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[文化] 大河歴史小説家・崔錦山氏の死を悼む

歴史小説の創作に捧げた一生

歴史小説家・崔錦山さんは 62歳の若さで 2005年 6月 15日、急逝した。この時、私は限りない悲しみに沈んだ。 彼の他界は中国朝鮮族文学の大きな損失に違いない。

中学時代、崔錦山さんは朝鮮の名政丞・柳成龍の 18代目の子孫・李ジンサに弟子入りし、老人と同じ部屋で 寝て食事も共にしながら檀君、高句麗、渤海、朝鮮の前三国・後三国の歴史を学び、“李朝実録”と “三国史 記”を数万ページも書いた。

長年間、支部書記として活動し、農業をしている途中、ついに 1981年から創作の筆を握り、 “荘園”、“問わ ずして知ること” などの漫談と歴史中篇小説 “石の隙間に咲いた花”を発表した。

1984年、崔錦山さんは “天の川”雑誌社を訪ねて来た。 背は小さいが柄は雄大で威厳があり、声がこせつ かなくて素朴だった。 その日、私たちは牡丹江のヤンサンド食堂でおおよそ 5時間も、お酒を飲んで古今の 歴史について話したが、彼は中国の 5千年の歴史はもちろん、檀君朝鮮、夫餘、高句麗、渤海、百済、新羅 について氷上を滑るようにぞろぞろ話をするのだった。 歴史についてこのように博識な人に私はまだ会ったこ とがなかった。 見るからに、まさに大作を書き出す天賦のある人材だった。

私は一生構想して来た “高句麗伝”を一緒に書いてみないかと申し入れた。 ここに彼は自分もそれを書こうと 思って既に準備しているとして、気持ちよく承諾した。そして一千万字余りに達する大河歴史小説 “高句麗伝” の創作の幕が開かれるようになったのだ。

この膨大な小説を書こうとすれば、事件が複雑で登場人物も数千名にもなり、歴史の確認と古典地名、環境描写 が必要だった。そしてまず小説を書く前に大量の資料収集と遺跡地踏査をしなければならなかった。

それは苦しいながらもやり甲斐に満ちた踏査の道だった。何年間も、私たちは上京龍泉府、敖東城、八連城、西 古城、集安、太子河、遼河、新城、遼東城、碣石山などを踏破し、北朝鮮、韓国、ロシア、モンゴルなどの国を歩き 回った。はるか遠くの踏査の旅で、私たちは深山幽谷、草屋三間を訪ね歩きながら、楽しい話と香ばしいお酒で 疲れる身をなぐさめつつ限りない夜を明かしながら小説を書き綴った。

その間、私は全身の病気で呻く崔錦山さんを支えながら、白頭山山頂へ一歩一歩歩いたりもした。

創作の波乱万丈たる歳月の中で、崔錦山氏は動脈硬化、大腿骨壊死、座骨神経痛、心臓病などの重病に苦しみ ながらもとうとう創作を完成した。そして今まで私たちは大河歴史小説“高句麗伝”の中の “東明聖王”(150万字)を 出版し、遂に “瑠璃王”(120万字)、 “広開土王”(150万字)、“長寿王”(120万字)の外にも “高麗の亡伊と亡所伊 暴動)(90万字)、 ”壬辰丁酉大倭乱“(250万字)を書き上げた。

最近、崔錦山さんは “乙支文徳将軍”(200万字)のうち 30万字を書いたところで脳出血により、不幸にもこの世を 去った。10年余りの間、彼は疲れてだるくて悲しい時には、獄中でいろいろな悪刑を受けながらも不朽の歴史文献 “史記”を書き上げた司馬遷を思い、鬱憤の中で “離騒”を書いて川に身を投げた愛国忠臣・屈源、二つの膝が切 られてしまうという惨刑を受けてからも苦痛に堪えて不朽の兵法を書き上げた孫(ビン)などの姿を思い浮かべな がら、とうとう小説を書き上げてしまった。

彼が成し得なかった遠大で荘厳な目標を実現するため、これからは私が幼い弟子たちの手を握って力強く歩いて行 かなければならない。

(延辺日報 リム・スンファン記者 2005年7月1日)
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