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[文化] 作家・柳燃山の筆中に流れる血縁の川、一万五千里…



豆満江、鴨緑江、松花江、黒龍江。 この 4つの川の流域に我々中国朝鮮族のルーツがある。

私たちは韓半島からここへ移民して来て、この地を開拓し、またここでこの地を守って日帝と血を流して戦い、 感激の解放もこの地で迎え、去る半世紀余りの期間、この地を建設して来た。

そしてこの地で私たちは中国朝鮮族として位置づけられ、歴代の政治運動と波乱万丈の歳月を経験して来ながらも、 私たちはこの地で相変わらず我が民族の文化と伝統を守り、それとともに改革開放を迎えた。

そんな意味で私はこの 4つの川を合せて血縁の川と言う… 延辺人民出版社文芸部主任・柳燃山氏が記者とのインタビューで語った言葉だ。

彼は去る 11年間、豆満江、鴨緑江、松花江、黒龍江この 4つの川の流域 1万 5000里を歩いて踏査、これらの川に 込められた我が民族の移民史、開拓史、闘争史を足で綴って来た。

小説から実話文学への変身

《柳燃山》といえば、我々延辺大学朝文学部の後輩たちは、彼を小説家と考えている。

大学時代から小説を書いて来た柳燃山は、受け持ち教員の朴ジョンヤン先生から自分が収集して来た、百済の将軍 で百済が滅びた後、唐の将軍として輝かしく生きた黒歯常之と高句麗の子孫である王毛仲に関する資料を渡されるこ ととなる。

朴教授と合作でその二人の資料を基本として、中編歴史小説を書きながら、柳燃山は我が民族の古代史に接するよ うになった。

1982年、大学を卒業して延辺人民出版社文芸部に配置された彼は、抗日烈士たちの話 《長白の闘士たち》 3巻の 責任編集を引き受け、編集しながらまた我が民族の現代史に接することになり、興味を持って研究するようになった。

1991年と 1992年、毎年3ヶ月間ずつ韓国に滞留し、韓国に行っている朝鮮族を訪ねて取材、彼らの哀歓に満ちた生 活を知ることとなり、それを執筆して 1993年から実話 《ソウルパラム》を 《青年生活》 雑誌に 1年間連載、社会的な韓国 出国ブームに乗って大きな反響を起こしながら、文学家として小説から実話文学での体制転換をし、同時に我が民族の 生の現場を文に綴った。

血縁の川筋に沿って

彼は虚構により作られた小説が日々に読者の関心から遠くなっている現実を見て、我が民族の歴史事実 そのままを文学の方式として使えば、人々に歴史も知らせ感銘も与えると考え、1994年 11月から自腹で我が 民族の歴史が染み込んだ豆満江辺についての踏査を始めた。 記者とのインタビューで、彼は徒歩で通ったので経費はいくらもかからなかったと謙遜して語ったが、当時、豆満江 辺には車道がなかった。

柳燃山はその厳寒の中、和龍崇善から龍井三合に至るまで徒歩で 10日間踏査をした。 公社所在地へ行けば旅館に入り、村へ行けば村で一番の年長者を訪ね、その方たちの家で宿泊しながら過ぎ去った 昔の話を聞いた。

一通り踏査をして帰って来ては、その生きて呼吸する貴重な資料を執筆することに没頭した。

翌年 1995年 2月から紀行文学踏査記を書き、続々と韓国 《ソウル新聞》に連載し始めた。 その原稿料を受けて 3月から2ヶ月かけて再び龍井三合、開山屯、先駆から図們の涼水、琿春の敬信・防川すなわち豆満江上流から 下流に至る豆満江 1000里踏査をした.

柳燃山は続いて 1995年 5月から 7月まで鴨緑江 2000里を、1996年 10月から松花江 5000里、1997年には黒龍江 7000里踏査をした。

1997年 6月、北極に近い黒龍江の発源地・漠河を訪れたが、夜 10時に日が暮れて夜明け 2時に日が昇ったという。

その年 12月にまた漠河に行ったが朝 10時に日が昇って午後 2時に日が暮れたという。 12月の気温は零下 54〜55度。 柳燃山氏の家族はもちろん、友人はそこへは行くなと勧告した。 そのように劣悪な環境の中でも漠河 2万の人口のうち我が朝鮮族が 216名も暮していた。

初めて一人でそこを訪ねた時、あてもなく通りを歩くと、道端にに 《アリラン・ケジャン家》という看板が見えた。

門を押して入って行くと、朝鮮族だというので、この上なく喜んでくれた。

延辺から作家先生が来たと朝鮮族たちが一人二人集まりはじめ、一人一人が嬉しいと言って手を握ってくれ、 その場所で食べさせてくれ、寝かせてくれ、我が民族の漠河への移住から今の生活に至るまで、漠河朝鮮族の歴史 を夜が更けるのも忘れて話してくれた。

そのように踏査記 《豆満江 1000里》、《鴨緑江 2000里》、《松花江 5000里》、《黒龍江 7000里》は、韓国 《ソウル新聞》に 1995年 2月から 1998年 7月まで毎週 1回、 3年半の間連載された。 連載が終わると、それを 《血縁の川》にまとめて本に編纂した。

この本の初版序文で金炳a教授は 《<血縁の川>を読みながら、私は文学作品を読むという快感よりは民族の歴史と生の 現場の中に立っているという崇高で尊厳な感じを濃く受けた》と評価し、鄭判龍教授はこの本の再版本序文で 《この長編紀 行文は中国に住む我が民族の歴史と現況を百科全書のように集大成した本だと言える》と評価した。

そして任範松教授は 《踏査と探訪で開かれた文学世界》という評論で 《作者がこの山(白頭山)を対話の対象に設定して、 そこに朝鮮民族の本質的な力量をせりふ化したことから作品(<血縁の川>)は美学的な高さへ昇華され <民族の意識、 民族精神生活の花と果実>(ベリンスキー)になることができた》と高く評価した。

一松亭、青い松に先駆者はいなかった

柳燃山氏は踏査資料に基づいて 2002年 11月から 2003年 12月まで満 1年 2ヶ月間、韓国の 《言葉》という雑誌に 《在満朝鮮人親日行績報告書》を連載する。

この報告書で彼は日帝満州国の時期、満州で親日行為をした朴正煕、尹海栄、崔南善など我が民族現代史において 有名な 10人余りの親日行績を暴露する。

それをまとめて2004年、韓国で 《一松亭、青い松に先駆者はいなかった》という本を出版した。

ところがその文が悶着を引き起こすとは?!

2003年韓国馬山で、過ぎ去りし昔の歌 《先駆者》の作曲家・趙斗南氏記念館が開館することになった。 趙斗南氏記念館の中には 《歌<先駆者>が 1932年に作り出され、満州で抗日を歌う <独立運動歌>だった》と評価、 《作詞者尹海栄氏は <独立運動家>だった》と書いてある。

ところが馬山市希望連帯の金ヨンマン代表が 《言葉》雑誌に発表された柳燃山氏の 《在満朝鮮人親日行績報告書》を 読んで、それを根拠に記念館開館反対運動を起こした。

彼らは記念館開館式で馬山市市長と議長に小麦粉を振り掛け、記念館開館に反対して拘置所に入れられ、70日間 拘置所の飯を食べてから出た。

事はそれだけでは終わらなかった。

馬山市では調査団を編成し、延辺を訪ねて来て、延辺の歴史と文学界教授と関係者10人余りに会って証言を聞き、 また光復前に趙斗南先生とともに音楽活動をした金ジョンファ先生に会って証言を聞いた。

彼らが韓国に帰った後、馬山の趙斗南記念館は 《馬山音楽館》に改称され、内容も 《歌 <先駆者>の元の題目は <龍井の歌>であり、独立運動歌ではなく、中国に移民して行った我が民族の哀歓の歌だった》と修正した。

このように柳燃山氏の文は我が民族の歴史を直す上で大きな寄与をするようになった。 そしてこの本が初めて朴正煕の親日行績を明らかにするようになり、韓国と中国で物議を醸しているのが実情だ。



人物伝記を書く作業

2000年に延辺大学・金炳a校長が柳燃山に、自分が収集した柳子明氏の関連資料を渡した。 《柳子明評伝》を 7万字書き、時間の関係でまだ書き切れていないものだ。

柳子明は我が民族の独立運動家として我が国の著名な作家・巴金と親兄弟のように過ごし、同時に我が国の著名な 農学者として中国の抗日戦争と農業発展に大きな寄与をした。 彼は 1985年に死亡するまで湖南農業大学教授であり、ぶどう、蜜柑の研究と中国での稲の起源についての研究で 世界的な名声を得た。

彼が養成した農学の弟子はおおよそ 3000人余りと推定される。柳燃山は金炳a教授から原稿と資料を受け、長編人物 伝記 《柳子明評伝》を書き続けた。

金炳a教授との合作になったこの長編人物伝記は 2003年、延辺人民出版社から 《不滅の志士・柳子明評伝》と言う題目 にて出版された後、韓国でも 《行動する知識人・柳子明評伝》という題目にて出版された。 その本は 2003年、韓国で 《国内外韓国人記録文化賞》を受賞した。

また韓国 MBC放送で 2005年 《3.1》節に二時間ドキュメンタリーとして製作、放送された。 《柳子明評伝》を通じて、柳燃山は我が民族独立運動史での無政府主義運動の空白を埋め、中国朝鮮族の抗日史は もちろん、韓国近代史での中国を舞台に起った、霧に包まれた謎を明らかにした。

2005年、柳燃山はまた中編実話 《ある独立運動家の運命》を創作し、韓国で第41回 《新東亜》 実話文学優秀賞を受け たりした。

そして 2003年と 2005年、柳燃山が韓国で出版した本二冊は、韓国文化観光省で指定した人文部門と歴史部門での 青少年推薦図書になったりもした。

4年前から柳燃山は人物伝記 《金学鉄評伝》を計画、既に資料収集を終えて執筆を始めた。 彼は抗日闘士で我が民族の著名な作家である金学鉄先生についての資料収集のため、韓国の著名な作家・趙廷来、 李浩哲など金学鉄先生と在世に極めて親しかった方々に会ったりした。

《金学鉄評伝》はまもなく 2006年に完成する予定だ。

柳燃山は今、延辺大学前任副校長であり、我が民族の著名な教授だった鄭判龍先生についての資料収集もしている。 《鄭判龍評伝》は 2007年に完成する予定だ。

金学鉄、鄭判龍、この二人の現代中国朝鮮族の代表人物の一生を照明することは、私たちの民族史についての照明と 言いながら、柳燃山はこれを誰かが必ずしなければならないのではあるまいかと言う。

彼は今 《金岡熙将軍伝》の執筆も始め、2006年上半期に完成する予定だ。 柳燃山は金岡熙将軍伝を通じて中国人民解放軍での朝鮮族の足跡を見せてくれる作業をしている。

柳燃山の文学観、歴史観

柳燃山は小説集、随筆集、紀行文学、人物伝記文学など今まで本を合計 11冊出版した。 2004年一年だけでも本 4冊を出版、 2005年には本 3冊を執筆し、一冊だけ出版、残りは今年に出版される。 今年にも本 3冊を執筆している。

柳燃山は次のように語る。 《私は歴史学者ではなく、文学家だ。 文学と歴史の出会いで、文学の形式で歴史を反映した。 私が持っている資料は、 その歴史の時代を生きて来た方々が直接経験してみて聞いたものだ。それを私の歴史知識で濾過して捜せる限り歴史 資料を捜し、対照して文学で反映した。 しかし歴史学の見地で見れば、私自らも欠陥が見える。 この面では私は勉強を もっとたくさんしなければならないし、歴史学者的な次元で私を向上させなければならない。 私たちの歴史事実をもっと 面白く解いて行き、多くの人々が我が民族の歴史を趣味として読めるように筆力を磨きたい。》

去る世紀 90年代中盤から今まで 11年間、柳燃山の収集した資料は相当な分量で、いずれもが貴重だ。

しかし今日、柳燃山は大変焦っている。

これまで、多くの老人たちが死亡し、我が民族の生きた歴史が消失しており、二度と復元することができないものが多い からだ。

この面で柳燃山は、自分の踏査が 10年もう繰り上げて去る世紀 80年代中盤から始めていれば、もっと多くの我が民族の 歴史を発掘出来たはずだという後悔を抱いている。 そのような焦る気持ちで、彼は当年、歴史を生きて来た方々が一人でも世を去る前に、生きた資料を収集するために今日 も踏査に出ている。

(吉林新聞 キム・ジョンエ記者 2006年1月21日)
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