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![]() [文化] 鄭世峰の“‘ボルシェビキ’のイメージ" 省党書記に反党小説として告発され、俎上に上がってから生還した力作 ▲ 1998年 5月、ボンオゴル貯水池で文学の巨匠・金学鉄先生と遠足を楽しむ鄭世峰(右側) 先生。 “1980年、小説 ‘言いたかったこと’を発表し、 5年間創作界を賑わした後、1986年からまた 5年間ぶっ通しで沈黙の 中を徘徊したのです。 今から書くなら、‘言いたかったこと’や‘初のもてなし’のレベルを超えなければならないという 考えを常にしながらね。 ” 2月 13日、記者が延吉アリランホテル 409号室に陣取っている社団法人延辺小説家協会の事務室で会った小説家・ 鄭世峰会長は、“‘ボルシェビキ’のイメージ” 創作の経緯を問うと、このように口を開いた。 鄭世峰さんは、大きな獲物を釣ろうと、以前から釣りをしている状態だった。 その釣りの末、大変な大物がかかり、 それがまさに 9万字に達する中篇小説 “‘ボルシェビキ’のイメージ”だった。 この小説が載せられた 1991年 “長白山” 第2期は、飛ぶように売れ、前例を破る人気を享受するまでになった。 小説は農村でくるみ街責任制を実施した翌年の 1984年晩春の短い三日間に起った事を叙述、農村の老党員 “‘ボルシェビキ’尹テチョル”と息子“人間・尹ジュンホ”の 間の世代的葛藤を中軸として、歴史上の中国共産党の政治的誤謬を辛辣に暴露批判している。 党によって鋼鉄に製錬 された “ボルシェビキ”尹テチョルは、党と共にすべての政治闘争において失敗を犯しながらも、それが分からない “順服工具”だった。 長期の間、党の “階級論”によって地主の息子・許スビンを “独裁” して来たが、今日、党ではま た許スビンを一介の公民として彼のために献身せよという時、尹テチョルは受け入れがたいこの歴史の悪戯も、敢えて 受け入れる。尹ジュンホは 70年代前半期、極“左”路線が統治した社会で、やはり中国共産党の“階級論”を高く受け入 れた父によって愛情の挫折をし、愛する女性の自殺を経験しなければならない人物だ。 許スビン一家に起っている二人 の葛藤描写がある話と人物は、あまりにも真実味があり、リアルで、 15年が経過した今でも生きて動くようだ。 “率直に言えばこの小説の着想が浮上したのは、発表の5年前です。 だから 5年間を悩んだあげく筆を取ったのですね。” このように言いながら鄭世峰さんは、自分の過去をしばらく辿った。 14歳の幼い年令にて父と死に別れた彼は、あまりに も早く家庭を支えなければならなかった。 1958年秋、 16歳にて既に民工の中に混じって大躍進の現場である貯水 池の工事現場で木刀を担いで働かなければならなかった。 こうして骨が太くなり始めた鄭世峰さんは、 1970年代前半 期、生産隊長、大隊党支部書記の役をするまで、中国共産党が展開した全ての歴史を直接経験して来た。 “党の方針に従って、本当に出たらめなことをたくさんしたんです. .私は貧窮と落伍の淵の中で極‘左’政治が農民たちを 虐待し、農村幹部たちに困惑と鬱憤をもたらした社会的な疾患を身で感じた体験者です。 あの時私は、流れた歴史の前 で作家の良心は決して挫くことが出来ず、何かを叫ばなければならない、声高く叫びたいという切実な使命感と強烈な欲 望に捕らわれていました。 そうした 1986年のある日、私と党支部書記を受け継いだ金書記が小さな車を走らせて学校の 村道へと過ぎ去って行くのを見ながら、村道をゆっくり歩いて行く途中、ちょうど金書記の自宅の前に着き、そこで地主の 子供が何やら焚き火で焼いているのを見るようになりました。 何をしているのかと問うと、金書記の家と ‘党員連携’を結 んで、お互いに手伝うようになったと言います。” 地主の息子だと、階級の敵だからと迫害したのはつい以前のことなのに、もう平等な関係になり、お互いに助けると言う。 基層党員たちは闘争しろと言えば闘争し、手伝えと言えば手伝っい、“魂”なき政治生活をロボットのように続けて来たの だなという惨めな考えをするようになった。 この一時期の短い経験が“‘ボルシェビキ’のイメージ”の発想だった。 このきっかけを掴んで、小説家はどんな話の中でどんな人物を描くのだろうかを 5年間も考えていたのだ。 そうして 1990年春から草稿を書き始めた。 白紙に鉛筆で草稿を書く習慣の小説家は、一日に二、三ページほど、たかが 700〜800字を書くだけだった。 一日経ち、一ヶ月経ち、原稿が厚くなり始めた。 年末になり、遂に小説が完成し、 白紙に盛られたその小説を原稿紙に移しておいた後、延辺文学の金浩根氏を訪ねるようになった。 几帳面に読ん で見た金浩根氏は “小説は何も言うことがないほどに良い。 しかしここでは出しにくい。 南永前なら出来るだろう”と助言 して来た。 ちょうど自分が “長白山” 雑誌社に出張する用事ができたので、原稿を持って行って来るというのだった。 小説をすべて読んで見た南永前の返事は簡単明瞭だった。 “あなたさえ良ければ、原稿を読まなくても出すことができる。 この小説につき許スンホに評論を頼み、一緒に出す。” 翌年、つまり 1991年 3月 “長白山” 第2期を通じ、小説はついに世に出ることとなった。 小説の反応がとても大きか ったので、作家はいささか躊躇したが、良心作だったのであまり慌てなかった。 その間、南永前と “長白山”が苦難を 受けていることも全く知らぬまま、自分の作品に満足を感じながら。 6月初旬のある日、金浩根が南永前とともに延吉 市鉄南のやや小さい自宅を尋ねて来た。 鄭世峰さんはその時、失業しており、妻を手伝って油商売をしていた。鄭世峰 の手をしっかりと握りながら、南永前が言った言葉、 “大変なことになるところでした。延辺文壇のある人が、省党委書記に ‘ボルシェビキのイメージ’を反党、反社会主 義の小説だと匿名告発の手紙を送りました。” “そうですか?!” 鄭世峰さんは緊張した目で南永前をにらみつけた。 “省党委書記はすぐに私を呼んで経緯を聞いた後、結論を出しなさいと言いました” “それで?!” 気忙しい質問がまた飛び出した。 “ちょうど長春に朝鮮語のうまい漢族の学者 2人がいたが、省党委書記はその学者に ‘ボルシェビキのイメージ’を 読んで見た後、結論的な書面報告を出しなさいと命じたんです” “それで?!” 気忙しい問いは弾丸のようだった。 “その学者たちは作品の時代歴史背景、人物形象、主題思想をよく把握した後、結論を下したが...” 鄭世峰さんはその時の切羽詰った状況が頭の中に浮び上がるのか、笑いを堪えながら記者の手帳に学者たちが 下した “結論の語"を控え目に書いてくれた。 " およそ何年ぶりかの、朝鮮族文壇で立派に作った力作"という意味だった。 その足で南永前と金浩根は金学鉄先生のお宅に立ち寄ってから、話を紹介したが、金学鉄先生は身を後に横た えながら、溜息をつき、 “今でもそんな事が起こり得るというのか!"と嘆いていたと言う。 それで書いた随筆 が “旧態依然"。 この随筆で金学鉄先生は我々の文壇の気鋭の者たちによって、ひょっとすれば良い小説が “反党、 反社会主義的 '毒草'として生き埋めにされるところだった"と絶叫した。金学鉄先生は多くの文にて “その小説で鄭世 峰が犯した罪は、嘘をつかなかった罪、逆説的に言えば真実を語った罪"、“社会の心臓部に敢えてメスを入れた作品" と力説した。 それゆえこの小説は歳月が経つほどさらに目立ちながら、さらに多くの読者を持つようになるのではないの か思われたりする。 “今思い出してもおぞましく、恐ろしいです。 あの時、本当に私のその小説が反党、反社会主義の作品と結論されたら 私たちの文壇はどうなったんでしょうか。 '長白山'が生き残ることが出来、南永前が生存することが出来ますか。 私も もちろん埋没するしかなかったでしょう。 歴史に対する良心の発言をしたし、その歴史によって作られた尹テチョルのよ うな人物を創造したことについて、私は心から満足しています。” めがねの中に見える鄭世峰さんの目は感激に濡れていた。 (延辺日報 キム・ホチョル記者 2006年2月17日)
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