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![]() [教育] 碑石の父 81歳の崔根甲翁、15星霜汗流しひたすら民族のルーツ探しに専念、龍井に 10個の遺跡碑立てる 真冬のような酷寒が骨に染みた去る 3月 13日、龍井市東南郊外の合成利 “3.13”反日義士陵では、龍井市と延辺各地から来た知名人 150人余りが 集まって “3.13”反日運動 87周年記念追慕行事を行っていた。 寒風に白髪をなびかせながら一人の老人が激昂した声で追慕演説をしている。 “一つの民族として、自分の民族の歴史を大切にせず守ることが出来ず、忘れてしまったら、その民族自体も後には滅亡してしまうでしょう。 だから私たちは誇り高き私たちの歴史を惜しみ、守って行き、広報しながら龍井の人間という高い自負心と使命感で、先烈たちの革命精神を見習い、 引継ぎ、事業をしっかりと遂行し、龍井の現代化建設のためにさらに大きな寄与をしましょう。” この老人こそが龍井で“碑石の父”として名前を知られた崔根甲(81歳)翁だ。 1990年、龍井市 “3.13”記念事業会が発足された後、今日までずっと会 長職を引き受けて来ており、幾多の遺跡地を発掘、記念碑を建てて龍井の観光事業のために業績を積み、後代養成の基盤を作った。 “1989 年、韓国東亜日報文化部部長・李ヨンチョル氏が‘3.13’反日運動座談会に参加するために来た時、この墓所について聞いてから初めて分かる ようになったが、下半期から捜し始めました。 半年間 32人の老人を訪問して、数十回の踏査をするうちに、合成利の方チョンホ(当時 81歳)老人から偶 然に <万歳墓地>があつたという話を聞きました。 独立運動をしている途中、犠牲になった人々を埋めた墓所とのことでした。 その老人に付いて考証した 結果、果して私たちが苦労して捜した墓所でした。そして 1990年 4月 10日に定め、5月 19日に延辺各地の有志たちが集まって追慕会を開くようになりました。” 崔根甲先生はまだ墓所の手がかりを見つけて捜し出した当時の激動した心情を隠すことができなかった。 崔根甲先生は定年退職前の専攻は建築だった。 彼は延辺の都市と貯水池建設に貢献したところが大きい。 それは 1944年、龍井恩津中学校土木建築科を卒業し たおかげだった。 ところで、どうして自分の専攻とは無関係な歴史にこんなにのめり込むことになったのか? “1989年 10月、私が龍井市対外経済文化交流会の会長だった時、偶然に延辺大学教授の朴昌c先生とソウル仁荷大学の尹ビョンソブ教授が私を尋ねて来て、 龍井の <3.13>を知っているか、独立万歳墓地を知っているかと聞くのでした。 そのほとんどを私は全然分からなかったため、恥ずかしいが <分からない>と 答えるしかなかったのです。 瞬間、胸の中から羞恥心が湧き出ますね。 私の父も独立運動に参加したという<罪目)で西大門監獄で 3年間獄苦を経験した両班 でした。 そして私は日本奴隷化教育を受け、民族心も相当に鍛えられたはずでした。こんな私が自分の民族の歴史には文盲なのだから、恥かしいとしか言い ようがない。” それで始めたのが歴史史跡の発掘だった。歴史というものは、当代に掘り出して照明しなかったら歳月の流れの中に消えるてしまい、忘れられてしまうでしょ う。 適切に我が民族の歴史を掘り出して歴史の書物に書きとめ、形式が様々な革命遺跡地を修復し、革命伝統教養の基地を作り、観光遊覧地にもなるようにし ようというのが当時の考えだった。 崔根甲先生はこの考えを直ちに実践に移した。 ところで、資金をどうやって解決しなければならないか。 崔根甲先生はカナダ、アメリカ、日本、韓国、香港 などの国・地域にいる龍井の恩津中学校、大成中学校、東興中学校などで勉強した事のある同窓や友人たちをいちいち訪問しながら、基金をつくり、 それとともに記念碑の建造に拍車をかけた。 彼の努力によって龍井市の史跡地に結局一つ一つの記念碑が建てられるようになった。 1906年、李相卨 が立てた 現代式学堂である瑞甸書塾(現在の龍井市実験小学校)、独立運動家養成を目的に 1908年に金躍淵が創設した明東学校(現在の智新鎮明東村)、1920年にカナダの 宣教師たちによって立てられた恩津中学校(今の龍井市東山)、“3.13”反日運動大会場(今の龍井市第1幼稚園)、“3.13”反日烈士陵園(智新鎮合成利村の山す そ)、15万元奪取遺跡地(智新鎮勝地村)、1920年庚申年大討伐当時、日帝が村民たちを無差別大量虐殺した東盛涌鎮獐巌洞惨案地(東盛涌鎮)、“5.30”暴動記念 碑(智新鎮勝地村)、金躍淵功徳碑(智新鎮明東村)等々だ。 しかしこのような事を推進するのは順風満帆ではなかった。 一方に記念碑を建てれば、一方では不当 だという理由でとり除かなければならないという世論もあった。 そして崔根甲先生は老躯の身で州党委、龍井市政府を含む該当部門を靴底が擦り切れそうにな るまで歩き回り、交渉もして説得もして時には “大きな声”も出さなければならなかった。 2000 年 12月、崔根甲先生は “中国朝鮮民族の足跡総書”(全8冊)、 “民族簡史”(漢文)、 “輝かしい歴史”(漢文) などの本を出版し、州党委・陳凱峰副書記を尋ねたが会えず、宣伝部副部長・馬キョンボンに会って熱情的な 接待を受けながら自分の見解を打ち明けた。 崔先生は馬副部長に “延辺の歴史学者たち、あるいは省科学院の学者たちを集め、真実の歴史を研究させなさい” と建議したりした。 “多分その意見が後で採用されたのではないかと考えられます。 私が建てた碑石は、今まではすべて健在だからね。 しかし ‘間島碑’、‘先駆者碑’ などは 全て撤去されました。” まず歴史的な認識が明確でなければならないというのが崔根甲先生の信条だった。 間の島、すなわち間島は日帝が中国侵略を目的に創作したものだから記念碑を 建てるとかすることが適当ではなく、龍井で歌われたこともなく、光復以前には聞くこともできなかった歌 “先駆者”を独立運動歌として綺麗に碑石を建てると いうのは歴史の歪曲だから不当だというのだ。 “民族詩人・尹東柱の墓所も日本の大村さんではなく、実は我々が先に見つけたのです。” 崔根甲先生は尹東柱墓所を発見した経緯を打ち明けた。 昔から尹東柱や尹東柱の詩をよく知っていたアメリカに住んでいる学者・玄ボンハク先生は、 1983年 8月、在米同胞 13人を率いて中国を訪問した時、延辺 の有志たちと自治州政府外事処に尹東柱の遺跡、特に墓所を探してくれるように頼んだ。 しかしここではその時まで尹東柱が誰なのかを知ることができなかっ た。 その時を玄ボンハク先生は “尹東柱の遺跡地を尋ねて”という文でこのように書いている。 “‥‥翌年の 1985年 7月、 第2次団体中国訪問をした時、私はひたすら尹東柱の墓所についてのみ聞いた。 すると意外にも龍井市対外文化経済交流協会・ 崔根甲理事長、龍井中学校ユ・ギチョン校長、そして延辺農学院・金ドンシク教授らから墓所を見つけたから、来ていただければ案内をしてあげると言う嬉 しい知らせを聞いた。 しかし不幸にも一晩の土砂降りの雨のため、私たちの乗ったバスは東山墓地の丘に上がることができなかった‥‥” 尹東柱墓所を初めて発見した時を、崔根甲先生はこのように語った。 “墓碑はまともに建てられていたが、封文が少し消えていました。 しかしあまり損傷を受けていない状態でした。 私たちは墓地を保護するために石を積ん で煙瓦でまわりを囲んでおきました。” ▲ 崔根甲先生が龍井に立てた遺跡碑の一部 2004年 6月、吉林省朝鮮韓国学会会長であり中国社会科学院韓国研究会理事である陳龍山一行が龍井に来て崔根甲先生を訪ね、歴史観、民族観、祖国観に ついての調査を 6時間もした。 その時、崔根甲先生は “私たち延辺の朝鮮族は汗と涙でこの延辺を開拓し、建設して守り通し、他の民族より何倍にもなる 犠牲を出した。 どんな民族であれ、自分の民族歴史観を正確に樹立しなければならず、正確な歴史観を樹立して初めて祖国観、民族観を解決することができ る”と語った。彼の見解に対して陳龍山教授は同感を示し、満足した。 崔根甲先生のこれまでの労苦と哀歓、功労で延辺学術界と歴史界では、彼を親しみを込めて “碑石の父”と呼んでいる。 “しなければならないことが多いです。 私の年は今年で 81歳だから、思う存分暮しはしたが、その年を逆にして 18歳青春で我が民族のルーツ探しにもう一 度力を尽くしたいです。 今年は延辺朝鮮族の反日運動が始まって 100周年になる年日です。 これを記念するために今からまた走り回らなければなりません。 民族のため、今もやらなければならないことがあるということほど大きな誇りはありません。” “碑石の父”− 崔根甲先生は 18歳の青年のように顔に紅潮させていた。 (延辺日報 キム・チョルホ記者 2006年3月17日)
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