず農場で生産される穀物の 40% ほ どを占めている豆が、製粉工場で特殊技術により粉砕されて、 韓国内に持ち込まれ、 (株)渤海農園が ‘全豆腐’を作 るのに使われている。

工場責任者である金ヤンオン(40) さんは “豆を丸ごと 1,000 メッシュ粒子に粉砕する特殊技術は、日本と渤海農園の 2ケ所だけ”と言いながら “既存の豆腐と違い、豆の栄養をそっくりそのまま保存した全豆腐は、豆腐市場に大きな変化 をもたらすだろう”と自信たっぷりに語った。

ホロ−ル郡は過去、高麗人が多数存在した所で、製粉工場には高麗人が核心的な位置を占めており、隣近のルカセフ カ農場(3,500ha)にも高麗人がいる。 13年前、キルギスタンから沿海州に来たチョン・チョヤ(50・女) さんが農場責任者 を引き受けており、サハリンから来たユ・ジョンホ(47) さんはホロ−ル工場の全般的な仕事を引き受けている。

ホロ−ル郡での昼食は餃子スープとシャシリク(串焼き)、 パンなどの正統ロシア式で風変りな経験だった。

現地の高麗人たちの立派な仕事場提供

ルバノフカ農場に帰って来る途中に立ち寄ったウスリースク市場は、中国人と中国の品物で溢れていた。 “国境を密 かに越える中国人まで計算すれば、沿海州の中国人は 100万人にはなるだろう”というヤン。イリアさんの話が実感出来る。

朝鮮族同胞も結構目立った。 八百屋で商売をする金インスン(47) さんは “中国延辺自治州・図們市から 5年前に 渡って来た”といい “中国より仕事が多く、夫と一緒に来た”と語った。

市場を出ると、ウスリースク外郭の綏芬河畔の李相 先 生(1870〜1917)遺墟碑を訪ねて献花した。 1907年、高宗 の密旨を受けてハーグ万国平和会議にて韓国独立を主張し、沿海州で ‘声鳴会’、‘勧業会’を組織して独立運動 に献身した。 殉国後には遺言によって火葬され、その灰がここ綏芬河畔に振り撤かれた。

最終日には 1937年に高麗人たちを中央アジアへ強制移住させた歴史の現場に立ち寄った。 ウラジオストク隣近の ラズドリノエ駅と高麗人たちが農業をして暮したハンマダンという所だ。 当時、強制移住させられた高麗人は 17万 名余で、秋の収穫を目前にしたその年 9月末からだった。

宗団は高麗人たちの恨を慰め、その子孫たちの生活を支援するために高麗人の定着村があった場所のハンマダ ン農場(800ha)を買い入れた。 この農場では 10名余りの高麗人たちが働いている。

大巡真理会・李ユジョン宗務院長

"高麗人たちの生活基盤作る"


大巡真理会・李ユジョン宗務院長(69)は 2000年頃からロシアや中央アジアの高麗人に 関心を持って来た。 彼らこそ過去、独立運動に参加した人やその子孫たちであるはずなのに、 他の地域の海外同胞たちに比べて相対的に関心外に置かれて来たからだ。

“彼らは韓国も北朝鮮も祖国が国のために犠牲になった自分たちを捨てたと話していま す。 僅かでも彼らの助けになりたかったのです。”

大巡真理会は去る 2000年、韓国の宗教団体としては初めてロシア沿海州の農場開発事業に跳び こんだ。 沿海州アヌチンスキー郡の 2,700万坪の土地を 50年間長期賃借し、農業を 始めたのだ。 以後、事業を拡大して現在、沿海州全域にかけて 3億坪余りの規模の大規模 農場を引き受けた。 そして高麗人たちを最優先に農場経営に参加するようにした。

この宗務院長は沿海州と高麗人に対する関心と関連して、大きく三つの理由を示した。 第一に、沿海州が未来の韓国の食糧基地になるはずだということ。 これから食糧難が深刻 になり、食糧が武器化する場合、沿海州の農場が韓国の食糧危機に大きな役目をするはず だという展望だ。

第二に、 沿海州の高麗人のかなり多くの数が定着できずに漂泊したり、浮浪生 活をしており、彼らに ‘夢の土地’を提供するということだ。 第三に、沿海州が去る 100年 の間、高麗人たちの苦難に綴られ、 ‘抱寃の地’のようになったが‘希望 の地’に変えたいということだ。

大巡真理会は 2001、2002年の二度にかけて沿海州農場周辺の高麗人 40人を韓国に招請、 15日間の韓国を体験して韓服などのプレゼントを渡した。 今後とも毎年、高麗人たちの母国訪問 を斡旋し、彼らが沿海州で自負心を持って生きて行くようにすると言う。

このために高麗人に対する経済的支援は勿論、 韓国語が分からない高麗人 2、3世の ために韓国語学院を作り、長期的にはここの年寄りたちと子供達のための養老ホーム、 孤児院なども立てる予定だ。


▲沿海州ウスリースク近郊の綏芬河畔に立てられている独立運動家・李相先生の遺墟碑
▲大巡真理会・李ユジョン宗務院長
▲ヤン・アレッサンドロ・イリア氏(右端)家族
▲チョン・チョヤさん/写真説明は左から

1937年、中央アジアへ強制移住させられた高麗人の子孫たち
沿海州で新しい巣を用意、 国籍問題など解決が急務


沿海州の高麗人の中には 1937年に中央アジアに強制移住させられた先祖の子孫がかなり多い。 1990年代、沿海州に帰って来た人員は 4万名余りにのぼる。

ルビノフカ農場の責任者であるヤン・アレッサンドロ・イリア(57)さんもその一例。ヤン さんの祖父は 1890年代、咸鏡道から渡り、沿海州に定着してから 1937年、ウズベキ スタンに強制移住させられた。

ヤンさんはウズベキスタンで高校を卒業して 19歳の時、ウクライナで大学入学を志していたが、 お金の問題で諦め、 95年に沿海州に来た。 ナホトカで野菜農業をしたヤンさん は洪水で農場が壊れた後、ルビノフカ村に入って来てから ‘アグロ相生’農場の開拓者 であるジェムチュージヌ農場の高ジョンソク(61) 総管理人と縁を結び、現在、農場で 働くようになった。

ヤンさんは “農場で働くようになった上に、ロシアの市民権を得てこれ以上の喜びはない”と語った。 ヤンさんは初めてロシア人の指揮を受けたが、誠実とリーダーシップで 農場総括責任者に推戴された。 その後ウズベキスタンに残っていた妻の兄弟家族まで呼び入 れ、現在、隣接するネステロフカ農場(8,400ha)で働くようになった。

ヤンさんは “まだウズベキスタンへ連れて行かれた人々の子孫が多いが、友達は年をとっているので仕事が難しいし、 若者達はモスクワや大都市に行こうとするので、沿海州まで来る人はとても少ない”という。

ホロール郡ルカセフカ農場(3,500ha)の責任者であるチョン・チョヤ(50・女) さんの祖父は ソウル近郊から 1930年代に沿海州に行ってから 1937年、中央アジア・キルギスタンに強制移住させられた。

チョンさんは 1993年、沿海州に来てホロール郡の学校で歴史、地理の教師で、宗団関係者 の通訳などを助けながら現在に至った・ ご主人は小売業と農業をし ており、息子カン・セルゲイ(23)はアメリカ船舶の遠洋漁船で働き、娘カン・イリア (17)はウスリースクで学校に通うと言う。

チョンさんは “中央アジア高麗人には ‘国籍’が重要なので、沿海州で国籍を持つように なったら、もっと多くの高麗人が移住して来るだろう”と展望した。

(週間韓国 パク・ジョンジン記者 2006年7月11日)
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