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[社会] 青い草原に白衣民族の息づかい強く−内モンゴル


▲呼和浩特市全景

ここは内モンゴルの見渡す限りの大草原。この大草原に我が民族が水田を開拓して根付いてから 100年余り、先祖が血の汗で掘り起こした基盤を堅固に守り熱心に生きて行く同胞たちがいる。

私たちが内モンゴル自治区の首府・呼和浩特(フフホト:モンゴル語で'青い都市'という意味)に到着したの は 4月 11日、初春だから黄砂が飛び交う上に気候が肌寒い。果てしなく開かれた大草原はまだ黄色い雑 草が春の風にそよいでおり、多少荒れて寂しく殺風景な感じもしたが、大草原の雄大さ・壮厳さと巨大さを そのまま受け止めることが出来た。

まさに私たちが踏みしめるこの内モンゴル大草原、この草原でモンゴル帝国を建てた偉大なるチンギス・ ハーン (1162-1227)が千軍万馬を号令して大草原を一瀉千里に走った雄大壮厳な馬の蹄音が耳元をか すめた。その馬の蹄音を遠ざけつつ聞こえるアリランの歌、 内モンゴル大草原で私たちの同胞が荷物を 解いてアリランを歌い始めたのは 100年余り前。今もこの大草原でアリランを代々引き継いで歌っており、 このように親切で生き生きと聞こえて来るのだ。

中国の北部辺彊に位置した内モンゴル自治区は、東北から西南へすっと伸びた狭くて長い帯に似た形態で、 東西の直線距離が 2400km、南北の直線距離が 1700kmだ。東、西、南側は黒龍江、吉林、遼寧、河北、 山西、陝西、寧夏、甘粛など 8つの省と隣接しており、北はロシア・モンゴル人民共和国と隣接している。ここに 49の民族、 2100万名が暮しており、各民族のうち朝鮮族の人口が 7位で 2万 2000人余りだ。内モンゴル自 治区建設環境保護庁の元庁長として活動してから定年退職した廉浩先生の紹介によれば、内モンゴルに朝鮮 人の定着した歴史は東北と似た時期であり、100年余りの歴史を持っている。

1897年、帝政ロシアと清政府は中東(東清)鉄道の敷設協議を締結して何年間かの工事の末に 1903年に完成 した。中東鉄道を敷設する時、多くの朝鮮人たちが鉄道工事で労役をしたが、工事が完成すると、一部は鉄道 で働くようになり、一部は川に沿って水田を開拓して稲作をしながら定着するようになった。

彼らが初めて内モンゴルに根付いた後 20年代と 30年代に独立運動の志士たちが日本帝国主義の魔の手を 避けて遠く内モンゴルに農場を作り、運動資金を集め、同じ時期に多くの朝鮮人たちが日帝の圧力に負けて内 モンゴル地域の嫩江、松花江に沿って水田を開拓、新しい生活の場を作った。

1924年当時、韓国光復軍参理部長であった趙秉準は、上海の大韓民国臨時政府の委託を受けて黄河辺の ソトンフルトウという所に配達農場を作り、 1926年、チンギスカン鎮で朝鮮人 14戸が水田農業を試みたが、 気候が合わずに失敗、 1939年に東北各地へ流れた朝鮮人 300人余りが再びチンギスカンに入って来て水を 堰き止め、水田を開拓することに成功した。そして集団的な移住では 1947年、牡丹江地域の自発的に組職さ れた朝鮮人難民 200と余りが阿栄旗 新発に定着して水田農業を開拓したのが、今では内モンゴル自治州全 体で唯一の朝鮮族郷として残っている。

解放の後にも砲頭鋼鉄工場の建設、草原建設、製紙工場、ゴム工場の建設を支援して東北三省の朝鮮族たち が内モンゴルへ行ったが、大部分が西部内モンゴルに散在している。改革開放の初期、呼和浩特、ウランホト、 ハイラル、満州里等に東北の朝鮮族何百名かがキムチ商売や食堂をするために内モンゴルに進出したが、今は 大部分が帰り、その場所にそのまま残って発展した事例は数えるほどしかない。しかし東北の朝鮮族が改革開放 初期にキムチ商売や食堂を始めながら我が民族の食品文化を内モンゴルに伝えたのは容易なことではなかった。

モンゴル族は狗肉と辛い食べ物を嫌がる。 それで初めは狗肉と辛い食べ物を食べず、朝鮮族飲食店を経営する 朝鮮族は随分苦労したという。.しかし味を無視しては話にもならないのが我が民族の食べ物文化のようだ。朝鮮 族正統の食堂で見ると、モンゴル族ももう汗をだらだら流しながら狗肉湯をよく食べるのを見れば、朝鮮族たちが 満ち潮のように内モンゴルに進出してから引き潮のようにすり抜けて来たとはいえ、今も呼和浩特やウランホトに 行けば、チンダルレ、アリラン、韓国宮、延吉焼肉、朝鮮狗肉家などの看板を掲げて我が民族の伝統料理に固執し、 大きな食堂を経営している有難い方々がいるかと思えば、商売はうまく出来なくても市場でじっと座ってキムチを売る おばさんたちをたまに見られる。

改革開放と共に韓国人も内モンゴル大草原に注目はしているが、まだ活発な状態ではなく、観光客がたまに 出入りして稀に中小企業が視察に来る程度だ。呼和浩特に行って韓国旅行社や韓国独資あるいは合資企業の 看板を捜すのはさほど難しい事ではない。

ここでは韓国人経営の韓国料理店も見つからない。それでも韓国企業がないわけではない。 2002年度までの 統計によると、韓国の 81の企業が内モンゴル自治区に入って来たが、ほとんどが中小企業で、紡織業、衣類製造 業、養殖業、食料品加工業、木材加工業に従事したが、今はどれだけが残っているのか具体的な統計を出しにくい 状況だ。しかし韓国人の内モンゴル草原に対する好奇心は今も途絶えてはいない。

今年に入って 1月から 3月の間の統計によると、韓国との貿易額が 464万ドル、韓国企業が 42万ドルを投資して 赤峰に新韓農業貿易公司を設立、呼和浩特市に独資企業としてそれぞれ 20万ドルと 1万ドルを投資、興安盟に 韓蒙養豚場に 1万5000ドルを投資した。もちろん規模が小さく、投資額が多くはないが、投資誘致優遇政策と内 モンゴル草原の独特の資源メリットを説得力ありげに広報し、朝鮮族が韓国との紐帯の役目をよく果たせば、 これから韓国の投資誘致もますます増加するだろうと、朝鮮族有志の人々は信念を見せてくれた。

呼和浩特は内モンゴル自治州の首府であるが、朝鮮族の 3分の 2は東部内モンゴルの興安盟と呼倫貝爾盟 に居住しており、呼和浩特市には 1100人余りの朝鮮族が暮している。言葉どおり、本当に米粒ほどに少ないが、 彼らは一人のように固く団結してお互いに助け合い、一生懸命に生きている。職場生活をして商売をして忙しく 走り回りながらも、民族の精神を守るという使命感を抱いて、民族のことなら率先して取り組む。

呼和浩特に暮す朝鮮族の人々は、内モンゴル朝鮮族研究会(自治区民政で公式批准した社会団体)を作り、 内モンゴルの朝鮮族の政治、経済、文化、教育など諸般の分野を取りまとめ研究するだけではなく、朝鮮族の 親睦と和合に助けになる行事を行いもする。 彼らは既に "内モンゴル朝鮮族"という本と "朝鮮氏姓系図全書"も 出版、発行した。そして毎年正月三が日には自前のお弁当を持って一堂に集まり、名節の喜びと出会いの喜悦 を満喫し、春には青い草が芽生える草原に出て野遊びも楽しむと言う。

朝鮮族が根付いて 100年余り、先祖たちが血の汗で開拓した内モンゴルの土地で熱心に生きて行く同胞たちの 明るい姿を見て、私たちは彼らの燦爛たる未来を描いて見ることが出来た。

(黒龍江新聞 イム・グクヒョン、ナム・ソク記者 2006年5月11日)
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