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[社会] 安重根義士、琿春での反日闘争の遺跡発見

遺跡地の発掘・修繕・整理・開発・広報事業の推進至急


▲右: 観光客に安重根義士の生涯を紹介している東北亜経済文化研究所・崔ヨンリン所長(左)
左上: 当時、安重根義士が滞在した農家
左下: 農家の中に安置された安重根義士の肖像と関連写真

1909年10月26日、単身にてハルピン駅で伊藤博文を暗殺した安重根義士が、前年の 1908年に 延辺朝鮮族自治州琿春市敬信鎮で反日闘争を展開するために活動したという消息に接した記者は、 先日、琿春市敬信鎮圏河村を訪ねた。 安重根義士が 1908年4月から 6月の間に住んだ琿春市敬信 鎮圏河村(現・第二村民小組)のある農家は、歳月の余波の中でもう潰れかかって見た目の悪くなった 見窄らしい草家であったが、家の中はきれいに整理されており、安重根義士の肖像と関連写真も奥座 敷に丁寧に置かれていて、安重根義士の神々しい姿が一目で浮かび上がる。

1879年7月16日、朝鮮黄海道海州で生まれた安重根義士は、 1907年に義兵に参加して朝鮮慶興と中 国琿春、ロシア・クラスチノ間を行き交いながら、反日闘争を展開した。 延辺大学教授で北東アジア経 済文化研究所・崔永林所長によれば、安重根義士は琿春一帯を 7回も行き交いながら学校を立てるた めに広報活動をすると同時に、反日闘争と民族独立の大切さを広報した。 1908年4月から 6月の間に 安重根義士は琿春敬信鎮の圏河を中心にした大肚村、九沙坪、防川等で活動しながら、厳鴻燮らの義 兵将校たちとともに反日作戦方案を研究し、 1909年には 12名の反日義士と断指同盟を結成し、その年 9月に伊藤博文のハルピン訪問を探知、 10月 26日に単身にてハルピン駅に至り、伊藤博文を暗殺した。 その翌年、安重根義士は旅順監獄で処刑されたが、当年 32歳だった。

資料によると中国国務院総理を勤めた故周恩来は、 1963年6月28日に北朝鮮の科学院代表団に接見し た時(周恩来の中朝歴史関係に関する談話'外交通信 63,10期')にこのように言った。 "中朝両国は同時に 帝国主義の侵略を受けた。 朝鮮は日本の植民地になり、中国は多くの帝国主義の半植民地になり、部 分的に日本の植民地になった。 この時から中朝両国の人民は革命的同志関係を結んだ......甲午日中戦争 の後、今世紀初に安重根がハルピン駅で伊藤博文を射殺した。両国人民の日本帝国主義に反対する共闘 はこの時から始まった。"

周恩来夫人のケ穎超は '輝く生涯'という文で "私と恩来は朝鮮の英雄が伊藤博文を射殺した事をほめたたえ る '安重根'という演劇を公演した"と叙述した。 歴史資料を検証し研究している崔永林教授は "ノルマン・ベチ ューンも中国の抗日運動を助けてから死亡した後、中国で 'インターナショナリズム戦士−抗日烈士'とほめた たえたが、安重根義士も堂々と 'インターナショナリズム戦士−抗日烈士'としてほめたたえなければならない" と主張、安重根義士がとどまった圏河村の農家を琿春市政府で反日遺跡地に選定し、発掘・整理・修繕・開発・ 広報事業を急ぎ、後世代への反日歴史教育を伝えなければならないと力説した。

記者が調べたところによれば、圏河村第2村民小組には今 4世帯の農民が住んでいるが、この地域は中朝ロ 国境三角区である防川に行く道路の隣、 また北朝鮮の羅津先鋒に行く圏河通商区と向い合っていて、幾多 の観光客たちに反日歴史教育を実施することができる適格地域だ。   

(黒龍江新聞 ユン・ウンゴル記者 2005年7月4日)
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