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[特集] 張律監督が直接語る映画<芒種>



張律監督の二番目の長編演出作 <芒種>が、来る 3月 24日に封切りを控えている。 前作 <唐詩>に続き今度の作品でも中国内の少数民族である朝鮮族の生活に焦点を合 わせた張律監督は、キムチを売る朝鮮族女人・崔順姫を通じて女性差別と民族差別に ついて語る。映画 <芒種>に対する張律監督のコメントを伝える。

張監督の二番目の長編演出作である <芒種>は世界有数の映画祭で受賞し、彼に国際 的な名声を抱かれてくれた。 去年、フランス・カンヌ映画祭評者週間 ACID賞、イタ リア・ペサロ映画祭大賞、釜山映画祭ニューカランツ賞などを受け、去る 2月に閉幕 したフランス・ヴズールアジア映画祭でまた大賞を受賞して注目された。

中国延辺で生まれ育った海外同胞 3世人・張監督は、延辺大中国文学科教授を勤め、小 説家としても活動した履歴がある。 2000年デビュー作である短編 <11歳>でベニス映画祭 短編競争部門に進出し、 映画に対して特に勉強した事はない。

キムチを売る主人公・崔順姫

朝鮮キムチを売る女性たちは各地で一種の風景となっている。 賑やかな都市でも 山間僻地でもどこでも、彼らの姿がある。 彼らは最下層で差別的で不公平な待遇に直面し、克 己と忍耐の中で恥辱に耐え、重い責任を負って生きて行く。 その渦中でも人間 の尊厳性を力の限り守り通し、弱者の生存権を獲得しながら自分の民族の特産の食 べ物で苦しく生計を立てて行き、黙々と犠牲になる。

朝鮮族とキムチ

彼らは我々の肉親あるいは姉妹だ。 彼らの姿を見る度に、私はいつも我知らずある単語、す なわち ‘清潔’を思い浮かべる。 キムチが清潔で器が清潔であるのみならず、 彼らもやはり清潔な心を持っている。 私がこの地点で指摘しておきたいのは、こ のように清潔な心を持った人間がどのように困難に対処し、どのように崩れるようになるかという問題だ。



テロリズム

私自ら捜し出したキーポイントは ‘テロリズム’だ。 ここで言う ‘テロリズム’ は特定の政治的概念ではなく、日常生活の中の強さと弱さ、圧迫と反圧迫の間で造 成される悲劇まで含む言葉だ。 恨み、復讐のような‘テロリズム’の要素は民 間の土壌で自分勝手に繁殖し、災いを起こす。

‘テロリズム’は私たちの周辺ひいては私たちの心の中に存在する。 芸術は ‘テロリズ ム’という問題を解決してくれることはできないが、芸術だけが ‘テロリズム ’の中に暴れる魂を慰めることができる。 芸術作業者として私たちは必ず、芸術が 窮極的にどこに関心を置かなければならないものかをはっきりと認識しなければならな い。

貧しい人々と下層民

原則的には神の前ではすべての人間が平等で、 芸術の前でも当然すべての人間は平 等だ。 しかし私は常に神と芸術はある程度は心的に一方に傾くと思う。 すなわち 最小限、少しは貧しい人々と下層民たちに傾かなければならない。 そうでなけ れば神と芸術の存在基盤自体が疑わしくなると思う。

これは芸術を売るのではなく、道徳を捜すことに努力を傾けたいということだ。 私もいわゆ る道徳と言うものは、永遠に到達することができない地平線のようなものだということは分かって いる。 しかし珍しくも、このいつわりで空しい地平線は私たちにしばらく少々の暖か さと漠然たる希望を抱かせてくれたりする。

中国北の外郭地域



ただ大きな北部地域を選択しただけであり、特定の地域色を選択したり造成したわけではない。 こんな風景は中国の北部地方の至る所に存在する。 わざわざそうする理由は、まさに地域性 を曖昧にさせるためであった。何故ならば、荒れて寂しい工業風景はどこにでも あって大同小異だからだ。

一部の大都市の表面的な賑やかさの外に、他の広い周辺地域は盲目的に工業化を推進し、 何の後続措置もないため、どこもかしこも荒れて寂しくて退廃的な工業的な姿になって しまった。 私たちはどうしてますますもっと似た姿に変わって行くのだろう? その点を論議して見たかった。

鉄道沿線の捨てられた家

場所探しの初日、私はスタッフたちを連れて北京の北部外郭地域へ車に乗って出 かけた。 車を走らせてから 40分も経たないうちに、私は急に運転手に分 かれ道のうち小さな道へ車を走らせなさいと勧めた。 やや過ぎて鉄道沿線の捨てられた 家(映画の中の主人公が住む家)に至った。 そしてレールを横切って小さな駅の待合室から 遠く開けた麦畑と向い合った。

最後の場面

私はすぐにその空間を主な撮影地に決めた。 一気に一番最後の場面で主人公が帰る道 を見つけることになったわけだが、これはすなわち創作者の立場から見れば結末か ら考えが始まるようなものだ。

当時、皆が反対し、私の決定があまりにも急で軽率だと言ったが、私は固執を曲げなかった。 何故ならば、私は本当に彼女が徘徊する後姿を見つけたと思ったし、その後姿は私を途 方に暮れたように心を痛くさせ、人生のはかなさを感じると同時に回想させたからだ。

なおかつ不思議なことに、この後姿はまたゆっくりと私を安定させ始め、 終わりに突 然彼女が私から遠く消えるのではなく、後姿という形態で私に近 付き、心の中に走って入って来るのを見つけた。 それで音響を処理する時もこ のような原則にて付いて行った。 暗転後に足音は私たちから遠く消えるが、ある場面では その音はまた生き返り、終りもなく私たちの心の中にかけて入って来るのだ。 場所の決 定は確かに軽率だったが、幸いにして正確な決定でもあった。

‘中間トンネル’の設定について

私たちが撮影した場所・崔順姫の家と娘たちの家は、元々繋がれて一つになった建 物だったが、私の考えにはとても ‘窮屈’なようだった。 それで美術監督にこの問題を 解決するように頼み、美術監督は直ちにその建物に ‘中間トンネル’ を作るアイデアを出した。 これを通じて話の中の重要な設定の一つを解決した。

主人公が住む部屋と娘たちが住む部屋の間の ‘トンネル’と汽車駅の待合室は 主人公と息子との関係において非常に重要な要素だ。 息子は毎度登場する度に ‘ト ンネル’を通って現われ、出る時も ‘トンネル’を通じて出たり入ったりする。 トンネルは息子の専用通路の役目をする。

待合室

待合室も同じだ。 息子は何回もいつも待合室の他の一つの面(駅前の広場と言える)に入って来 てプラットホームに向けて鉄道を通ってトンネルを経て家に帰る。 彼の母親であ る私たちの主人公と息子の行く道は完全に相反する。 彼女はトンネルを経ないし待 合室方向には向かわない。

ただ最後の場面、最後のショットでトンネルを通過し、鉄道を渡った後、待合室を経 て麦畑に向かう。 これはまた遂に彼女が息子の道を行くことを意味する。 勿論、 この 麦畑は設定だ。 私たちは駅前広場に芝を敷いて遠く見える麦畑と繋がれるようにした。 これ以外のすべては工業的風景だ。



芒種

私の考えでは、私たちはたとえ工業的環境の中に身を置いていても、生理的なリズムは相変 らず農業的リズムだと思う。 最後の帰結点を農業の発生そして土地の発生と連携させて考えるのが、 (私たちには) 慰めになるだろう。 そのため、映画の題目さえ中国の伝統的な 農業社会の節気である “芒種”と付けた。

この節気は 6月 6日前後であるが。 作物の収獲と新しい種子の種蒔きする 期間の間に位置する時期だ。 このように収獲と種まきの時期は相変らず人間に一種の希 望を抱かれてくれる。 しかし私がこのような希望をあまりに迂迴的に表現し、うまく描けなかったのではなかろうか と心細かったりする。

音楽を使わない理由

音楽を拒否したのではなく不必要だったからだ。 周辺の音と音響が、既に私が表現した いところを現わしてくれた。 音楽のある映画の大部分は常に私の注意力を壊してしまうか、映画 に対する考えの筋道を他の所に吹き飛ばしてしまう。(水と油の関係のように)。

もちろん例外もある。 アメリカのジム・ジャムシ監督の映画に音楽がないことは想像 しにくい。 なぜなら音楽が既に映画の肌を成しているからだ。



(マックスムービー 2006年3月20日)
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