xxxxxxx
朝鮮族ネット 中国の朝鮮族に関するニュースポータルサイト Search by Google:
ホーム 朝鮮族概要 地域紹介 政治 経済 歴史 観光 ショッピング コミュニティー お問合せ



[教育] 抗争の伝歌《延吉監獄歌》


▲延吉監獄抗日闘争記念碑

歌は人間の情緒が直接的にあらわれ、人間の感情世界を最も真剣に見せる芸術形態だ。 歌は人々の喜びと 悲しみを音調にて構成し、一節一節解きほぐして人生の喜怒哀楽を表わす器であり、また、国家、民族や集団が 危機に置かれた時、暴圧に抗する旗印やラッパになって、槍や刃物、砲弾になったりもする。

中国朝鮮族の歌謡史において、1920年代と30年代の主要内容は《抗日革命歌謡》だ。 特定の時期、特定の内容と 形式で存在した《抗日革命歌謡》は私たちの100年の歌謡史の非常に大切な部分だ。中国の抗日戦争は一般的に 1937年《7月7日》盧溝橋事件から1945年《8月15日》の光復(解放)の8年間を指し、東北ではそれより先の1931年 《9月18日》事変から1945年の解放までの14年を示すが、中国朝鮮民族の抗日闘争はそれをはるかに遡る 1910年8月29日《庚戌国辱》の日韓併合前から始まった義兵闘争、および1919年《3月1日》運動以後の独立軍運動と 東北人民革命軍の抗日闘争を含む20世紀初頭からの数十年間を網羅する。

《抗日革命歌謡》は専門的な作詞が、作曲家たちによって創作されたものではなく、抗日戦争の強烈な火の中で手に 武装した革命闘士たちと愛国志士たちによって集団的に創作され整えられ、口頭で伝えられて完成したというところに特徴がある。

《延吉監獄歌》もまさにこうした凄絶で血生臭い闘争の中で誕生した。《延吉監獄》は延吉市布爾哈通河南側、 延辺芸術劇場の跡地に敷地を定めていた満州間島省第4監獄で、日帝の時期、《延吉模範監獄》と改称され、灰色 レンガからなる高い塀と電気鉄条網に囲まれ、数多くの革命家や抗日闘士が閉じ込められていた。

風強烈な南北満州広漠な野原に
赤旗に爆弾を抱えて戦った身体が
延吉監獄閉じ込められた後、身体は枯れても
革命に沸く血がどうして冷めるだろうか

看守の奴らのぶっきらぼうな話ぶりが高まるのみで
毎度食べるご飯はきび飯で
夜ごと丸まって寝ると懐かしい夢を見る
身内や同志たちは元気なのか



日帝の奴ら、走狗ら、安心するな
70万里の広い野原に赤旗がはためき
4億万の抗日大衆の突撃音に
開かれるぞ監獄門が、自由世界に

当時、中共・開山屯区委婦女委員で1980年代初期まで龍井で暮らしていた抗日闘士・車ジョンヒさんが 証言したところによれば、この歌は抗日闘士・李珍が初めて作った。

李珍は汪清県大坎子の人で1930年冬、同志たちと共に日帝分駐所に押しかけて逮捕された。 ある日、この25歳の 熱血青年は、いやな臭いが鼻をつく監房と暗くてじめじめしている監獄塀を眺め、そばの同志たちに激情があふれる 語調でこのように語った。

《延吉監獄に閉じ込められ、身体は朽ちるとも精神はどうして枯れることが出来ようか!》

この言葉が種になって整えられたものこそが、《延吉監獄歌》の1節だ。 私若い革命家はその後の悪刑に苦しめられ、 獄中で犠牲になったが、彼が初めての一節を作った《延吉監獄歌》は、監獄内の組織ラインに乗って監獄全体に広がり、 外部に伝えられ、数多くの革家などを抗日闘争へと鼓舞した。

血生臭い戦闘で命を賭けて戦った抗日戦士たちは、闘士の意を生かし補充し、最終的にこの歌を7節で完成し、 遊撃隊員たちに広く歌われ、抗戦の最後に勝利を導き出した。

(吉林新聞 2012年6月19日)
Copyright(C) 朝鮮族ネット