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[社会] 中国の中の江原人村

凍土の地に泣きながら植えた `江原アリラン'

江原版ディアスポラ、江原出身朝鮮族、江原道のアイデンティティは江原道の中よりも江原道の外でむしろ鮮かに その姿を現わしている。 江原発展研究員(院長:崔ドンキュ)は、去年の 6月から `在中江原人生活史調査研究'を実施した。

15日、 60周年光復節を迎え、今度の調査結果を通じて中国の中の江原人の過去から現在まで生の軌跡を見てみよう。 <編集者注>

現在、中国には約 200万名の朝鮮族が暮している。 このなかに吉林省延辺朝鮮族自治州に居住する朝鮮族は 82万名と 推定される。 中国延辺大朝鮮問題研究所で実施した `延辺朝鮮族生活実態の調査分析'によれば江原道を故郷とする 朝鮮族は約 4〜5万名に達する。

1937年頃に本格化した集団移住が江原村の形成に大きな影響を及ぼした。この時、江原人の移住は安図県に集中し、 汪清県蛤莫塘等も含まれる。 特に安図県の場合、江原村、原州村、金化村、高城村など名前だけ見ても江原道が浮び 上がる地名を現在まで使っていて、さらに大きな関心を呼ぶ。

今度の調査に参加したリュウ・スンリョル江原大歴史教育科教授は、“江原村、原州村、金化村などの場合、移住当時 の記憶を持つ当事者はもちろん、その子孫さえ会うことが出来ず、切なかった”と伝えた。 数百戸にのぼった江原人た ちは故郷を尋ねて本国へ、 他の朝鮮族居住地域や都市部へと移住してしまったからだ。

しかし安図県永慶郷に位置する `高城村'はまだ 1930年代末移住当時の苦難に満ちた状況を連想させる村として残っている。 この高城村は 1937年 1次集団移住民が入って来た当時、大部分が高城郡出身者たちだったから付けられた名前だ。

高城郡出身の金チョルス(80)さんも 2次集団移民の時に高声村に入って来た。 春川出身の故李ワンガク氏は 1939年 3次集団 移民の時、春川出身の 10戸余りと一緒に春陽に入って来た。

こちらに移住して来た江原人たちは、 1940年頃、抗日パルチザンたちと日帝満州軍の激戦で苦難を経験している。それで高城、 高等、春陽など 3つの部落を集めて 70戸位は春陽村に居住し、昼には元々の地域へ行って農業をして夜には自衛自警団が鉄柵 のように警戒勤務する方針を施行した。

集団部落の構造も村に土壁を積んで刺鉄網と電気鉄網を二重にかけた後、堀を掘っておいて抗日パルチサンが近付くことがで きないように遮断させた。

リュウ教授は “光復後、日本軍が去りながら撒布した細菌で何人かが死ぬとか病気を得たという話もあった”とし、 “1946〜47年頃、中国人中心に編成された土匪たちが朝鮮族を仇のように思いながら苦しめたり殺したので、これを避け て元々高城村に移民に来た住民のかなり多くの数が村を発つようになった”と分析した。

その後 1960年頃、山東省居住の中国人たちが大挙して高城村に移って来て、これらに押し出されるように多数が朝鮮族密集 部落や都市に移るしかなくなった。 金チョルスさんによれば、高城村出身のうち多くの人々が明月鎮や長興村に移って居住 していると把握されている。

アリラン研究のために中国延辺地域をよく通ったジン・ヨンソン旌善アリラン研究所長は、 “江原村、紅旗村、福興村、万宝 鎮など江原道の人々が集団で住んだ村がほとんど解体された状態だったし、何人かだけが残っていて江原道の人々話を聞かせて くれた”と明らかにした。

在中江原人の生涯史を採録調査したチョン・シンジェ前翰林大教授は、 “今度の調査を通じて江原人たちが異国で異国民とぶ つかり、江原人としてのアイデンティティをどんなに活かそうと思ったのか分かった”として、 “江原人たちが住んでいる 村が消える前に、これについての持続的な調査及び研究が必要だ”と語った。   

(文化日報 チョン・ミョンスク記者 2005年8月16日)
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