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[文化] 歴史小説家・金雲龍先生を称える



今年 2月 13日 朝 7時頃, 青島のある病院から金雲龍先生の奥様から緊急で陰鬱な長距離電話が かかって来た。 金雲龍先生が昨日急に倒れて昏睡状態となり、病院で救急治療を受けており、現 在の状態を見る限り希望はないと言うので、私はびっくりした。 金雲龍先生の健康が良くないとい うことは私も知っていたが、春節を何日後かに控えて先生と電話をしたし、彼は自分の随筆集出版へ の熱意が高かった。 それがどうして急に...私が苛立たしさを抑えられずにいると、半時間後の 7時半に奥様からまた電話がかかって来た。少し前に金雲龍先生が心臓の鼓動を止めたというので、 悲しみを抑えることができなかった。 人生というのはまことに分からないものである。

15日午前、金雲龍先生の告別式に参加するために私は青島行を急いだ。 その時は春節期間なので、 長春から青島へ行く汽車や飛行機の便は皆満員だった。 仕方なく私は 14日午前に長春から北京に、 夕方にまた北京から青島へ飛ぶ飛行機の便を選択した。 夕方 8時を過ぎ、私は金雲龍先生の自宅に 入った。 ここは彼が青島へ来た後、最近新たに移ったアパートだ。 浜辺に位置し、景色が優雅で 淡白だった。 雑誌社の方々を連れて青島に一度遊びに来なさいと電話する度に、彼は私に繰り返し 親しく頼んだ。 ところが、今、その人は行ってしまい、神棚が置かれた待合室で彼の肖像画と対面 するようになってみると、胸があまりにも痛かった。

金雲龍先生は通化地区出身の私たちの文壇の影響力ある作家だ。

私が金雲龍先生と初対面したのは 25年前の 1980年夏だ。 その年 5月 “長白山”初号が出版され た後、通化地区はもちろん国内の朝鮮族読者から反応が大きかった。 私たちは第2期 “長白山” をさらにしっかりと作るつもりで通化地区朝鮮族作家の集いを開いた。 この集まりで金雲龍先生は 私に深い印象を残した。 彼は “長白山” 初号に実話文学 “爆破英雄−チョウ・ソンドゥ勇士”を 発表し、今度また “南満での李ホングァン同志”という素晴らしい実話文学を発表した。彼は抗日 闘争史に特別な興味を持ち、既に少なからぬ資料を掌握しており、熱情が高かったので、抗日闘争史 を扱った作品の創作で特別な成果を挙げると私は信じた。 私たち通化地区朝鮮族の文壇にこんな有望 な作家がいるということは、私たちの喜びであり自慢だった。

その年 9月、私たちは第2期 “長白山”を金雲龍先生がいる輝南県朝陽鎮のある民族印刷所で作る事 にした。 印刷作業に私と金テクウォン、金スヨン、韓ジョンイル先生四人が 3、4日間朝陽鎮に滞留 したが、金雲龍先生の熱情的な奨めで彼のお宅に泊るようになった。 一人ならず四人までもが他人の お宅に入るというのは無理だったが、文人友達として、これほどまでに面白くて馴染みやすい彼の固 執に私たちは勝つ術がなかった。 立派な内助者である奥様も非常に熱情的だったし、料理の腕前が 早くて美味しかったから皆賛嘆を禁じえなかった。 仕事をしてお酒を飲んで夜遅くまで続けた話、 今思っても忘れることができない面白くて美しい風景だった。

その時から私たちは友達になり、彼は “長白山”に多くの文を発表し、素晴らしい作品集を出版し て文壇の注目を集めた。 金雲龍先生は民族の使命感と責任感が強い作家だ。 その故郷で壮烈に命 を散らせたチョウ・ソンドゥ勇士と抗日名将・李ホングァンの英雄史蹟は彼の胸を大いに打ち、彼 らの今尚残る息づかいは彼に何かをしなければならないという責任感を感じさせた。そこで彼は彼ら の足跡を手探りし始めた。輝南県から柳河県、通化県へ、通話地区から吉林、延辺地区へ、吉林省か ら黒龍江省、遼寧省へ通い、苦労を楽しく思いながら宝物を掘り出し始めた。 青島へ移住した後、彼 の足はさらに広東、上海、長沙、内モンゴルなど全国各地に移り、韓国へ行っても資料を掘り出すの に精力を注いだ。実際、金雲龍先生の一生は抗日闘士たちの足跡と息づかいを捜す一生であり、彼ら の史蹟と精神を作品化する一生だった。

金雲龍先生は奮闘精神の強い作家だ。 彼の大部分の作品は定年退職する前、課外時間に創作したも のだ。 課外創作と言うのは、常に時間に窮するもので、苦労が多い。金雲龍先生が時間を絞り出す 精神はまことに驚くべきだ。 1980年 9月、“長白山”の四人が彼のお宅に泊った時、私たちは夜中 一時を過ぎれば酒のテーブルをずらして寝床に入ったが、朝に目覚めたら驚くべきことに金雲龍先生 は机に向って既に原稿何枚かを書いていた。彼は僅か 3、4時間目を閉じただけだった。彼はいつも 夜遅くまで文を書いて、また朝早く起きて文を書いた後、出勤をする。 一応構想が熟したら、彼は朝 、夕の時間を利用しても一ヶ月を越えることなく 30万字もの長編一つを出し、私は感服を禁じえなか った。

金雲龍先生は創意力の強い作家だ。 彼は大学を出ていないが、文学理論の知識を十分に吸収した後で 創作を始めた作家でもない。 言語表現も彼の強みではない。 しかし彼は自分が掌握した豊かな史料と 真摯な感情、そして文学に対する苦心惨憺した研究と強い創意力で、自分の創作の道を開拓したし、作 品の金字塔を積んだ。 2002年 3月、韓国ミリネ出版社で出版した大河歴史小説 “広野のアリラン” は彼の創作の最高峰作品だ。 2004年 4月 25日、延吉で開催した “広野のアリラン”研究シンポジウ ムで、学者と評論家たちは彼の作品の成果を高く評価した。

金雲龍先生は自分の最後を創作で燃やした作家だ。 後に判った事だが、彼は 3年前に癌の宣告を受け たと言う。 しかし彼は精神的に崩れなかった。 彼は強い意志で病魔と戦い、精力を創作に没入した。 一年前に彼は雑誌社に随筆を何編か送ったが、死を論議する内容が多かった。 なぜ金雲龍先生が急にこ んな文を書くのか、やや疑問を持ったが、電話をする度に彼の自信感あふれる声を聞いて疑問が消えた。 今考えて見れば彼は文によって自分の人生観を表明し、これで心の平穏を求めたのだろう。 やっぱり胸 の痛む事だ。

金雲龍先生が亡くなった後、彼の霊安室を尋ねる人が多かったし、彼の告別式に参加した人が多かった。 私は通化地区から青島で移住した文人友達の金ゴン先生、ソンウ・リョンファ先生、青島市老人協会で活 躍している孫ウングァン先生、企業を経営している李グァンスさんなど、馴染みの面々から金雲龍先生 に対する彼らの思いを読みとつた。 金雲龍先生が青島へ移住した後の彼は、沿海地区の文人たちを立 ち上がらせる “沿海文学”誌を立ち上げ、ずっと作品創作で活躍し、企業人たちとも連携が多かった。 そして奥様も老人協会で活躍し、彼らの三人の息子と嫁たちも自分たちの職場で仕事をよくやってい たから、青島では好評を博した。 それで金雲龍先生が帰った後、そのように多くの人々が悲しみに沈 んだのだ。

金雲龍先生が亡くなってから 8ヶ月になる今日、私は評論家・金雲龍先生が郵便で送った “金雲龍と 彼の小説研究”というパンフレットを受けて万感がもつれた心情だ。 この本の出版のために金雲龍先 生は在世に多くの心血を傾けたし、彼の霊安室で奥様は涙をこらえつつこの本の出版の関係事項を私 に問い合わせたし、長男フィムン君は本の出版費用は自腹を切ると言ったし、原稿の打字は末の嫁が 責任を負う事にしたという。 多くの人々が参加して金雲龍先生が編著したこの研究集、金雲龍先生が 在世にご覧になれば、どれだけ喜んだことた。人は誰も一度は死ぬものと決まっている。 しかし 抗日闘士たちの精神は永遠なもののように、一生涯を抗日闘士たちの英雄史蹟と貴い精神に捧げた金 雲龍先生は、彼の著書と共に永遠だと私は信じる。 それで私も慰めを感じる。

(吉林新聞 南永前 2005年11月19日)
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