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[特集] 《記憶の中の60年》-忘却された自治州成立日の記憶

延辺朝鮮族自治州創立60周期特別企画-《記憶の中の60年》

延辺朝鮮族自治州創立慶祝大会は、どの時間、どの場所で開かれたか?

延辺朝鮮族自治州(当時<延辺朝鮮民族自治区)が1952年9月3日に延吉で成立したという事実は、皆がよく知っている。 しかしより具体的に、自治州創立慶祝大会が9月3日のどの時間、どの場所で開かれたのかについては、正確に知っている 人々が多くないだろう。

延辺朝鮮族自治州創立60周年を迎え、本紙が企画した《記憶の中の60年》特別企画の人物、事件を取材する過程で、 記者は自治州成立の日の1952年9月3日の記録が歴史資料ごとに大同小異、異なる点があることを発見し、混乱を感じた。

例えば、ある文字資料では、自治州創立の日、自治州慶祝行事の場所が延吉市の西広場(現・延吉服務庁舎付近)としており、 ある資料では延吉人民広場(当時、公園にあった運動場、現・延吉公園花園のあたり)としているなど、統一された場所では なかったためだ。

自治州成立の日、慶祝大会が開かれた時間についても交錯した記録が出て来ている。 ある文字資料では、 1952年9月3日8時30分に自治州創立記念大会が開かれたとしており、別の資料ではこの日午後3時から慶祝行事が開かれたと 記録している。

結局、自治州成立の日は今は振り返ってみても遠い60年前の長い間の記憶だ。 当時の歴史の生き証人はすでに多くがあの世の 人々になっており、たとえ生存しておられる人々であっても、60年前の遠い記憶の中で慶祝行事が人民広場であったのか 西広場であったのかよく分からないという返事を繰り返すばかりで、残念だった。

それなら、なぜ自治州創立の慶祝行事について、このような交錯した記録が出て来るようになったのか?正確な答を得る ためには、50年代初当時の延吉市にあった広場を先に調べる必要がある。 自治州が創立された当時、延吉市には大きな広場が 2つあった。一つは現在の服務庁舎付近にあった延吉市西広場であり、他の一つは日本の侵略者らが延吉を支配していた時に 建設したという公園内の広場、すなわち延吉競技場であった。

1949年度から延吉でずっと暮らして来たという文学評論家・張ジョンイル先生は、《延吉公園について語れば》というコラムで、 数万人しか住んでおらず、平屋が多かった昔、延吉市内の真ん中に西広場というかなり大きな広場があり、 1953年、スターリン死去追悼大会をはじめとしてバレーボール大会や、市民が殺到した歌舞団公演が頻繁に行われたと 記録している。 そして今は用途が変更され、延吉公園の中にあまりにもこじんまりした競技場があり、名節には樹林の 中の特設舞台で風楽が鳴り、競技場では朱徳海州長の演説をはじめとして行事が多かったと書いている。

すなわち当時、延吉で行事の場所として西広場と公園内の競技場の2ヶ所とも、多く利用され、人々の記憶の中で行事の 場所として簡単に混同されやすいという点と、今は二つの広場とも歳月の中に消え、より一層記憶の中で忘却されやすい という点、そして決して短くない60年間の忘却の歳月が流れた中、事実の中には歪曲されて誤って伝わったものがある 可能性が高いというのだ。

5月8日、記者は自治州創立日当時の写真を撮って歴史的な瞬間を記録した著名な撮影家・黄範松先生に会い、 自治州創立慶祝日の生々しい記憶を詳細に聞いてみた。

自治州創立慶祝大会は、明らかに公園内の競技場で開催されたというのが、黄先生の確固不動たるお話であった。 延吉・西広場は明らかに自治州創立慶祝大会の場所ではないとのご指摘だ。


▲延辺朝鮮民族自治区成立慶祝大会の全景、主席台の傍に小さい山が見える


▲多様な行事がしばしば開かれたという延吉市・西広場。写真の中の住宅が現在の延吉・新華書店方向

黄範松先生は自身が当時撮ったという、慶祝大会主席台に向かって写した写真を取り出しながら、 より一層自信がある表情を見せた。 慶祝大会の写真の中の主席台の右側には、山丘が見えており、 これこそが現在の延吉公園の亭子山だとのことだ。 市の中心にあったという西広場で、もし自治州創立慶祝大会が 開かれたとすれば、このような山が写真に写ることはあり得ない。 この日、主席台の全景をとるため、黄範松先生は 競技場にあったサッカーゴールの上に上がり、それでも足らず、危険を押し切ってゴールの上に立ったまま、苦労して 2枚の写真を残したといい、それが歴史的価値のある上の写真だ。

黄範松先生が主張する自治州創立日の延吉公園内の場所は、この他にも明確に証明出来る内容がある。

黄範松先生は、自治州創立の日、3万人にもなる人波が集まったが、1万人すらも受け入れられなかった小規模の延吉・ 西広場にこのような人波が集まることは土台無理とのことで、西広場には固定的な主席台がなく、 様々な行事の時には機関や学校で事務机を持って来て、臨時の主席台を作って使ったりしたが、公園内の競技場には 木造構造物の高い主席台が固定的に建てられていたというのだ。

黄範松先生によれば、この日の自治州創立慶祝行事は午後3時に延吉市公園内の競技場で行われ、天気がとても蒸し暑く、 朱徳海州長が報告する時、上衣のボタンを外して報告したという。 当時、延辺朝鮮族の人民群衆にとって父親のような 存在であった朱徳海同志の偉大なイメージを写真に残そうと苦心した黄範松先生と、当時、延辺日報社のカメラマンで あった金ジノ先生は、報告中の朱徳海同志にボタンをはめて下さいと耳打ちすることも出来ず、苦心したという。 考えた末、 主席台の下からメッセージを書き、主席台の上に送ることにした。黄範松先生が紙に《ボタンをはめて下さい》と メッセージを書いて金ジノ先生が主席台上に送ったところ、朱徳海同志がすぐに気付き、報告しながらボタンをはめ、 歴史的な朱徳海同志の慶祝大会発言の姿を残すことが出来たという。


▲延辺朝鮮民族自治区成立慶祝大会で演説する朱徳海

この日、慶祝大会が終わった後、群衆が公園競技場から公園橋を渡って人民路まで西広場に行き、さらに間島旅館が あったという北山小学校付近まで行って、また戻って西広場まで来て夜遅くまで踊ったり歌ったりしながら、 自治州創立の日を慶祝したと黄範松先生は古くなった記憶の風呂敷を解きつつ語った。

1952年9月4日付の延辺日報の《延辺朝鮮民族自治区人民政府正式樹立》という題名の記事は、《延吉市各民族各界3万人余りの 群衆、参集して熱烈に慶祝》したという副題まで書かれ、自治州創立日の歴史を生き生きと記録している。

記事によれば、延辺朝鮮民族自治区第1回各界人民代表大会は9月3日午前10時40分に成功裏に幕を閉じ、同時に 延辺朝鮮民族自治区人民政府の正式樹立を宣告したと記載している。 新聞はまた、この日の速報を通じて、 9.3抗戦勝利の日と同時に延辺朝鮮民族自治区人民政府の成立を宣言した日の9月3日午後3時に、延吉市各界の 人民3万人余りが延吉市人民広場に集まって吉林省延辺朝鮮民族自治区人民政府設立慶祝大会を盛大に挙行したと 書いている。 また、大会は午後6時10分に雄壮なスローガンで終わり、続けてデモ行進に移ったと書かれており、 歓喜に沸く延吉市内の夜道は、五色灯を灯してデモする群衆の群れで埋め尽くされ、太鼓の音、チンの音、歌声の 中で《延辺自治区人民政府の成立を慶祝しよう》 《中華人民共和国万歳》 《中国共産党万歳》 《毛主席万歳》の スローガンは深夜まで続いたと記載している。

現在、自治州創立慶祝大会が開かれた公園内の延吉人民広場や延吉市・西広場とも、いずれも歴史の歳月の中に痕跡を なくしてしまった。 張ジョンイル先生は、《西広場、そしてヴェローナ・ジュリエットの家》というコラムで、 《いくら重要な事物であっても、時間が流れれば忘却の川の水に陥没しやすく、不本意ながら事実が誤って伝わる こともあり得るという点を喚起させることが重要だ》と指摘した。 たとえ昔の広場は今は全部消えてなくなって いても、私たちの歴史の真実の記録は永遠に忘却されたり歪曲されてはいけないためだ。

(吉林新聞 2012年5月9日)
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