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[特集] 金・上京遺跡地に残ったのは荒廃した黄土のみ


▲古い城壁と堀


▲皇城第四殿の跡

高い城壁、レンガ... などは金王朝の歴史遺跡を代表する金源文化の観光風景で、当時の金の勢力を連想することができる。 金の太祖・阿骨打が建国した時から 1153年、海陵王が首都を燕京(後に中都、今の北京)に移すまで、金はここで 4人の皇帝が 38年間統治して来た。

首都を移した後、ここは随分破壊されたが、女真族の発祥地であり、金時代には相変らず東北北部の政治、軍事、経済と文化の中心と 位置付けられていた。金王朝の前半において、上京会寧府は重要な戦略的地位を占めている。 1982年、国務院は金・上京会寧府遺跡地を 全国重点文物保護単位として公布した。

上京会寧府遺跡地の現況

金王朝の当時、ここは 38年間、政治、軍事、経済、文化の中心になって来た。専門家によれば金・上京会寧府は南北 2つの城で分けられ、 長方形型であり、城壁周囲の長さは 11kmだ。 現在、城壁は堅く押し堅めた黒土型建築物で、表面は耐火レンガだが、現地の住民によってほとんど崩されている。

現在の城壁の高さは 3〜5m、一部の地域は 7〜10mに達する。 破損された城壁の黒色、黄色の土層の間の跡は相変らず明確だ。 この長年の 城壁の外壁の平均間隔は 80〜130mほどでバラバラであり、城壁表面には馬の顔の絵が 89個(元々の総数は 92個)ある。 古代の戦争の時、 馬の顔の城壁は主に防御作用をした。 金・上京城の馬の顔の絵は城の南側に集中しており、皇城の安全のために作ったものだ。 その他に金・ 上京城外の壁から大量の矢や石器など武器が出土、これは金・上京を矢や石で防御して来たことを物語っている。

会寧府と白城の伝説

金・上京会寧府遺跡はまた白城とも言う。 白城という名について、民間には主に 3つの言い伝えがある。

一番目の伝説:女真族は白を好むだけではなく崇拝までしたと言う。 城内の建築物は灰白色が主で、民の着る服も白色だったし女真族の戦士たち も白い兜などを使った。 だから上京会寧府は白城とも呼んだ。

二番目の伝説: 金王朝で普通、雀は皆灰色で花模様になっている。特に上京会寧府城内には白雀しか見られない。 だから白雀は上京会寧府内で 独特な存在であるという意味で、白城とした。

三番目の伝説: 金朝末、モンゴル軍が 1年かけて上京会寧府を侵攻したが、城が堅固だったため、占領出来なかった。 後にモンゴルのある将軍が 会寧府内の白雀が昼には城外へ、夜には城内に行き交うことを見つけ、白雀に硫黄弾と硝煙弾を縛って夜に城内へ放した。 すると城内は大火事になり、 侵攻しなくても自然に滅びて行った。 白雀による失敗に因み、この城を白城とも言った。

防御手段の新しい創造物−瓮城

金朝の新しい創造といえば、瓮城を設置したことだ。 専門家によれば現在、西安等に残存している瓮城は全て金王朝以後に建設したものだ。

瓮城は主たる城門の外にあって周りに城壁をさらに一層積み上げた。 瓮城は大部分湾曲した形になっていて、城門正面の侵攻を阻むのに有利 なことが多かった。 瓮城の両側は城壁と連携されており、矢防御層、閘門などに設置された. 同時に瓮城城門は主要城門と一致せず、金槌などの 攻撃を阻むことができる。 金・上京遺跡に残った瓮城は主要城門を囲んで弧形に建設された。

自分の子孫によって滅びた上京城

上京会寧府は金王朝の第1首都だ。 現在残ったのは破壊された城壁と瓦の破片だ。 取材チームによれば、これは結局、女真族の子孫たちによって滅びたのだ。

金・上京会寧府は金・太宗が政権を取った後、1124年に補修建設したものだ。 城は遼、宋の風格にて建築された。 金・上京城の建設は中間線の設置、 均衡、対称などの方法を取り、道端を区分した。 また宮室を建築し、上京城が中国中世期最北端の大都市になったこともある。

金・上京会寧府は金朝第3代皇帝・金熙宗の時期、上京皇城と宮室を建設、拡張した。 1138年、宮室を拡張した時、宮殿、宮室、八座殿字楼を作った。 この時、上京城の内外は既に専門商業区が出来ており、道端両側には店舗があり、繁栄していた。

海陵王が都を燕京に移した後、 1157年、上京を破壊してしまい、これによって会寧府皇城宮殿、宗廟などは焦土化した。 1162年、金・世宗は太祖廟を 再び建設し、 1181年、宮殿と垓子廟を再び建てた。この時、破壊された古い宮室、宗廟の大部分が原状復旧し、蓄慶寺だけが復旧されぬまま残ったと記録されている。

1218年、金・上京地域はモンゴル騎兵たちにより陥落した。金朝後期、上京城は完顔太平と浦顕万奴が結託して、上京宗廟など大規模な建築物を焼却した。 上京軍隊が万奴と抵抗する中で上京城はひどく破損したが、上京城は元、明の時期にも引き続き使うことができた。

金・上京は最後に女真族の子孫である清時代、満族政府によって徹底的に破壊された。 1725年、清朝は現在の阿城市に阿勒楚喀城から始めて金・上京の すべての残存建築物を清算し、再び新しい都市を建設した。現在、金・上京は荒廃し寂寞とした黄土だけが残り、人々に歴史の証拠物を事実でもって見せてくれている。

(黒龍江新聞 2006年6月9日)
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