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[社会] 韓国人を感動させた華僑・韓晟昊博士

韓晟昊博士の成した業績は国外の人々から極めて高い賞賛を受け、彼は凄い中国人、中国の巨人と呼ばれた。

韓晟昊博士の業績碑文から


▲ 韓晟昊博士

韓国華僑界に韓国第13代大統領・盧泰愚から 《とても凄い中国人》という評価を受けた方がいる。 この方の事務室の壁にかかっている写真額には胡錦涛、李鵬、朱鎔基、李瑞環など中国の中央指導者たち と一緒に撮った写真があるかと思えば、韓国の盧泰愚、金泳三、金大中などの大統領そして総理と多くの政党 の総裁たちと一緒に撮った写真だけでなく、若かりし頃の蒋介石と一緒に撮った写真もある。 彼の業績は 《大韓民国現代人物誌》にも上がっている。

彼は果してどんな人物なのか?

韓国歴代大統領の御医と呼ばれる愛国華僑・韓晟昊(79歳)博士だ。 現在、大韓民国新東和漢医院院長、 《韓華天地》雑誌社会長、韓国儒教協会顧問、韓中友好協会顧問、韓国華僑達磨仏教会長、韓国寿石人 総連合会首席副会長、中国全国華僑連合総会顧問など 10種類余りの社会職を一身に引き受け、愛国偉業 の遂行に献身している韓博士、彼は韓国で知らぬ者がいないほどに有名だ。

悪夢のように不幸だった過去

韓晟昊博士の本籍は山東省諸県だ。1909年、彼の親と何人かの叔父は諸県北部のある小さな村から吉林省 長白県の鴨緑江畔に避難して来て腰を据えたが、意外にもそこで砂金鉱を見つけ、砂金を掘って大金を儲け はじめ、十数年後には当地で名高い金持ちになった。

韓晟昊は 1927年 8月 28日生で、原名は韓早先だ。 幼い頃から賢かった彼は、12歳で小学校を終えた後、 すぐ臨江高等学校に入学し、 16歳にはまた吉林国立師範大試験に合格して長白県史上最初の大学生にな った。 大学で勉強する時、日本警察に理由もなく捕らえられ、なぐられて閉じこめられた関係で彼は日本人と 聞けば歯ぎしりした。 1945年、大学 3年生の時、日本警察に引かれて行って深い山奥で苦役を強いられ、 ややもすれば日本人の銃刀に突かれて死にそうになったこともあった。

1945年、日帝が投降をすると日本が管轄した吉林師大も門を閉め、ちょうど 3年生を終えたばかりの韓早先は 帰郷して中学校で語文を教えた。 1947年、東北では地主を打倒して土地を分ける土地改革運動をしていたが、 韓早先は国民党特務、反革命暴動の組織者として誤って烙印が押され、死刑判決を受け、彼の三番目、五番目 、七番目の叔父は叩かれて死に、母は恨みを抱いて自殺した。 父と兄も行方不明になった。 彼は処刑される前、 公安局にいた同窓生の救援で山奥へ逃げる途中、後から飛んで来る銃弾にけがをしたまま深山の中で 50日 余りの間転々としながら大変な逆境を経験した。そうして韓国へ逃げるしかなくなった。

国民党に幻滅を感じ政治を放棄

ソウルで彼は韓国駐在台湾大使館の試験に応募して僑務秘書に抜擢された。

ソウルへ来た韓晟昊は、国民党に加入すると同時に、国民党中統務組職にも参加する。 朝鮮戦争の期間に功を立てて、 続けて蒋介石と蒋経国の単独接見を受け、同時に表彰も受けた。 26歳にて既に推薦を受けて 《陽明山革命実践研究員》 に入り、学習をするようになって、そこで蒋介石の講演を直接聞く機会も持つことになる。

理想、才能と事業心がある 20歳余りの熱血青年で国民党の重点養成対象になったうえに、蒋氏父子の単独接見まで 受けた彼の未来には希望が満ちているはずだった。 彼も当然、国民党に忠誠をつくした。 しかし彼の胸の中には男児の 浩然正気が固く陣取っていたため、貪汚腐敗にずぶ濡れの台湾外交官員たちの現実と韓国華僑組職内部の祖国と 中華民族の顔に泥を塗るいろいろな醜悪な現状を目撃した彼は、民族の大義のために勇ましく飛び出して彼らと闘争 しなければならなかった。

僑務秘書をしながらソウルのチャイナタウンで華僑組職が阿片館、賭博場、芸者店を経営して中国人の顔に泥を塗る のを発見した韓晟昊は 《大使館総領事》 宿夢公に僑風促進委員会を設立することを直ちに建議し、同意を受けた後、 直ちに百名余の行動組を編成して芸者店、賭博場を解体し、華僑社会内の悪勢力たちに勇ましく挑戦した。 もちろんこ こに売国商売人たちの恨みも多く買い、処々で恐ろしい仕返しもあったが、彼は寸毫たりとも屈服しなかった。

阿片館や賭博場を解体した韓晟昊の行動は、ともかく台湾大使館の統一行動になったため、一定の保護を受ける ことができた。 しかし彼が自分の記者の身分を使って台湾外交官の不正腐敗行為を容赦なく暴きたてることに対して は、台湾大使館はそのまま放置してはおかず、時を選ばずに打撃と仕返しを敢行した。 特にソウルの 13人華僑の首 領たちが台湾と韓国情報機構に韓晟昊を 《国民党内部に入り込んだ共産党特務》と連盟報告をあげ彼を処理すること を要求した時、彼は官僚機構内の険悪な事情と国民党官員の腐敗の状態に対する嫌悪とともに、華僑事務に幻滅を感 じたあげく、政治をあきらめて教育に携わることに決心、憤然とソウルを発って群山市のある華僑学校の校長を引き受け る果断性を見せてくれたりした。

後に韓晟昊はまた、海のように深い中医理論にひかれ、医学を専攻し始めた。 彼の聡明な天性と粘り強い性格は、医学 専攻においても遺憾無く発揮された。 ソウルにいる時、既に慶煕大で漢方医(すなわち中医)を専攻した彼は、錐のように 中医学理論を掘り下げ、遂にアメリカ・カリフォルニア州大学から博士の学位まで授与され、遂に韓国全域に名の知れた 御医にまでなったのだ。

韓国全域を騒然とさせた中医

1960年、韓晟昊は群山市から離れ、光州へ行って中医診療所を立てた。 韓晟昊は中医薬剤により肺結核の末期 患者を治療して病気を治すのに成功した。そして一躍、名前を揚げるようになったが、彼の門前は毎日診察を受けに 来た人々でごった返した。

1970年、友人の協力要請でソウルに戻って来て新聞社を起した韓晟昊は台湾大使館の妨害で財産を失い、苦境に 陥った。 この時、ある韓国人の友人が救援の手を伸ばして来て、彼を韓国の中国研究所漢方医学学術研究院院長、 ソウル特別市在郷人会指定の漢医院院長などの職に招いて、彼の生活苦を解いてくれたのみならず、彼が中医学 研究に携わるために良好な職場環境を用意してくれた。

その後、彼の医術がますます高名になると、韓国の朴正煕、金鍾泌など大統領、総理を含めて軍、政高位級要員たち が診察によく出入りし、そのうち盧泰愚、金泳三など多くの人々も友人として付き合うようになった。 彼が友人を常時、 心より接しながら、いつも義理を重要に考え、私利を図らなかったため、韓国の友人たちは彼を非常に尊重した。

この期間、経済発展とともに韓国の生活理念に多くの変化が生じた。 病気を治癒して体質を増強させる中医の 目的を日々に高くなる民衆の生活水準に合わせようと、韓晟昊は食餌療法の研究に没頭し、中医理論で美味しい 食べ物と病気の治療に効果的な中医薬法を科学的に結合させた食餌療法を常に手探りし、 3年間の研究に没頭し た結果、 1974年に至って 120万字余りに達する医学専門著書を完成させた。 《植物編》、《動物編》、《美容編》、 《調味料編》、《食品治療編》などに分けられるこの大河医書の名前は 《食品秘方》と名付けた。

本が完成すると、これを見つけた昔馴染みの《朝鮮日報》 主筆・鮮于琿は、この本の価値をただちに見出し、直ちに 新聞に連載することに決めた。 1974年 5月 23日 《朝鮮日報》に韓晟昊の 《食品秘方》 最初の記事が掲載された。 想像外に読者の反響は非常に強烈だった。

爆発的な人気を博しつつ、新聞の発行量は驚くべき急上昇を記録したが、何日も経たない間に新聞は 70万部余りから 120万部へ増えた。 《食品秘方》の連載は、1年半の間持続し、韓国新聞刊行物連載の記録を刷新した。

《食品秘方》は当然、本としても出版されたが、当時人口 4000万人余りにしかならない韓国でこの本は一年の間に 50 万冊も売れた。 彼が出演した TV講座も同じく、限りない観衆を集めた。 これにとどまらず、彼はまた韓国の漢方医学 者たちと合作して 13冊に達する 《漢方医療大全集》も発行した。

中国医学を世の中に広く知らせ、輝かすことに彼の果たした寄与は甚大だ。

盧泰愚大統領の中韓修交密使

1987年、韓晟昊の友人・盧泰愚が韓国大統領に就任した。盧泰愚は大統領になった後、五日目に韓晟昊を 単独接見し、大統領密使の身分で秘密裡に中国政府と接触して韓中修交のために水面下の作業を引き受けてくれる ことを委託した。

そしておよそ 40年という国民党在籍歴を持っている韓晟昊は、中韓友誼と祖国の将来のために喜んで親善密使を引き 受け、秘密裡に中国政府官員たちに会い、修交のための水面下活動を始めた。

これを知ることになった台湾政府は黙っているはずがなかった。 韓国駐在台湾大使館と一部の台湾独立を支持する華僑 の頭目たちを押し立てて、韓晟昊を攻撃して報復を敢行するようにした。 台湾大使館のある領事は、共産党により家門 が滅びたというのに、共産党を手伝って働くとは? 家の恨みを晴らさなければ孝誠を尽くすことにならず、 国民党には 忠誠心を失うことだと言いながら責め立てた。

挑発に対して、韓晟昊はこのように言い返した。私は中華民族のために働くのであり、特定の党派のために働くのでは ない。孝には多様な区分が厳存する。両親に対する孝は小さな孝で、民族に対する孝こそ大きな孝だ。 私が中韓修交 のために働くことは民族に最大の忠と孝を果たすことだ。家庭の悲劇は歴史が作ったものであり、戦争が作ったものだ。 それなのに私が私の祖国のために働くことが罪だと言うのか?

韓晟昊博士の斡旋の下、 1988年 5月中旬、韓国政府は中国山東、遼寧と北京を訪問するべく、大宇グループの金宇中 会長を団長に、 金復東将軍、韓晟昊博士を顧問にした 15人の経済訪問団を中国に派遣し、両国間の外交訪問の序幕 を開いた。 その年 8月、山東国際商会の李瑜会長が率いる山東経済訪問団が中国初の政府側代表としてソウルを 答礼訪問し、中韓修交の基礎を完成し、こうして中韓正式修交の基盤を作った。

1992年、中韓修交前夜に怒り狂った台湾政府は、韓国駐在中国大使館の官舎を売ってしまう陰謀を 企んだ。 この情報を聞いた韓晟昊は、中国大使館のすべての財産を保護するために厳正声明を発表、 世界各地の愛国的華人・華僑たちに専ら団結して、台湾政府の売国行為を制止し、中国大使館の財産を 保護するようにと訴えた。 幾多の愛国華僑たちの努力で台湾政府の陰謀は破綻し、価値が 10億ドル余り に達する財産は遂に全てが祖国に帰って来ることになった。

1993年 2月 19日午前 10時、ソウル市政講堂で韓国の数百人の官員たちが荘厳で盛大な意識を持って韓国 社会のために重大な貢献をした外国人・韓晟昊博士に国民勲章を授与した。

中国のトイレ革命を起こした老人

2000年、陽暦の正月前夜、山東省政府で開いた 《泰山新千年祝典》活動に参加した韓晟昊博士は、泰山山頂 に上がってトイレを捜し、想像もできない場面を目撃して驚愕した。世界的に有名なこの観光構内の便所とは、 糞尿があふれ悪臭を漂わせ便所内に衝立てがなく、お互いに恥部も隠せない、大変な惨状だったのだ。 民族の 自尊心をひどく傷つけた韓博士は、怒りを禁じ得なかった。 彼は直ちに数万字を一筆揮之し、遊覧区のひどく劣悪な 衛生状況を一つ一つ列挙し、無責任な政府官員たちを頭ごなしに叱った。

《泰山は中国の聖山であると同時に世界の名山であり、中国を輝かす国宝でもある。それが、どうして美しい国宝を このように汚すことができるというのか?!あまりにも残念であり、怒りに震える。山の上に糞尿が散らばっているから、 山の麓には汚い官僚がいるのだろう、 金の器を持って汚い金儲けをするところに、美しさや綺麗さがどうしてあり得ようか? 国の体面はどこに投げ出して利益を挙げることに汲々としているのか? 民間の気風が荒んでいるのも不正腐敗の せいだろう。 国と民族の顔に泥を塗るとは、悲観と怒りを禁じ得ない!…》

彼は半月の間、雑誌《韓華天地》2000年第4期に文を発表した後、この文が載せられた雑誌数冊を山東の一部の官員 たちに送り、返事を待った。

2000年3月、韓晟昊博士の 《韓華天地》雑誌を受けて大変に驚いた泰安市党委・莫振奎書記は、針のむしろに座った 人のように動揺した。過ちを犯した子供が父親に厳しくお叱りを受けた時の心情だった。市委書記として彼は自分に 避けられない責任があることを感じた。 韓博士の厳しい批判が千万ごもっともだ。泰山は祖国の誇りにするべき顔だ。 祖国の顔を汚す事があっては絶対にならない。

彼は雑誌を読み終えるや、忙しく実態調査に取り掛かり、会議を開いて各方の意見を聞き、専門家たちを呼んで措置を 講じた。

数日後、ソウルにいた韓晟昊博士は山東泰山市の莫振奎書記が送った手紙を受け取った。 手紙には泰山遊覧区の 衛生に対する韓博士の批判に対する感謝の内容とともに、泰安市の便所改造計画が商会されていた。

手紙に接した韓博士は嬉しさのあまり、万感が交差した。国民党に三、四十年間悪口を言っても、国民党は私の言葉を ただの一度でも聞いて心に留めてくれただろうか?聞くことはさしおいても、むしろ仕返しと打撃ばかりしたいたのでは あるまいか? しかし意外にも一党独裁をしていると非難を浴びている共産党が、人民の批判を虚心坦懐に受け止め、 批判者の愛国誠意を尊重してくれるとは、実に感慨無量だ!

2000年5月、泰安市では前にも後にもない便所革命を起こした。 泰山風景区及び市区域の 2216ヶ所の便所に対する 改造作業が全面的に開始された。

一つの政府が便所を第1号工事にするのは、泰安市はもちろん、中国の歴史でも初めての事だった。たやすい事ではなかった。 2億5000万元も必要になる建設費用は募金を集めて便所を競売したり、請負に出す方法で解決した。すべての便所をきれいに見栄え良く改修し、泰山の自然を破壊せずに貴重な地下水資源も汚染させることがないようにしようと設計部門でも頭を捻った。

テアンの便所革命は3ヶ月間の奮戦の末に成功裏に完成した。泰安は綺麗になり、さらに美しくなった。 2千あまりのもの便所は奇蹟のように一律に水洗式に姿を変えたが、洗手台、洗面台、水道、換気扇が完備し、床には全て陶器タイルを敷いた。

泰安の公衆便所革命は全国的にこの上なく大きな反響を催し、中国の公衆便所改造の序幕を開いた。.

《反独促統》の大旗を最初に振った人

李登輝が台湾総統の座に就いた後、韓晟昊博士は鋭い政治的眼光で台湾独立を夢見る李登輝の本質を 見抜き、初めて台湾独立論を批判する文を発表、これを発端として台湾独立反対闘争を展開、 祖国の平和的統一 のために絶え間ない努力を続けて来た。

中韓修交後、台湾政府と韓国の関係はたとえ大使級から代表部級に落ちたとはいえ、台湾代表部の政府官員は中 国大使館人員よりはるかに多かったし、長期間形成された慣性によって台湾代表部は相変らず華僑社会を統制管 理していた。 台湾政府は数万人に達する華僑を失わないため、彼らに後援金を惜しむことなく提供し、華僑社会の 多数のメンバーも卑しい精神で彼らに付いて行っていた。 その結果、台湾独立に反対する韓晟昊など頭脳明晰な 老華僑たち何人かは、むしろ多くの面から飛びかかる打撃と報復にあうのが常だった。 中国大使館でも韓国に 《反 独促統》組職を作ろうとして多方面に努力したが、決して十分な結果を挙げられなかった。

2002年、新年迎春招宴があった後のある日、大使館の李濱大使が韓晟昊博士を礼訪、中韓修交に歴史的な寄与 をした韓博士に、今度は 《反独促統》組職の結成に力を貸してくれることを希望した。 韓晟昊博士はこれに快く応じた。 《これは中華民族の大事です。分裂に反対して統一を促進することは、我々すべての中国人たちの責任でもあります。 大使様、ご心配なさらないで下さい。一月内でこんな組職を作ります。》

既に 76歳の高齢である韓晟昊博士は、燃える愛国の忠実な気持ちを抱き、すぐその明くる日から反独立組職結成の ための作業に没頭した。

2002年 2月 14日、韓博士の指導の下、愛国僑民組職 《ソウル中国僑民協会》が設立された。この日、韓博士は特殊な 感情を抱いて中華人民共和国 5星紅旗を手ずから会長にかけた。 これは韓国華僑社会で史上初めて掲げた 5星紅旗 だった。

それから何日か後の 2002年 2月 23日、韓国華僑社会の歴史で初めて、 《反独促統》を主旨に設立した団体 《韓華中 国平和統一促進連合総会》がやはり韓晟昊博士の指導の下に誕生した。

韓晟昊博士は特有の大智大勇と非凡な組織力、そして火のように熱い愛国知性で短い10日余りの間に二つの大きな 華僑組職を設立することで、中国の平和的統一史に輝く1ページを記録したのだ。

結びの言葉

韓博士には、世俗にまみれない覇気があり、強権に屈しない誇りがある。

彼は個人の恩恵や恨みよりも、祖国と民族の大義を重んずる熱烈な愛国者だ。


▲ 人民大会堂で中共中央・胡錦涛総書記と中華全国帰国華僑連合会(略称・全国僑連)
林兆枢主席(右側)の親切 な接見を受けている愛国華僑・韓晟昊博士


▲ 盧泰愚が大統領に就任してから五日後の1988年 3月 1日、大統領部で盧泰愚夫婦と記念写真を残す。


▲ 1993年 2月大統領を代表して韓晟昊博士に国民勲章を授与している韓国ソウル市・李相培市長(左側)

(吉林新聞 パク・ムンヒ記者 2006年3月9日)
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