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[文化] 韓楽然とキジル石窟



‘彼はパブロ・ピカソと肩を並べて、現実よりもっと現実的で超現実主義的だった… また、彼は芸術史学者で あると同時に探険家として、クチャ千仏洞で唐初期の透視画と人体解剖図を発見した。 彼の姓は韓氏、名前は楽然。 名前がその人に似ていたし、人は彼の芸術に似ており、彼の芸術はその場所、その時を見つけた。 彼は辺境の同胞 として、辺境地域の生活と文化を最も愛した…’ 20世紀初、中国の著名な美術家である青青は朝鮮族画家・韓楽然 (1898〜1947)が描いたクチァ・シルクロード壁画の模写展示を見てからそんな評を残した。 文中の辺境同胞は画家・ 韓楽然が朝鮮族であることを暗示する句節であった。

青青の賛辞のように画家・韓楽然は韓国ではあまり知られていないが、中国の美術界で近代洋画の大家、シルクロード 文化遺産の守護者としていろいろな美術史の本で言及されている大家だ。 中国延辺で生まれ、中国本土とヨーロッパを 歩き回って絵の腕を磨き、40年代には西域文化遺産を調査することに余生を捧げた。 延辺出身の彼がどんな理由で正反対 の側のシルクロード文化遺産の守護者になったのだろうか。 間もなく <ハンギョレ>に連載されるチョン・スイル教授の シルクロード踏査特集チームが新彊クチャの壁画遺跡を踏査した道はまた、 20世紀初めニ唯一人西域を歩き回った韓国人 だった韓楽然の名残を探る道でもあった。

西域音楽の本場であるクチャは、紀元前後からシルクロード交易の中心地であり、 唐の時代には安西都護府が設置され、 高仙芝将軍(高句麗出身の唐の武将)が西域征伐本拠を置いた所だ。 韓楽然の息づかいを埋めたキジル石窟は、クチャの 市街地から 70 km 離れた山岳谷の中にある。 クチャ市街地から出発して天山山脈の支脈を見ながら峡谷の地形をうねりな がら越えて行く二車線道路を横切り、 1時間余り行くと石窟公園が現われる。 グランドキャニオンのような雄大壮厳たる 峡谷と塩水川が流れる谷を通る道は、西遊記の冒険を思い浮かべるほどに幻想的だ。 この地域の出身で仏経典を翻訳した上 人グマラジバの銅像が立っている公園ドルモリを経て石窟に入ると、感覚的色合いと立体感のすぐれた千仏、菩薩像などの 幻想的イメージたちが目に飛び込んだ。韓楽然の面影は彼が発見した10窟にそっくりそのまま残っていた。 石窟壁に目鼻立 ちの整った彼の額縁肖像と調査の時に来て手ずから残した文等を見ることが出来る。

“1946年 6月 5日に到着して壁画を見て、美しさを感じた。そこには気高い芸術価値があり、各地のどの洞窟にもないものが あった。残念なことに大部分の壁画は外国の考古学者たちが持って行った。 これは文化の大きな損失だ… 古代文化を見つけ 、輝かせるために、参観者の皆さんは特に愛し保護してほしい。” 韓楽然の経歴は波乱万丈と言うにふさわしい。 44年、甘 粛省に居所を移し、キジルと敦煌の壁画を調査する前まで、彼は革命と芸術を並行していた志士だった。

三一運動の影響で抗日運動に飛び込み、23年共産党に入党した後、上海、武漢などで地下組職活動を行い、29年フランスに留 学して、そこで新印象派とダダの画風に影響されてヨーロッパ各地の美術遺産を見て回った。帰国後、国共合作を助けて宣 伝画などを描き、 3年間国民党政府によって投獄され、43年出獄後、選んだ道がシルクロード遺産の研究・模写作業だった。 飛行機事故により死亡する 47年 7月まで、何回もキジルと敦煌の壁画を訪ね、模写及び発掘研究に没頭し、キジルの壁画を初 めて模写しただけなく他のシルクロード遺跡との差異、遺産的価値についての論文も先に発表した。 ヘレニズム風の感覚的絵 画として認められるキジル石窟の美術史蹟の価値を初めて発見し、石窟改修を整理して番号表を付ける作業をしたのはまさに 彼の業績だ。 90年代、初めて国内に彼を紹介した権ヨンピル韓国芸術総合学校教授は “出獄後、韓楽然が西域に向ったのは、 芸術を必需品のように重視し、素材主義・商業主義に迎合することに反対した歴史意識の所産と見なければならない”と語る。

今、彼の面影を残す石窟を尋ねる韓国人はあまりいない。 観客募集が出来ず、シルクロードツアーからそっぽを向かれ、 偶然に来て韓楽然の面影に接するケースが大部分というのが現地人たちの話だ。 チョン・スイル教授は “追念碑石でも 故国に立てなければならないだろう”と言う。共に壁画を模写した仲間チャン・スホンが展示の時に残した故人の文が余 韻として残る。 “…文明は努力しないでただで得たのではなく、文化戦士たちの悲痛な戦闘を経て得た蓄積だ。これは共 有の財産だ…”   

(ハンギョレ ノ・ヒョンソク記者 2005年9月7日)
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