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![]() [特集] 忘れ得ぬ通化“2.3”暴動平定戦闘 1945年、全国の人民が抗日戦争の勝利を慶祝している時、国民党反動派は日帝敗残兵たちと結託し、 東北だけでも続けて反革命暴動を 40回余りも引き起こし、吉林省通化で発生した “2.3"暴動がそのうちの一つだ。 この事件はまた、東北での反日闘争の最後の対決でもあった。 今年 2月 3日は 60年前に朝鮮義勇軍南満1支隊が通化“2.3”暴動を勝利のうちに平定した意味深い日だ。 1945年 11月 10日、瀋陽の小学校に武亭司令官によって設立された朝鮮義勇軍南満第一支隊は、東北局の命令に 従って 1945年 12月 20日夜明けに通化に入城、長白山後方根拠地の防衛と建設の重責を担うこととなった。 昔から通化は軍事要地だった。 日本関東軍はここを拠点にして対ソ連軍事基地を作り、飛行場を作って戦車部隊など の機械化部隊も揃えてトンネルまで掘っていた。 1地帯が通話に立ち入る時こちらにはもう通話誌で当為と田園公序が建立されたし航空学校, 砲兵学校が建てられたし タングク代代と鳥に成立された通話地帯の部分部隊が駐屯していた. 国民党も暗々裏に特務を派遣し、日本の敗残兵たちを再武装させ、解放された通化市を奪取しようと謀っていた。 1946年 2月 2日は旧暦師走大晦日であり、通化市民は家ごとにちょうちんを掲げ、通りではヤンゴル踊りを踊るなど、 いちめん節日の雰囲気に包まれていた。我が宣伝隊は日夜を問わず “李紅光” の演劇を練習するために忙しかった。 ところが午後 4時頃、急に緊急集合せよという 1級戦闘命令が下された。 通化地区に張りこみしていた国民党の反動 派が 2月 3日に暴動を起こしたというのだった。 当時、司令部とともに駐屯していた我が宣伝隊も、司令部防衛の任務を引き受け、動員大会が終わるとジュ・ホンソン、 金ソンチュンの指揮の下にバリケードを積む戦闘に突入した。 夕食の後、全体会議を開いて戦闘分隊を組み、各分隊ごとに戦闘任務を下した。 司令部の守護任務を引き受けた 警護中隊、 機関戦闘隊と宣伝隊は 3個の戦闘小隊に分けてバリケード、遮蔽物の後ろで待機していた。 その時、通化には義勇軍 1、 3、 5中隊と司令部警護中隊、南大営に駐屯した重機関銃、砲中隊があっただけで、 その他の部隊は各県に駐屯していたから来ることができなかった。 支隊司令部にも政治主任ジュ・ヨン一人だけで、 他の指揮官たちは皆外地で旧暦正月の慰問に出ており、いなかった。 夜 8時頃、義勇軍 5中隊歩哨線で怪しい者をつかまえたが、審問して見ると暴動に加担した者だった。 一方、この日午後、通化支隊後軍部・軍旗担当の沈殿鎧は、偶然に敵方の暴動指揮部に入り、敵の陰謀を看破して 暴徒たちの巣窟からすり抜けて来るや否や、すぐさま情報を通化支隊と通化地区党委に報告した。 通化支隊の参謀 長・茹夫一と沈殿鎧は警護隊員たちを連れて孫耕尭の家を囲んだ。 この日夕方、孫耕尭は宴会を施して暴動の勝利を前祝いし、部下たちと酒を飲んでいた。 この時、沈殿鎧が連絡暗号 をつけて入って行き、孫耕尭以下、何十人かの幹部たちを生け捕った。 隊員たちは家と庭で文献、武器、腕章などと暴 動成功の後に着る将校服 100着余りまで得て、また 2・ 3暴動に関する詳細な計画や作戦命令を記録した文件を暴 き出した。 孫耕尭の夢はあっという間に破綻してしまった。 孫耕尭は満州国の時期から日本の充実な走狗として通化支会 宣伝部長、通化省立職員訓練所所長、王道書院院長などの要職を勤め、 8.15後には通化地区国民党の要員に 変身、国民党通化県党副書記長及び東辺道地区軍事政治委員会主任になった。 審問を通じて、暴動の時間、信号、口令と変節分子たちの一部の状況、敵軍の主要攻撃目標を掌握した。 当時、我が部隊は皆、通化から遠く離れており、通化にはただ一つの警護連と党政機関で臨時的に組織した二つ の連しかなかった。 暴動を控えた各部署では、変節分子たちを逮捕し、通化支隊と専員公署などの機関の人員たち は緊急に動員され、戦闘隊を組織した。 2月 3日夜明け 4時、通化山城の電気の明かりが三度点滅して停電となった。 これは二道江発電所にいる日本軍た ちの暴動信号だった。 同時に鳳凰山の尾根でたき火が上がり、合図の音が長く三度鳴った。 これは日本のファッシ ョ分子・藤田の指揮の下に日本敗残兵を主とした 3千名余りの暴徒が暴動を起こす信号だった。 暴徒たちの兵力は 我軍の 4倍にもなった。 暴動が始まって間もなく、 30人余りの暴徒が日本指揮刀と銃刀を振り回して義勇軍司令部に押し寄せた。 ジュ・ソン の射撃命令によって前にいた二つの戦闘小隊が一斉に射撃した。 敵は逃げようとしたが、敵の後に待ち伏せた戦闘 小隊が退路を遮断、 20分余りで敵軍を全て殲滅した。 江南飛行場と砲兵学校、戦車大隊には日本流傭兵が 500名も集結していた。 この2ヶ所の戦闘の勝負は “2.3”反革 命暴動を押える上でカギになった。 江南飛行場は義勇軍の重点目標だった。 飛行場の境界任務を引き受けた 1中隊の大部分は、飛行場の周りに 待ち伏せていたし、ただ一つの分隊だけが平時のように公開的に警備していた。 暴動が始まると飛行場の航空隊 に雇用されていた日本人飛行大将・小林を主とした 250人の暴徒が警護分隊に向けて進攻した。 分隊長・盧チャンヨン の指揮の下、分隊は勇ましく反撃を加えて敵を撃退させた。 彼らは飛行場のそばに高く積んでおいた薪に火をつけよう として出て来た者を銃剣で突き殺し、 10人余りを殲滅した。 悪にのめり込んだ連中は、野獣のようにさらに狂ったように 進攻して来た。 その時、飛行場の周りに待ち伏せた 1中隊の戦士たちが中隊長チョン・ドンファの指揮の下に猛虎のよ うに駆けて来て、素早く敵を囲み銃撃を加えた。生き残った敵はひざまずいて降伏した。 飛行場と飛行機は何の損失も なく我々の手に落ちた。 飛行場で勝利した 1中隊は、司令部の命令に従って暴徒たちの包囲の中で危うくなっている砲兵学校と戦車大隊の防 衛戦闘を支援した。 我軍は続けて猛烈な攻撃を浴びせ、 200人余りの暴徒たちを全て殲滅した。 高ウンソク中隊長が指揮する第5中隊は、夜 11時頃に青年中隊を司令部に安全に移動させた後、一目散に赤十字病院 に駆け付けた。 この日本の病院は “赤十字”という看板の下、日帝ファッショの本性を隠していた殺人の巣窟だった。 病 院の暴徒は予定時間より早く暴動を敢行、残忍な手段で熟睡する我軍の負傷兵 150人を手術刀で殺した。 病院の 2階 には高熱病で入院した義勇軍と我軍の戦士 14人がいたが、暴徒たちの蛮行を見抜いた彼らは踏み段の入口をベッドな どで塞ぎ、その右に布団を敷いて座り、敵が上って来ることができないように阻んだ。 病院の警護の責任を負った一つ の分隊は、分隊長チョン・ヨンソクの指揮の下に敵と肉薄戦を展開し、暴徒何人かを殲滅し、我が戦士たちの撤退を援護 した。 ちょうど 5中隊が到着し、病院をかこんで敵方を攻撃しながら、負傷兵 50人余りを救出、敵 30人余りを生け捕った 。院長は暴徒 20人余りを率いて民家の野菜畑に隠れていたが、やはり捕虜になった。 一方暴動が始まると、暴徒たちは専員公署を攻撃した。 兵力の優勢な敵方は 1階を攻撃して 2階まで占領した。幹部た ちで組職された専員公署の戦闘隊は 3階を決死で固守、この緊急時に疾風のように駆けて来た義勇軍第 5中隊と通化 支隊の一班が適時に到着した。 支援軍が到着すると 3階戦闘隊の士気はさらに高くなり、敵に向かって反撃を加えた。 専員公署防衛戦は今度の暴動平定戦闘で戦闘が最も熾烈だったところで、暴徒 100人余りを殲滅し、 100人余りを捕ら えた。 2月 3日夜明け、空が白み始める頃、通化の主な地域の暴徒はほとんど消滅した。 義勇軍 3、 5中隊、砲兵学校の戦士 たちは市公安局と専業局を占領した敵と電話局 1階を占領した敵を全滅させ、南大営にあった重機関銃、砲中隊は通化 停車場を統制して 二道溝と通化市内の暴徒の連携を遮断させた。 日が明けると義勇軍の各中隊は分散し、逃げた敵を捜索した。 東の山に日が上る時、通化市内を騒がせた銃砲の音は 遂に止み、地域を震撼させた通化“2.3”暴動平定戦闘は勝利のうちに幕を閉じた。 一晩中激戦を戦った義勇軍戦士たちは、正月と暴動平定戦闘の勝利を慶祝する暇もなく、すぐにまた新しい戦闘に突入 した。 6百名余の捕虜たちを司令部付近の倉庫と中学校に集結させておいて審査することと、日本人住宅を捜索して隠 れている暴徒たちを探し出し、隠しておいた武器を捜索しなければならなかったからだ。 2月 3日午後 5中隊は、李ソンマン大隊長の指揮の下に日本住宅区を漏れるところなく取り囲んだ後、捜索網を広げて日 本人 29人を捕らえた。 そのうちには元日本軍 125戦車社団の大佐参謀長だった暴動の頭目・藤田実彦もいた。 “2.3”暴動の徹底的な平定は通化・長白山地区にいわゆる “東辺道中日連合政府”を立てようとしていた国民党反動派 の陰謀を霧消させた。 2月 16日、朝鮮義勇軍南満 1支隊では追悼会を開き、今度の暴動を押える戦闘で犠牲になったチョン・ジョンドク、金チャン シク、許スンゴンなどの革命烈士たちを追悼した。 東北局と遼寧省委は今度の暴動平定戦闘の主力として決定的な役目を果たした南満 1支隊の功績を高く評価した。 当時、解放日報、新華社でもこの情報を掲載し、南満 1支隊の偉業を高くほめたたえた。 2月17日、通化行政公署広場で市全体で暴動を勝利のうちに制圧した慶祝大会と犠牲になった烈士たちを追悼する追 悼会を召集した。我が宣伝隊では “2.3” 暴動の広報劇を創作してヤンゴル隊と合同して通化市内の路地ごとに街頭 宣伝活動を三日間進行した。 1946年 2月 23日、通化市各界の人民は、抗日連軍第 1軍総指揮で政治委員である楊靖宇と李紅光、及びその他の 革命先烈たちを追悼する追悼会を開いた。 遼寧軍区の指導者たちが参加したこの会議では、通化支隊と朝鮮義勇軍 南満 1支隊をそれぞれ東北民主連軍遼寧軍区・楊靖宇支隊と李紅光支隊と名付けた。 ▲ <2.3暴動平定戦闘に参加した朝鮮義勇軍南満第一支隊 5大隊所属の旧戦士たち。 左側から崔ナムス(82。当時、牌長、東陵区五三郷五里台村元党支部書記。 現在、 五里台に居住)、隣りの老人・金リョンハク (当時、大隊幹部だった。やはり五里台村で 幹部をしている。10年余り前に死亡)、崔チャンス(78、当時班長、瀋陽市朝鮮族文化館 で美術幹部として働き、退職) ▲ 筆者(80)と共に高スングク(左側)。高スングクさんは当時、機砲中隊所属で、現在韓国で生活している。 ▲ 朝鮮義勇軍南満第1支隊・政治部宣伝隊創作員であった筆者が 1945年、興京(今の新賓)で 講習組に参加した時に撮った写真。 講習組が終わった後に参軍した。 丸の中の人物が筆者だ。 (遼寧朝鮮文報 ソ・ヨンファ記者 2006年2月24日)
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