xxxxxxx
朝鮮族通信 中国の朝鮮族に関するニュースポータルサイト Search by Google:
ホーム 朝鮮族概要 地域紹介 政治 経済 歴史 観光 ショッピング コミュニティー お問合せ



[文化] 歴史のベールに隠された白頭山天池傍の宗徳寺



民族の聖山と呼ばれる白頭山天池の傍らに昔から宗徳寺という寺があったことを知る人は多くない。 これだけは 消すことができない歴史事実としてベールの中に隠れてしまった宗徳寺は、まさに天池の水が流れ出る天池東 北側の平たい岩の上に陣取っている。言い替えれば、乗槎河と呼ばれる川を遡り、左側の雄大壮厳な岩の上だ。 今は寂しい旧跡が残っっているだけだが、ひと頃は鐘の音仄かに反日の声高き有名な寺だった。なぜ白頭山宗徳 寺は歴史のベールに隠れてしまったのだろうか?

このベールを剥ぐためには、その昔、宗徳寺をどんな人々がどんな理由で建てたのかを明らかにしなければならない が、今まで国内外で誰もこの由来の問題を解けていないようである。誰がいつ建てたのかという議論も、多くの問題を 抱いている。 宗徳寺の来歴問題を歴史の原型そのままに明らかにすることにより、当時の延辺地区の反日宗教活動 と長白山の人文歴史を正しく理解する上で大きな助けになるだろう。 これはまた長白山観光の重要な人文観光資源の 復旧であるともいえる。

崔時玄が 1928年に建てた?

白頭山の宗徳寺研究に糸口をつけてくれたのは、1985年 2月に内部資料として出版された ‘安図県文物誌'(中国語) といわれる。この文物誌の主要編纂人は延辺博物館の朴リョンヨン、金チョルスなどだ。 彼らは文物誌の第3章・近現 代遺跡遺物第1節で ‘白頭山八卦廟'を扱いながら ‘白頭山天池'という本の記載によれば、八卦廟と呼ばれた宗徳寺 の建築年代は 1929年で、主要建築者はチョウ・ジュクィであるが、1 931年という説もあると言った。 この時、画期的な突破口が見えた。 元・長白山保護局長・李ジュチョルの 1964年の 調査記録を引用したところによれば、宗徳寺遺跡地にある二つの木碑のうち、右側の碑文に ‘崔氏時玄功徳戊辰四 月五日立碑' と書かれていたのだ。 戊辰年は 1928年を示す。 これにより ‘文物誌'は ‘碑石を建てた時期で見ると、 この寺は一番遅くて 1928年に立てられ、寺を立てた人は当然、崔時玄であるはずだ。 (叢立碑的時間看, 此廟最晩建 于 1928年、 建廟人応是崔時玄)'と明らかにした。事実に即しての解釈だといえるであろう。 確かに指摘するべきこと は、建築時期が ‘一番遅くて 1928年'で ‘寺を建てた人はおそらく、崔時玄であるはずだ'というくだりだ。 これは 1928年 に崔時玄が建てたという断定的な指摘ではなく、可能性の指摘に過ぎない。正確な文献資料がなく、断定的に指摘す ることもできないのが実情だった。 その後 1988年 9月に出版された '延辺文物略編'(中国語・延辺人民出版社出版) でも ‘安図県文物誌'のとおりに白頭山宗徳寺を叙述した。 編纂陣が延辺博物館の研究チームだから、そのはずだっ た。 問題はその後の執筆者によって、種々の論難が出ているということだ。

◎ ‘関東第1山長白山'(中国語):

この本は宗徳寺の建築時期の問題で、非常に拙速を極めた。本では初めから ‘該当の資料記載によれば、 寺を 1928年に立てた。'と単刀直入的に指摘した。 ‘一番遅くとも'を取り外してしまった無断の指摘だ。

◎ ‘延辺観光'(中国語):

'延辺観光'は '安図県文物誌'を踏襲していながらも資料の出処を明らかにしないという欠陥がある。また 建築時期に限れば、 '一番遅くとも'をそのまま叙述したが、建築者を崔時玄だと正確に記述した失敗を残した。

◎ ‘安図観光大観'(中国語):

‘安図観光大観'は ‘安図県文物誌'の叙述が気に入らないようだった。 それで宗徳寺の建立時期をいい加減に ‘鑑定と考証を経て、寺を建てた時期を民国初年と認める'と叙述した。 中華民国元年が 1912年だから 20世紀 10年代という話になる。

◎ ‘延辺観光資源と利用'(朝鮮語):

この本では上記の諸本と違う叙述を見せた。 違うという記述は、‘安図県文物誌'で考証したところによれば、 この寺は 1928年 (資料によっては 1929年、1931年となっている)に崔時玄が建てたとしたのだ。 残念だが 上記でもご承知のように‘安図県文物誌'では 1928年だと考証しなかった。 それも ‘安図県文物誌'の考証で はなくて元・長白山保護局長・李ジュチョルの 1964年の調査記録によるものだと指摘した。

上記で見たとおり、観光書になった多くの諸本では、宗徳寺を ‘崔時玄'が ‘1928年に建てた'というところで 混乱を見せた。 指摘したいのは、宗徳寺を立てた時期が一番遅くて 1928年でもなく、もっと早いという点( 下で別に叙述する)、宗徳寺を立てた人が崔時玄だと 100%断定することができないという点だ。

現地調査での崔ソクド老人の口述問題

朝鮮族の歴史、しかも抗日闘争の歴史が専攻である筆者は、去る世紀の80年代中盤以後、延辺の観 光に深い興味を持った。 歴史文化を抜きにしては観光を論ずることができないように、観光は歴史を抜き には出来ないから、両者は双子と考えなければならない。 これによって延辺の人文観光資源になる白頭 山宗徳寺は筆者の関心事になった。 筆者の仲間は抗日老幹部・呂ヨンジュンさんを連れて安図県と敦化市、 撫松県など抗日武装戦跡地を踏査してから、 1991年 11月 15日に延辺最後の抗日根拠地である来頭山を通 るようになった。 その日夕方、来頭山本部落で崔ヨンチョル(当時 65歳)、崔ソクド(72歳)、金ナムシク(60歳、 来頭山老人会会長) の三人の老人を伴って来頭山の開拓史を取材する中、筆者はその年 72歳になる崔ソク ドさんから偶然に白頭山宗徳寺についての話を聞くことになった。

崔ソクドさんの口述によれば、光復直前に日本の人々が白頭山に登って白頭山の植物、動物、天池などにつ いて専門調査をしたが、その時来頭山に住んでいた崔ソクドが荷物運びとしてお供することになった。 調査隊 の日本人たちがおおよそ 50人、警備隊がおおよそ 10人、荷物運びが約 30人だったと言う。荷物運び人達は 米、生活用品など担いで二列になって行き交いながら徒歩で 3日ぶりに白頭山頂に上ったが、日本の人々が 天池の大きさを測定している間、荷物運びの人々は 3日間ほど遊ぶことにになった。 誰かが天池の傍に立て られた宗徳寺を見物しようというので行ってみると、宗徳寺は八角形に建てられていたが、その北側に仏像が 三つほどあったという。 座布団石、椅子形岩も見え、鐘もあり、八角形模様の家の傍にはまたオンドルの私宅 まであったが、日本の人々が投降しながら行く時、宗徳寺を壊そうとして大目玉を食らったと言う。 後に再び行 くと、鐘を割って火鉢を作り、木版に一杯に刻んだ文と石に刻んだ文等が見えた。 筆者が今度の白頭山踏査で 見た岩の字と附合する。 その日の夕方、筆者は崔ソクドさんからまた宗徳寺の由来も聞くことになった。

実は 1986年以前まででも、俗名・八卦廟と呼ばれた宗徳寺は、その名前が明らかではなかった。 ある人々は 崇徳寺と呼び、ある人々は尊徳寺、宋徳寺、宗徳寺と呼んだりした。 ‘延辺文物略編'(1988.9)によれば、 1986 年 9月に寺の跡から宗徳寺と書かれた鉄片の鐘の一部が発見されてから、正式に宗徳寺と呼ぶようになった。 崔ソクドさんは、天池の傍の寺は本来、宗徳寺と呼ばれたとして、20世紀 20年代に北朝鮮北部の ‘旅芸人'一 派が建てたと断定的に言った。

崔ソクドさんの話に従えば、 1910年に日本帝国主義者たちが朝鮮の三千里江山を飲み込んでしまった後、朝鮮 の人たちのサントゥ頭を ‘ちょんまげ'と呼びながら、行く先々ではさみを持ってちょんまげを切られてしまった。 ここ に反日民族情緒の濃厚な旅芸人一派は、日本の人々の体たらくが見たくないとの気持から反日を決意し、長白山 深山に支隊を移す事にした。

その時代に ‘木の生い茂った所が避難所'と言う言葉があったが、松の生い茂ったところが一番理想的なな所だっ た。 それで二道白河を覆い尽くす8ヶ所の松林が旅芸人達の活動舞台になり、来頭山と白頭山の天池の傍に寺を 建てる事にした。 ところが天池の傍と頂上一帯には木がなく、 15里離れた所へ行って木を切って来なければならな かった。 その時、今の北朝鮮三池淵一帯と中国側来頭山の朝鮮移住民たちが多かったが、彼らは知恵を集めて 15里を往復しながら五葉松や紅松を運んだ。 寺の建設は 30人が引き受けた。 天池の傍に寺を作るようになった のは、朝鮮の人々を生かし、日本の人々を滅ぼしてくれるように天地神霊に祈るためだったと崔老人は強調した。

信頼出来る口述で、横の老人達もこれに納得した。 その後、多方面の資料研究と ‘安図県文物誌' 該当資料によ って筆者は、 1992年 9月 12日付 ‘延辺日報' 第2面に ‘天池傍の宗徳寺'という一編の文を載せて、崔ソクド老人 に対する取材を世の中に公開し、朝鮮北部の ‘旅芸人'一派が白頭山宗徳寺を建立したと初めて明確にした。ただ、 筆者は ‘旅芸人'一派が誰であり、何をするのか分からなかった。 分かっているのは、日本の人々を大変憎悪しなが ら反対する反日派たちという点だけだった。 宗徳寺を建てた時期も去る世紀 20年代と言う事だけだった。 また ‘旅芸人'一派の話は文献資料を捜すことができなかったので、崔ソクド老人からのみ少し聞いた程度のものなので 、これ以上掘り下げることができなかった。

宗徳寺は重要な人文観光資源

宗徳寺建造について、こんな話もある。 ‘延辺観光資源と利用'によれば、 1943年 8月、当時、龍井中学の地理教 師で、後に延辺大学校長になった朴ギュチャンは、日本人たちが組織した大型探査隊にまじって白頭山に行っ た時、途中から加わった ‘武人のようなお年寄'から “若い仲間と一緒に 3年という時間を利用して、人が住むこ とができるやや小さいオンドル部屋が付いた宗徳寺を作るようになったが、落成式をした日の夕方、うっかり火事 を起して皆燃えてしまい、再び 1年という時間をかけて今の木材構造の八卦廟を作った。”という伝説のような話を 聞くことになった。 その真実可否はまだ他の資料がないので証明することはできないが、来頭山の崔ソクド老人 の話−‘八角形模様の家の傍に、またオンドルの私宅まであった'と言う歴史事実と附合する。

歴史はあくまでも正しい事実で通じるものだ。 崔ソクド老人の話はこれが真実の歴史であることをよく知らせてくれ る。 筆者は上述した文から ‘安図県文物誌'の ‘崔時玄建立碑'は碑を立てた人が崔時玄であることを意味する だけであり、宗徳寺を建てたこととは別の問題と考える。 したがって石碑建造と宗徳寺の建造を一人が行なった とは考えにくい。

長白山と言うこの観光には、天池の傍の宗徳寺という重要な人文観光資源があるわけだから、長白山観光名所 として再開発しなければならないことを示唆している。 ひと頃、朝鮮族反日志士たちが雲集した白頭山の宗徳寺 ! その旧跡は今日も静かに開発を待つ一方、観光客たちを喜んで迎え、鐘の音仄かだった昔の日を思い浮かべ る。 今度また宗徳寺遺跡地を覆い尽くす岩文字が発見され、なおさらのことになる。   

(黒龍江新聞 リ・ハム記者 2005年8月20日)
Copyright(C) 朝鮮族ネット