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![]() [社会] 中国 ‘腫瘍学の父'−金顕宅博士 故金博士銅像に続き記念切手も発行 中国政府が朝鮮族の医師を ‘腫瘍学の父'と称賛し、銅像を立て、誕生 100周年追慕式を通じて業績を称える一方、 記念切手まで発行して話題になっている。 話題の主人公は、中国建国以後初めて天津人民病院に腫瘍科を設立し、中国内の腫瘍学の基礎を確立した故 金顕宅博士。 金博士は 1904年韓国ソウルで 9人兄弟の7番目として生まれた。 彼は 1916年、漢城私立コンオク小学校を卒業、 培材中学校在学当時の 1919年 3月には 3.1 独立運動に参加したことが知られている。 彼はその年 6月、中国上海へ脱出した後、 1926年、北京にある北平協和に進学した。 1931年、大学を卒業した金博士は、大学付設北京協和医院の腫瘍科の開設とともに病院主治医として働いた。 以後、北京協和医院は 1937年、金顕宅をニューヨークの腫瘍センターとシカゴの腫瘍研究所に行かせて腫瘍病理、 腫瘍外科と腫瘍放射線治療を研究させ、イギリス、フランスなどヨーロッパにも留学させた。 1939年、中国に帰って来た彼は、正式に北京協和医院の外科副教授と腫瘍科主任を引き受けるようになった。 1952年、天津市人民病院に中国最初の腫瘍科が設立され、この病院の顧問医師として招聘された金博士は、 60年代からは 抗癌化学療法を実施した。 これは新中国建国以来、最初の腫瘍科であり、この人民病院は後に腫瘍専門病院に変わった。 1963年には中国最初の腫瘍学雑誌である ‘天津医薬雑誌腫瘍学付録'を創刊して編集長を担当し、 1966年文化大革命の時は ‘反動学術権威'という攻撃を受けて約 3年間 ‘労動改造'を受けたと言う。 金博士は以後 1979年には ‘中華腫瘍雑誌' の編集長を引き受け、 1980年、天津人民病院院長、天津市腫瘍研究所所長など を歴任した。 特に 1984年には中国で第1回国際乳癌学術大会を開催し、翌年に ‘中国抗癌協会'を設立して名誉理事長を引き受けた。 彼は 1985年 81歳の年で中国共産党に入党、 1989年 10月天津市で開かれた学術交流会で正式に ‘中国腫瘍医学の父'とい う称号を得た後、 1990年 9月 4日、自分が開設した天津市腫瘍医院で 86歳の年で死んだ。 金博士は他界するまで癌治療医たちを対象にした修練会を 23回も指導し、400人余りの癌医学専門家を育てた。 特に金博士と生前に親しく過ごした当時の天津市長・李瑞環 前政協主席は、 94年、誕生 90周年記念式の時、彼のために 癌病院の中に胸像を立てた。 この胸像には金博士が韓国出身の朝鮮族であることが刻まれており、 ‘徳高くして医術はずば抜ける'という意味の ‘徳高医粋'という漢字成語が碑石に刻まれている。 また去年 4月に天津癌センターで開かれた誕生 100周年追慕式では、金博士の業績を称える記念文集を含め、さまざまな 記念品が製作されて参席者たちに配布されたと言う。 記念文集には金博士の青年期と老年の姿が一緒にしたためられ、 中国簡体字と英文で彼の一代記が紹介されている。 金博士の子孫は 2女 1男で、長女はピアニストとしてアメリカに住んでおり、二番目の娘は中国疾病統制センター官吏、 息子はアメリカで医師としてそれぞれ活動中だ。 (黒龍江新聞本社記者 2005年6月22日)
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