xxxxxxx
朝鮮族通信 中国の朝鮮族に関するニュースポータルサイト Search by Google:
ホーム 朝鮮族概要 地域紹介 政治 経済 歴史 観光 ショッピング コミュニティー お問合せ



[経済] 東春号−東方の海上黄金シルクロードを開拓

2000年 4月 28日、東春号が世界最初の3ヶ国、琿春(中国)−ザルビノ(ロシア)−韓国(束草)を往来する陸地 海上連合運輸航路を開通したことは神話であると同時に奇蹟だった。

東方の海上シルクロードと呼ばれるこの航路の開通は、琿春と延辺はもちろん東北三省の経済において深く現 実的な意味がある。 この航路の開拓により、大量の韓国商品が琿春市場を通じて東北市場とロシア極東市場へ 押し寄せ、中国の農産物が束草を通じて韓国市場に入って行くことができるようになった。 またこの航路の開通 は、三国の観光業を推進、 特に琿春と延辺の人的交流と貨物の流通を通じて、この地域の経済を活性化し、外国 人の投資を吸引することができる。

東方の海上黄金シルクロード、琿春の有志たちは、この航路の開拓のために燦爛たる未来を描いて喜びもしたし、 挫折と失敗の末に再生の活路を求めたりした。 そうだ、東方の海上黄金シルクロードに船を浮かべるまでは、順風 満帆ではなかったのだ。

世の中のことは人次第

1991年 10月 24日、UN開発計画書ではアメリカ・ニューヨークで情報公開会議を開き、全世界にUN開発計画書に て唱道し、北東アジア各国が参加する図們江地区国際合作開発プロジェクトを稼動するという情報を公式宣布した。 ここに琿春は世界が注目する所として浮上し、琿春は改革開放のチャンスの地となった。 1991年末、琿春市では図們 江地区国際合作開発の機会を逃すことなく、中国琿春と韓国間の海上通路を開拓しようと思案していたところへ、韓国 東北航運株式会社の文ボンス社長が尋ねて来た。翌年、中韓修交後、文ボンス社長が再び琿春を訪問し、航路開通 事業について討議した。

1993年 2月、琿春市では中韓両国がソウルで第2回海運会談を開くという情報を入手した。 しかし会談内容には中国 琿春と韓国束草航路はなかった。 時間がなかった。当時、琿春市市長だった金ミンウンと市党委副秘書長だった朴賢基 は何らの対策も立てることができずに、ひたすら韓国を訪問した。

韓国に到着した朴賢基は、中国代表団が泊まるホテルを突き止め、代表団団長の部屋をノックした。しかし事前の アポもがない彼に会ってくれるはずがなかった。 覚悟して来た彼は、こんな門前払いには気を使わず、団長が出て来る まで待とうと決心した。 至誠天に通ずで、二時間ほど待ったあげく、代表団団長に会い、地図を取り出して熱心に説明 した。 小さな国境都市・琿春市で航路開通を死活問題と考えて、韓国まで尋ねて来て熱弁を奮う朴賢基を見た中国 代表団団長は、心から感動した。 彼は会談の内容にもないこの問題を韓国側と交渉することに同意した。 返事が出る と、朴賢基と金市長はただちに韓国海運業者の友人を訪ね、韓国政府の代表団を説得した。

世の中のことは人次第である。昼食の時、韓国政府側からまず中国代表側に韓国束草−中国琿春国際海上航路を 開通しようと申し入れ、中国側の黙認同意を経て両側は談判日程にあげ、中韓海運談判で中国琿春−韓国束草海運 航路を開拓することに公式批准した。

最初の段階が道半ばというが、初めのボタンは通したものの、いざ仕事を始めようとすると問題は琿春に港がないこと だった。港を建設しようとすると、港の建設期限もさることながら投資も担保することができなかった。港がなければ港 を借りるしかない。

近隣諸国である北朝鮮とロシアに港がある。 しかし北朝鮮には当時、第三国である通行通商口がなかったので、 仕方なくロシアと談判をするしかなかった。 琿春代表団はロシア側と数十回の談判を開いたが、ロシア側の付加条件 が多く、談判は 1997年度までも遅々として進まなかった。

ところがやがて 1998年、国際情勢の変化でロシア側でこの航路に注目し、積極的な姿勢を見せ始めた。 1996年、 北京であった中国、韓国、北朝鮮、UNDP 4者会議で、北朝鮮側は公式的に琿春−羅先−束草航路開通に署名した のだ。 これにより、一番難しい問題であった北朝鮮領海の貫通が確実になった。 引き続き、韓国−ロシア海運談判 で、この航路が批准され、中国−ロシア交通部と韓国海運部でもこの航路の開通に同意した。

万頃蒼波の試練の前で

1991年から 2000年、10年に及ぶ不断の努力により、いよいよ 2000年 4月 28日、中国琿春−ロシア・ザルビノ−韓国 束草の世界最初の陸地海上航路が開通した。 東春号は万人の祝福の中で海に向けて出て行った。 しかし海は穏か ではなかった。家ほどもある波を越えなければならなかったし、台風の試練を経験しなければならなかった。

2000年 10月 26日、東春号が運行を始めて半年、当時の琿春市市長助理、韓国東春航運株式会社理事副社長、琿春 東春運輸有限公司総経理である朴賢基に災難が降りかかった。韓国の合作側である韓国観光株式会社が破産した のだ。 合作パートナーが破産した以上、やむを得ず東春号の運行が停止されるしかなかった。 しかし朴賢基総経理 は 、5ヶ月間支え、ロシア側の滞った賃貸費のため自発的に ‘人質"となり、新しい韓国のパートナーを獲得して正常運 行を再開した。

その時、またロシア・ザルビノで思いもよらぬ事が発生した。 当地政府と摩擦があったロシアの 500人余りの住民た ちが、港に寄り集まって東春号の乗客たちを人質にとり、船から降りることができないようにした。 琿春にいた朴賢基 総経理は車を走らせてザルビノへ行き、当地の警察側と交渉したが、協助合意を得られず、彼は直接 500人のロシア 住民たちを相手に彼らを説得し、警察局長を訪ね、このまま放っておけば国際問題に発展するだろうから、 20分以内に 事態を収めるように警告した。こうして 20分後にロシア住民たちが退き、事態が収まった。

こんな風浪をかきわけて来た東春号は、 2003年には再びSARSの試練を経なければならなかった。 5月 12日、 ロシア側から中露通商口を全て閉鎖するという総理署名の布告書が出た。 この知らせに接した彼は、州・省に報告 して、すぐに車を運転してロシア・ザルビノにへ行き、直接ロシア辺境最高長官を訪ねてSARSはどの国にもあるもの であり、SARSを阻むために閉鎖令を出せば、 3ヶ国に及ぶ影響は甚大であり、後の禍をどのように責任取るのかと 説得に説得を繰り返した。

ロシア辺境最高長官は、どうしたらよいかわからなくなり、上級幹部に状況を報告した。 その日夕方 5時 30分、ロシア 側から東春号だけは例外的に運航を承諾すると新しい指令を出した。

この航路の開拓に 10年、東春号が出航して 5年半、東春号と運命を共にして来た朴賢基は、民族の発展と地域 経済そしてこの黄金海上通路を命がけで守るという使命感がなければ、挫折と困難の前で立ち上がることができなか ったはずだと語る。

永遠の課題に向けて

荒々しい風浪を超えて海を走り回る東春号は、今日も東方の黄金シルクロードを行き交い、 3国の経済と交流のため に大きな寄与をしている。

物流量が 45% 増加し、客員が 25%増加した現実に備え、東春号は 2003年 11月、中国・琿春−ロシア・ザルビノ− ロシア・ウラジオストク−韓国・束草航路を開拓した。黒龍江省からも朴総経理を尋ねて来て、この航路を利用して 黒龍江−ウラジオストク−束草航路を開拓しようと申し入れたが、今、協議中だという。 そして中国側は北朝鮮・羅津 と交渉してこの航路を 4ヶ国の人民が利用できる海上黄金海路を開こうと努力している。

一度に 1万 2023トンの貨物と 136個のコンテナを積載することが出来、 519人の人員を積むことができる東春号は、 2000年 4月 28日、初の汽笛を鳴らしながら出航して 5年 6ヶ月、687回航行し、年間 36万人、物資 3万 1000個余りの コンテナを輸送した。 今、東春号には中国人が 20%、韓国人が 40%、ロシア人が 40%、主要物流量は木材品、 農産物、海産物、軽工業品が主流を占める。

5年半の間、東春号は激しい荒波の中で逆境をかきわけて航行した。今後も障害物や台風に会うかも知れない。しかし 既に伝え受け継いだいろいろな困難とその航行の経験を土台として、いくら大きな波が押し寄せても東春号は沈没しな いだろうし、永遠に東方の黄金シルクロードである青い海を走り回って航行するものと信じて疑わない。   

(黒龍江新聞 2005年12月22日)
Copyright(C) 朝鮮族ネット