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[特集] 同胞生活の現場報告書(13)−深

固く団結して明るい朝鮮族社会を構築


▲ 飛躍的に発展する深市中心街の一角

関連ホームページで民族伝統文化を高揚、人材交流、創業、就職、結婚の場を提供

今、広東地域に朝鮮族が約 6万 5000人余り住んでいる。

現在、東莞市で東莞月林家具有限公司を運営している金在光理事長は、去る 80年代の初めに深に建築工程兵 として派遣されて深開発に参加、後に工程部隊全体が会社に切り替わり深に定着するようになったが、 その時の人々が深に進出した最初の朝鮮族といわれる。

1985年から深では全国的に公務員たちを受け入れたが、その時にも朝鮮族が頻繁に入って来た。 相次いで大学を 卒業した朝鮮族の若者たちが卒業配置によって、あるいは就職するために夢を抱いて大胆に進出し始めた。

で 1989年から朝鮮族社会の形成に関心を持った朝鮮族有志の人々と企業人たちが、連合会を立てようと苦労して 来たが、去年 8月 8日に深朝鮮族連合会がブレイクすることになった。 去年 10月 1日から 3日までの国慶節 の休みを利用して、広東朝鮮族第一回運動大会を行ったが、広東地域全体の 5000人余りの朝鮮族が参加した。 開始前に政府関連部門を説得する難しい峠も越え、 3日間の運動大会を何らの事故もなく盛大、多彩、 円満に進行し、政府の多くの部門の認定と賛嘆を催したと言う。 去る 1月 23日にはまた第一回広東朝鮮族文芸公演 行事も成功裏に開催した。

このように盛大で成功的な民族大会を通じ、連合会は広東地域の朝鮮族の位置づけを高め、新しい民族の形を樹立し、 また連合会の発展を大きく推進した。広州、恵州、東莞等でも積極的な協力意思を明らかにし、連合会の範囲はますます 拡大、 元々は深朝鮮族連合会としていた名称を広東朝鮮族連合会に変えた。

広東地域には子に従って移住して来た老人が非常に多く、深だけでも老人会が 3つもある。“年老いた両親たち が故郷を発って他郷でいろいろ不便に過ごしていることが初めは分からなかったが、いつの間にかこんな困難を解決 することが私たちの朝鮮族連合会がしなければならない仕事だということを感じるようになりますね。 誰かがやってくれるだろうとばかり思っていたのに...”と言う崔勇均会長の言葉には、朝鮮族連合会 の設立意志が多分に満ちていた。 彼はこんな感じを、去年初めに友達の親が帰った時、ひしひしと受けたと 言いながら “何とか暮らせる程度になると、老人生活問題、民族子孫教育問題のような民族文化的な面をいろいろと 考えるようになるんですよ。”と内心を打ち明けた。

崔会長は “個人的に故郷に投資をするとか、災害地区に支援をするとか、故郷の学校にコンピューター を寄贈するような良いことをする人が多いが、あくまでも個人行為であって、朝鮮族の総体的な形を見せることが 出来ない”と指摘し、社会的に我が民族の影響力、立場が上がるようにするためには、特定個人の声を持ってしては だめだと言い切った。

広東朝鮮族連合会は先日、事務処を立てて専門人材 2人を置き、本格的に連合会活動を推進している。 現在、 会員が約 80人余りに達するこの連合会は、 8月 8日以前に再選を通じて完全な組職機構を作ることになるという。

最近、この連合会はホームページの構築に尽力している。深の繁華街で梨花院という大きな韓食店を経営する 朝鮮族連合会・金龍洙秘書長は、 “ホームページを通じて民族の歴史と文化伝統、習慣などを宣伝する窓口を 作り、朝鮮族の人材交流, 朝鮮族の企業経営と発展に必要な経済情報の交流の場を開く。 またここに住む朝鮮族 の若者たちが就職、結婚に情報提供システムを作り、朝鮮族社会を活性化するつもりだ”と明らかにし、深にある 延辺日報、聨合ニュースなど民族の言論を通じて、私たちの声も発信し、学校の設立などのような有益な仕事に協力 するつもりだと述べた。

“現在多くの地域別または集団別に、多様な活動を活発に行っているが、それでも考えることはまったく同じです。 集まってする話が皆、民族伝統文化の問題、老人問題、子どもたちの教育問題、朝鮮族の就職、結婚問題ですね。” 崔勇均会長の言葉のとおり、民族心で固く団結した広東朝鮮族連合会が、これからは企業人たちのための 企業家団体としてだけではなく、広東全域すべての朝鮮族がより良く暮らすことができるようにするために最善を尽 くすリーダーとして生まれ変わっている。

北京大学の卒業生が作ったキムチ−深市場を席巻

“北京大学の卒業生がキムチを作っている。”

聞く人によっては笑い話に聞こえるかも知れないが、深には私たちの朝鮮族キムチ一つで市場を席巻する朝鮮族の 企業家がいる。

北京大学地質学部で地球化学を専攻した李学哲(42歳)さんは、学んだ専攻とは非常に距離感のある食品業に身を投じ てから、ほぼ 8年になる。 大学教授であったこともあり、外国会社の営業担当もして見たことがある李学哲は、去る 1997年、故郷である延辺に帰ってから延辺で人気最高のキムチ市場に注目するようになった。

1989年から深で 7年以上も南方生活をして来た李学哲は、こんな考えをして見た。

“南方の人たちは朝におかゆやパンに塩辛などを食べる。 それも塩水にそのまま漬けた四川風塩辛が基本だ。 色合いも良く、発酵食品で栄養価も豊かな我が民族のキムチに四川風塩辛を変えて見ればどうだろうか?”

李学哲は自分の考えを直ちに実践に移して見た。 今までして来た事が食品とは全然無関係だったので、李学哲は先に 延辺で生産したキムチを深に進出させて見ることを決心した。

しかし事業は思ったとおりにはならず、簡単には伸びて行かなかった。 延辺と深は地理的に距離が離れているだけ ではなく、発酵食品であるキムチは運送の途中、冷温処理がまともにできなかったため、脹れ上がって包装が壊れる ほどにまでなった。 深側の売り先と納品契約まで全て完了していた状況だから、定刻に納品できなければ賠償金まで 出さなければならない状況だった。

納品契約を守るために、李学哲は想像も出来ないような判断を下した。深現地にキムチ工場を設立するというのだ。 早いうちに設備と材料を買い、 せいぜい80平米ぐらいのやや小さい家一軒を借りてキムチを作り始めた。 このように無理やりにオープンした企業が 8年間を経て、爽哥という商標で深の塩辛市場で認められるブランド にまで成長する、李学哲なりのノウハウが隠されていた。 初めは延辺のキムチ工場と 1年間の合作形式で技術を伝授 してもらい、少し目処が付くと工場規模を拡大、450平米になる新しい工場に移転、深市韓栄実業有限公司を正式に 設立して自らのブランドでキムチを作り始めた。 2003年 1月にはまた龍崗区に位置する工業区に 5800平米にもなる 現代化工場の建物を引き受け、現代企業への跳躍を実現した。 現在、この企業の研究開発チームが開発した我が民族特色 の濃い食品は 40〜50種類余りにもなり、最近は塩辛とは違う朝鮮族の餅も開発中だと言う。

70人余りの従業員で年間 2000万元の売上高をあげている深市韓栄実業有限公司は、香港への輸出額も 150万香港ドル に達する。李学哲は、会社の発展は今まで一緒に活動して来た従業員たちの功労だと謙遜に打ち明け、従業員を大事に して愛するヒューマニズムの経営理念で企業を導き進むだけでも成功の可能性が無限だと述べた。

朝鮮族連合会の幹部としても活躍する李学哲は、忙しい事業日程にも時間を捻り出して各種の民族活動に積極的に 参加、 不遇な隣人助け合いなどにも少なからぬ基金を出している。

“北京大学の卒業生が作ったキムチならもっとおいしいですね”と言う私たちの笑い話に李学哲は、大学で専業知識 を学ぶことももちろん非常に重要だが、人格の形成と社会に対する認識能力と学習能力を育てることが、より大きな 収獲になるかも知れないと重ねて述べた。  

(アリランジャーナル チ・チョルホ、キム・リョンパ、ユン・ヒョンギュン記者 2005年7月16日)
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